鶯丸は、気付いたらそこにいる。



 新しく買ってもらった絵本を母親に読んでもらっている時。天気のいい日の休日、父親と一緒に庭で遊んだりしている時。近所に住む友達と公園で遊んでいる時。そういう時、鶯丸はいない。いや、もしかしたらいるのかもしれないが、遊びに夢中な少女の視界には入らない。しかしふとした瞬間鶯丸の事を思い出し、その存在を確かめるようにきょろきょろと辺りを見渡していると必ず、「どうかしたのか」と言いながら姿を現す。まるで自分を探しているのを知っているかのように。少女はそれを不思議に思ったことはない。探せば自分の視界に入ってくるし、部屋に戻れば当たり前のようにそこにいる。少女が求めれば、鶯丸は必ずそこにいた。自分が必要になる時を、見極めて過ごしているようだった。少女の視界に入らないだけで、鶯丸はしっかりと少女を見守っていた。その証拠に、少女は幾度となく危険から救われている。







「あっ、ボール!」
「陽和がとってくるっ」

 家から少し離れたところにある大きな公園。中心にはシンボルのような噴水があり、愛犬家達の散歩のコースにもなっている。遊具も多種取り揃えられているそこは車も停車できるよう駐車場も完備されていた。その公園の一角で、少女は近所の男友達とボールを蹴って遊んでいた。その中で一番体格のいい男の子が蹴ったボールが大きく逸れてしまう。ボールが転がった方向に近い場所にいた少女が少年たちに声をかけてボールを拾いに駆けていった。車止めを超えたその先へ進む。傍らに立つ看板には、『飛び出し注意!!』と書かれた文字と車の絵。見慣れた遊び場ではそれを確認する慎重さもなく、ボールに向かって一直線に進んでいく。

「あった!」

 見つけたボールを両手に抱え、くるりと振り返って戻ろうとした瞬間。クンッ、と何かに抑えられるように体が止まり、今まさに進もうとした目の前に通る大きなトラック。確か、新しい遊具を作っている最中だったか。いやそれよりも、目の前で通った大きな車に少女は驚きに身を竦ませた。あと一歩で、轢かれていた。
 落ち着いて自分の体を見下ろすと、肩を覆うように回っている大きな腕。こてん、と後ろを見上げれば、困り顔を浮かべた逆さまの鶯丸が見えた。

「ちゃんと周りを見ろ。危ないだろう」
「あ、うん。ごめんなさい……ありがとぉ」

 鶯丸の腕が解かれると、少女は2度3度辺りを見渡して確認し、少年たちの元へ戻っていった。

 このような事が、何度かあった。池を覗き込んだ時に足を滑らせ落ちそうになった時もあった。咄嗟に首根っこを掴んで阻止したのは当然鶯丸である。この少女は好奇心が旺盛で、少しお転婆さんだったのだ。かけっこで転んだり、泥だらけになって遊んだり、そういった子供ならではの小さな手間ならそのままにしておくが、大怪我に繋がりかねないような事は、阻止していた。それとなく、危ないと感じた場所には行かせないようにも配慮していた。

