平野は水を張った桶を持ちながら一の丸の廊下を歩いていた。動くたびに水桶からちゃぷちゃぷと小さな波が立つ音が聞こえる。歩いていると、前方から燭台切がやってくるのが見えた。
「おはようございます、燭台切さん」 「おはよう、平野くん」
時刻はまだ朝方。朝の挨拶で擦れ違うところで、燭台切が足を止めた。
「そうだ、今日の出陣はお休みだから、好きに過ごすと良いよ」 「わかりました。鶯丸様に止められたのですか?」 「実はね……ちょっと焦っちゃったのかな、カッコ悪いよね」
そう言って燭台切は苦笑いを浮かべた。実のところ、最近一週間ぶっ続けで出陣をしていた。当然単騎で出るわけもいかず、部隊長である鶯丸と平野も一緒だ。確かに練度差を埋めたいところではあるが、時間が出来れば出陣しようと言い出す始末。この燭台切は割と好戦的らしい。誉れのお陰か誰も疲労は溜まることはなかったが、三人が出陣している間、主は一人でお留守番状態である。少女は何も文句は言わなかったが、流石に鶯丸が見兼ねて苦言したらしい。
「我々と鶯丸様ではまだ練度の差がありますからね」 「うん、それもそうなんだけど……」 「? ほかに何か?」
平野が不思議そうに聞くと、燭台切は少し恥ずかしそうに頬を掻いた。
「その……鶯丸さんって、僕にとっては備前刀の祖みたいなもので。一緒に戦場に立てると思うと、気分が高揚してしまってね」
そう言う燭台切は少し嬉しそうに目を細めていた。今でこそ「鶯丸さん」と気軽な呼び方をしているが、戦場では「鶯丸様」と敬意を持って呼んでいるのを知っている。ただの刀であった頃では実現できなかったことだ。成る程、兄を持つ平野もその気持ちがわからなくもない。
「ゆっくり行きましょう。僕たちは同じ本丸の仲間なのですから」 「……うん、そうだね」
お互い視線を合わせてふふ、と笑い合っていると燭台切の視線が平野の持つ水桶に向けられた。
「主のところかい?」 「あ!そうでした。そろそろ主がお目覚めになる時間ですので」 「来る頃に合わせて朝餉の出前を取っておくよ。今日は洋風でもいいかな?」 「はい、構いません」
この本丸の食事は今のところ出前が多い。燭台切も、以前言っていた通りに簡単な食事を作ってはくれるが何分作れるのは和食のみ。レパートリーも少なく、こうして出前を取って味の勉強をしている最中なのである。
*
燭台切と別れ、主の私室へと戻る。床に膝をついて水桶を置き、障子を開くと布団の上で上体を起こしてぼーっとしている少女がいた。
「小梅様、お目覚めですか。おはようございます」 「…んぅ……」
平野に呼ばれ、少女がゆっくりと顔を向けるが、その顔は寝起きそのものでぼんやりとしていた。水桶を持って近付き、眠気を飛ばそうと目を擦る手を制して髪を整える。
「さぁ、こちらで顔を洗いましょう」 「うん……」
ゆっくりとした動作で水桶に近付き、手を入れる。暫し手を突っ込んでぼーっとしている間に平野が少女の布団を片付けていると、その背後で漸くばしゃばしゃと水が跳ねる音が聞こえた。それが数回繰り返され、布団も片し終わったところで手拭いを持って近付くと、すっきりとした表情を浮かべた少女が平野を振り返った。
「おはよう、平野!」 「はい、おはようございます」
にこりと笑って答えながら使い終わった水桶を廊下に下げると、今度は衣装箪笥へと近付く。顔を拭いた手拭いを持ちながら少女もとてとてと平野に寄り添った。
「今日のお召し物はどちらになさいますか?」 「んー……これ!」
少女が手に取ったのは黄色のワンピース。イロハに着任祝いで貰ったものだ。
「こちらですね。では、お召し替えをなさっている間に桶を片してきますね」 「はぁーい」
少女が選んだ衣服が和装の場合は平野が着付けを手伝うが、洋装の場合は一人で着ることが出来る為廊下で待機している。この本丸に顕現されてからまだ二週間と経っていないが、少女の懐刀として身の回りの世話がとても様になってきた。
「平野です。お召し替えは済みましたでしょうか」 「うんっ」 「失礼いたします」
すす、と障子を開けると平野を見た少女がくるりと一回転してみせた。ふわりと丸い襟元に、腰には大きなリボン。袖や裾にはフリルが施されたオレンジに近い黄色のワンピースだ。
「よくお似合いです。可愛らしいですよ、小梅様」 「えへへーっ」
平野が褒めると、少女はふにゃりと表情を綻ばせた。
「では、朝餉に参りましょう。お手をどうぞ」 「はーい」
平野に手を引かれながら部屋を出る。私室が一番奥にある為長い廊下を越えていると、一の丸と二の丸を繋ぐ渡り廊下で少女が歩みを止めた。
「? いかがなさいましたか?」
私室を出た時点で僅かに感じていたそれ。渡り廊下についた今ははっきりと感じることが出来る。少女は周りをきょろきょろと見渡したあと、平野へと視線を合わせた。
「いーにおいする」 「朝餉の匂いでしょうか?」 「んーん。ごはんじゃなくて、あまいにおい?」 「あまい……?」
少女の言葉に首を傾げた平野だったが、少女と同じように辺りをくんくんと嗅いでみて直ぐにあぁ、と納得した。
