「天が泣いていますね」

 雲一つない空を見上げ、彼女は言った。その声色は他人事のようで、自分のことのように憂いているようで、はたまた呆れているようにも感じられる。恐らく、そのどれもが正しいのだろう。じっと空の一点を見つめるその瞳に、今の世はどう映っているのか。どのような天下を思い描くか。人里遠く離れたこの場所に通い始めて幾年か経ち、彼女との交流を続けてきた荀イクだが、未だに彼女の本質は計りきれない。それでも、今確かに思う事がある。

「雪麗」

 名を呼ばれた彼女は、空に向けていた瞳をゆっくりと荀イクへと向ける。全てを見透かされるような、それでいて全てを理解し、受け止めようとしてくれる眼差し。買い被りすぎなのだろうが、荀イクにはそう思えた。

「私と共に、乱世に立ち向かいませんか」

 彼女ならば。彼女こそが。乱世を鎮め、平穏な未来を築き上げることが出来ると。







「荀イク、荀イクっ。これ、とても美味しいです」
「えぇ、それは良かった。お連れした甲斐がありました」

 動物の形をした飴細工を片手に、雪麗は子供のように眼を輝かせている。此処に来るまでの間にも忙しなくあちこちを見回し、あれはなんだ、これはどういったものか、と興味津々に荀イクの袖を引いては足を止めていた。世俗から離れた暮らしをしていた為か、見るもの全てが新鮮でならないらしい。

 乱世に立ち向かわないか。そう話を切り出した荀イクに、雪麗は二つ返事で答えた。「えぇ、いいですよ」と。まるで散歩への誘いに乗ったかのような返答に誘ったこちらの方が拍子抜けしてしまった。覚悟を決めたものの、それなりに緊張もしていた荀イクは思わず深く息を吐き出してしまったほどだ。
 木の陰で休みながら往来を並んで眺める。ちびりちびりと飴を舐めては時折空に翳して透き通るようなそれを楽しんでいる雪麗。しかし往来を見つめるその瞳は何かを見極めるようにしっかりとしていた。

「この街は生産物が多く、とても栄えていると記憶していたのですが……」

 呆れた溜息を吐いて、飴を咥えた雪麗はじとりとした視線を荀イクへと向けた。若干の戸惑いも含まれたその視線を受けて、荀イクはこくりと頷いた。

「えぇ。ここ許昌は大都市の一つ。人の往来も多く、流通に優れていました」
「それが今では落ちぶれました、と」

 言葉を濁さずはっきりと言った雪麗に、荀イクは苦笑いを零す。しかし事実な故に諌めることも出来ない。

「まぁ……理由はなんとなくわかります」

 剥き出しの岩に並んで座る二人の目の前を一つの押車が横切った。ガタガタと車輪が激しく揺れ、今にも外れて壊れてしまいそうだ。

「まるで獣道のようですね」

 数々の店が立ち並ぶ通りに面したその道は、道と呼べるのかも怪しいほどに荒んでいた。草木が好き放題に生い茂り、中には人の背ほど成長してしまっているものもある。辛うじて人や押車が通れるほどの場所は確保されているようだが、それでも木屑や小石、はたまた二人が腰掛けているほどの大きな岩などが辺りにごろごろと転がっていた。

「そこの店……こんな昼間から閉じてしまっているということは、もう商売はやっていないのでしょうね」

 明らかに人通りが少なく、並んだ店に立ち寄る客も少ない。そもそも、売り物自体が少ない。何とか商いをこなしている店も、客を呼び込む声に覇気が感じられない。中には商いを辞めてしまっている店もあるようで、建物が立ち並ぶ様とは反し、活気が全くと言っていいほどなかった。恐らく、この廃れた街に限界を感じ、他所へと流れた商人が多いのだろう。それでも此処に残っている者は、故郷への愛着を捨てられぬものか、物理的に他所へと移動する術が乏しい年配者たちくらいだ。

「あらゆるものは、人あってこそ。消費者がいるから生産者は物を造り、物があるから消費者が金を回す。金が回れば自ずと生産量は増え、街は栄えていく」

 そのどれかが欠けてしまえば、流れは止まってしまう。そしてその流れを滞りなくこなすには、“道”が必要なのである。

「人がなければ国は成り立たないでしょうに……此処の領主は寝惚けているのですか?」

 所謂領主のお膝元であるこの場所で、雪麗は批判を隠すことなく告げた。本来なら、何処に耳があるかもわからないからと諌めるところだが、そんな心配も杞憂になる程この国は落ちるところまで落ちていた。

「どうやら、昼夜を問わず宴に明け暮れているようです」
「その呑んだくれ、えぇと……名はなんとおっしゃいましたか」
「厳白虎。自らを“徳王”と称しているようです」
「とく……なんて?」
「徳王ですよ」

 雪麗の表情には完全に呆れた色が浮かんでいる。はぁ、と溜息を吐いてから米神を抑えるように頭を抱えた。荀イクとしてもなんとも頭の痛い話である。しかし、だからこそ立ち上がらねばならなかった。

「……長年、世俗から離れて暮らしてはおりましたが、これはあまりにも……これが、我々の故郷ですか」

 雪麗は胸元に両手を寄せ、ぎゅっと握りこんだ。悔しさに耐えるようにきつく目を閉じたその表情を見て、荀イクは痛ましそうに目を逸らす。彼とて悔しいのだ。
 恐らく、廃れてしまったのは此処だけではない。各地が疲弊し、寂れている。それでも何とか立ち直そうと奮闘する賢明な領主もいるようだが、なかなか上手くいかない。私利私欲に駆られて争いを起こす輩が多いからだ。乱戦の爪痕が彼方此方に蔓延り、乱世の収束を長引かせている。未だ大勢力というものが存在していないのが唯一の救いだ。なればこそ、今が好期。この混沌とした世に立ち上がらんとする者は、恐らく他にもいる。それが暴虐非道の徒であれ、徳を重んじるものであれ、大勢力となってしまえば後々交戦は避けられないのだ。一歩二歩先に進まねば、先手は取れない。

「まずは此処許昌から、我々の国を。廃れてはいますが、立つ地は必要不可欠です」
「そうですね。手に入れた暁には、必ずや復興を成してみせましょう」

 そう言って前を見据える雪麗の瞳には強い意思が宿っている。それを以て、荀イクはやはり確信する。

 あぁ、この方ならば、と。