 つまりこの鶯丸は、四六時中常に少女の傍にいるわけではないが、常に危機から逸らす意識を向けている分には過保護であった。







「――ちゃん、今日のおやつはシュークリームよ」
「やったぁ!」

 なんの変哲もない会話。しかし鶯丸には、その会話の一部にノイズが聞こえてしまう。まるで鶯丸に聞こえないように、隠しているように。
 隠されているのは少女の名前だった。少女が両親に鶯丸の事を話す前から幾度も呼ばれている名前。両親が知った後も、それは変わらなかった。両親は、鶯丸が悪い存在ではなく娘を守っていてくれている神様のようなものだとは感じていたが、無知であった。故に、神に真名を知られてはならない理由も知らない。少女もだ。では何故名前がノイズで隠されているのか。それは、鶯丸の神格と少女の持つ霊力によるものだった。
平安中期に生まれた鶯丸は、所謂付喪神という存在だった。しかし神という名を持ってはいるが、神の末端……一番低い神格であったのだ。
 神が真名を知るという事は、魂を縛られる事と同義だった。生きている時は勿論、死んだ後も縛られる。名前とは、それ程大事なものなのだ。しかし、神々全てが操れるというとそうではない。その例外が鶯丸のような付喪神である。低い神格である付喪神は、“適当に聞き入れた”名前では魂を縛ることが出来ない。その名を持つ者から直接真名を“与えられなければ”、魂を縛ることが出来ないのだ。
 対して少女は生まれながらにとても清く膨大な霊力を持っていた。少女は己の強大な霊力を持って無意識に自分の名前を隠していたのだ。存在としては神である鶯丸の方が遥かに格上ではあるが、能力の方に差ができていた。神としては下位にあたる鶯丸と、計り知れない膨大な霊力を生まれながらに持つ少女。その差が、名前を覆うノイズであった。



「名前で呼んでくれないの?」

 ふと、思い浮かんだ疑問だった。鶯丸が名前を知らない理由、神の名を持つ者に真名を教えてはならない理由、そして鶯丸が付喪神という存在であることすら知らない少女は、ただただ純粋な疑問として聞いた。

「知らないからな」
「――、いってない?」

 少女が自分の名前を教えようと口を開くが、すぐに大きな掌に阻まれて塞がれてしまう。どうして?と首を傾げて口元を覆う手をてしてしと叩くとそれはすぐに外される。

「なぁに?」
「俺が普通の人ではないことは、わかるか?」

 話し始めた鶯丸の目は真剣で、すぐに、これは大事な話なんだとわかった少女は、少し間を空けてからこくりと頷いた。それから鶯丸は、少女がわかりやすいように言葉を砕きながら、わかったと頷くまで根気よく話した。



自分は人のような姿をしているが人ではなく、神様と呼ばれる存在である。
神様と呼ばれるものは不思議な力を持っていて、名前を知っているだけでその人の心(鶯丸は魂と言っていた)を奪うことが出来る。
神様と心が繋がってしまった時点で、今生きている世界では心が浮いた存在になってしまう。つまりは、普通の人ではなくなり始めるということ。
人ではなくなり始めると、今普通に過ごしている世界では生きづらくなってしまう。
生きるためには、心を繋げた神様と“神域”と呼ばれる場所に行かなければならない。
当然そこに普通の人が入れるわけがなく、少女の大好きな父や母、友達にも会えなくなってしまう。
今までそばにあったものが、全てなくなってしまうのだ。



 少女は難しい話に顔を歪ませながらも必死に話の内容を理解しようと真剣に聞き入っていた。が、両親や友達に会えなくなってしまうという話を聞いて、驚きに目を見開いた瞬間ぶわりと涙の膜が張った。

「……だから、俺に教えては駄目だ」

 泣くのを堪えながらゆっくり、ゆっくりと頷いた少女は、しがみつく様に鶯丸の腰に抱きついた。ズッと鼻を啜るような音が聞こえる。ぽん、と頭に添えた手でくしゃりと髪を撫でてやりながら目を細めた。少女が顔を埋めたまま、「でも……」と言葉を発した。

「パパとママと、あえなくなっちゃうの、ヤだ……でも、鶯丸とはなれるのも、やだぁ……」

 イヤイヤをしながら頭を押し付けている。愚図り始めたその様子に鶯丸から表情が消える。しかし、顔を埋めたままの少女にはそれは伝わらない。

「……どうして、俺が離れると思った?」
「ぐすっ……鶯丸、かみさまなんでしょ?だから、いつか、いなくなっちゃう……」

―みんなみたいに、わたしも鶯丸が見えなくなったらヤだっ……

 遂に少女は声を上げて泣き出してしまった。両親と離れたくない。でも鶯丸と離れてしまうのもいやだ。鶯丸の話は、まるでどちらかを選べと言われているようで、幼い少女の頭では上手く考えることが出来なかった。どちらかが自分から離れてしまう。最終的には、どちらも自分から離れてしまうのかもしれないというとこまで考えてキャパシティがオーバーした。
 泣き出した少女を宥めるように撫でる手つきは何処までも優しい。だがその手つきに反して鶯丸に表情は、無い。



「……なら、“印”をつけようか」



「……しるし?」
 涙の跡を残しながら少女が顔を上げると、そこには”いつも通り”に柔らかく微笑んだ鶯丸。

「印があれば、俺はすぐにお前のそばに行ける。俺が見えなくなるということもないだろう」

 少女の持つ霊力的に、将来見えなくなるという事は恐らくないが。

「……すぐきてくれる?」
「強く望むならな」

 少女は暫し鶯丸の顔をじっと見つめたあと、お願いしますと頭を下げた。しかし頭を上げた瞬間、少し不安そうに眉を寄せていた。「……いたい?」と呟かれた言葉に鶯丸はきょとんとして、可笑しそうに表情を破顔させて笑った。どうやら、“つける”と聞いて物理的なものだと思ったらしい。

「痛いことなんてないぞ。寧ろ分かりづらいくらいだ」
「……わからないのに、これるの?」

 今度は別の意味で不安になった。
 目を閉じろと言われ、素直にそれに従うと目元を何かで覆われた気がした。いつも頭を撫でてくれる優しい手と同じ、それ。それを思い出すと不安だった気持ちがすとん、となくなって一気に落ち着いた気持ちになった。
 暫くしてその手が外され、目を開けろと言われて瞼をゆっくりと上げてみる。目の前には鶯丸。何も変わったことはない。

「……つけた?」
「あぁ」

 ぺたぺたと自分の顔をくまなく触ってみる。何もわからない。見なければわからないのだろうかと窓に映る自分に目を向けてみた。やはり、よくわからない。

「その印は俺にしかわからないからな」
「鶯丸だけ?」
「あぁ。だから、これは俺とお前、二人だけの秘密だ」

 声を潜めておどけたように鶯丸は言った。鶯丸がつけた印というものがどんなものなのか全くわからなかったが、“二人だけのひみつ”という言葉は、幼い少女には甘美だった。嬉しそうに表情を輝かせて元気いっぱいに頷いた。
 涙の痕が滲んだ目。濡れた大きな瞳に、うっすらと浮かび上がるそれ。


花と鳥をあしらった模様。
梅と、鶯。

 その模様は黒曜石のような瞳にゆっくりと溶け、見えなくなる。それを確認して、鶯丸はわからないようにうっすらと目を細める。


「これで、いっしょにいれる?」
「あぁ、お前が何処に遊びに行っても、見つけられる」



 鶯丸は、自分は気が長い方であると自負していた。性格もお気楽なもので、何もしない時間も嫌いではなかった。いや、好き嫌いというよりも、何もしないで過ごすということは、鶯丸にとっては当たり前の日常だった。
 生まれてからずっと宝物として愛でられ、飾られ、過ごしてきた。幾度となく主人を変えても尚、それは変わらなかった。そしていつしか、刀の時代が終わった。鶯丸は一度も、刀として主に振るわれることはなかった。
 しかし、それを物悲しく思ったことはない。寧ろそんな自分を誇りにすら思っている。鶯丸は、自分の在り方をよくわかっていた。伊達に千年の時を過ごしていない。そして、それはこれからも変わらないのだ。鶯丸は、“鶯丸”として初めて意識を持ち始めた時からわかっていた。自分には、時間がたっぷりある。それこそ、一年という時が瞬きのように感じてしまうほどに。
 だが、少女は違った。ただの人間である少女の時間は、一瞬だ。鶯丸に比べれば。だから、待つことにした。



「……俺は気が長い方なのでな」



 少女が自分の元に落ちてくる時を。