「これは金木犀ですね」 「きんもくせい?」
少女が本丸入りしたのは九月中旬。暦通りの四季を本丸に合わせているため、丁度時期である花が咲いたのだろう。渡り廊下からは確認出来ないが、何処かに金木犀の花が咲いているはずだ。平野の説明を受けて、少女はうっとりと目を細めた。
「いーにおいだねぇ」 「ふふ、そうですね。では、朝餉の後に探しに参りましょうか」 「いくー!」
*
朝食後は平野の淹れたお茶で四人がまったりと広間で団欒していた。燭台切は食べた食事のメモを入念に取っている。初めて食べたものの味を忘れないようにしているらしい。そうして幾度か勉強した後に挑戦し、味の再現をするのだ。今のところ成功したのは肉じゃがである。その向かいで少女はメモを覗き込んでいると、ふいにあっと声を上げた。
「どうした?」 「きんもくせい!」
静かに茶を嗜んでいた鶯丸が声を掛けるとそんな答えが返ってきた。次いで、平野があぁと納得した。
「どうやら庭に金木犀の木があるようで。小梅様はその香りが気になっているようです」 「金木犀かぁ。良い匂いだよね」 「ね!小梅もすきーっ」
メモを止めて燭台切も会話に参加する。ねー、と少女と笑い合っているとその隣で、鶯丸は湯呑に視線を落として思い出したように言った。
「確か、金木犀で花茶が作れたな」 「おはなのんじゃうの?」 「あぁ、香り付けで混ぜるんだ」 「ふぅん」 「うーん……流石に花茶の作り方はわからないなぁ」 「作り方を調べてみては?」 「そうだね。小梅ちゃん、端末を貸してもらってもいいかな?」 「いいよー」
端末を渡すと、再び燭台切はメモを取る体制に戻った。それを横目で見ながら少女は最後の一口を飲み干すと、隣に座る平野に向き直った。
「探しに参りますか?」 「うんっ!」 「湯呑は俺が片しておこう」 「宜しくお願いします」 「いこー、平野っ」 「はい」
先程とは逆で、少女の方が平野を急かすようにぐいぐいと手を引いて広間を出て行った。その背を見送って、鶯丸は微笑ましそうに笑った。
少女と平野は庭にいた。探すと言ってもこの本丸内はとても広く、庭も同様に広い。
「どこかな?」 「金木犀はとても香りが強い花ですから、香りだけで探すのは大変かもしれませんね」 「においいっぱいする」
庭に降りてみると、金木犀の香りがとても強くなった。庭の何処かにあるのだろうが、先程から吸い込むように香りを嗅いでいるために慣れてしまい、四方八方から香りが漂ってくる感覚がする。
「どんなおはな?平野しってる?」 「はい、花弁が小さな花ですよ。……あぁ、小梅様がお召になっている服と同じ色をしていますね」 「きーろ?」 「黄色と言うよりは、橙色ですね」
平野の言葉に少女は自分の姿を見下ろす。ワンピースの裾を掴んで持ち上げるように見ている為、平野はさりげなく裾を下ろしてやる。
少女のワンピースの色……橙色の小さな花弁を目印に庭を探しまわることになった。探してみて気付いたが、どうやら金木犀以外にも色んな花が咲いているらしい。中には黄色い花もあって、これかと思って近付いては香りの違いに落胆していた。地面に咲くような小さな花ではなく木になる花なので、なかなか見つからないことに平野も首を傾げた。そして、もしやと一つの考えが浮かび、見つからないことにしょんぼりと肩を下ろしてしまった少女の手を引いて歩き始める。
「どこいくの?」 「金木犀のところ、ですよ」
向かった先は資材が保管されている倉庫。4つの資材がまとめて保管されているそこは倉庫というには立派な造りをしている。それなりに高さもあり、小さめの木ならばすっぽりと隠れてしまうほどだ。その入口を通り過ぎ、裏手に回る。一段と、金木犀の甘い香りが強くなった。
「あ……きいろのおはな!」 「これが金木犀ですよ」
倉庫の裏には数本の金木犀がなっていた。その地面には橙色のカーペット。気落ちしていた少女の表情が一瞬にして明るくなり、嬉しそうに金木犀の木に走り寄った。
「きんもくせいだー!」
少女は嬉しそうに金木犀の周りでくるくると飛ぶようにはしゃいでいる。それを傍で控えながら見ていると、地面を踏みしめる音が背後で聞こえた。
「これは見事だな」 「鶯丸様、燭台切さん」 「やぁ、平野くん。それにしても、綺麗だねぇ」 「はい、とても。主も嬉しそうです」
並び立つ数本の金木犀の間を駆け回っていた少女は鶯丸たちが来ていたことに気付き、こちらに寄ってきた。
「ね、きんもくせいだよー!」 「あぁ、そうだな」 「いいにおい!」 「そうだねぇ。倉庫の影にあるのが勿体無いよ」
鶯丸の腕をぐいぐいと引っ張るので皆してそれについて金木犀に近付く。四人で金木犀の木を囲んで見ていると、少女が燭台切を見上げた。
「おちゃできる?」 「ん?あぁ、花茶ね。作り方はわかったよ。上手くできるかわからないけど、やってみようか」 「うんっ!」 「それは楽しみだな」 「茶菓子は何が合うでしょうか」
四人でわいわいと話していると、金木犀の香りを運ぶように風が吹いた。枝が揺れたのに合わせて橙色の花弁が離れ、ふわりと舞う。風に身を任せた花弁は、傍で話していた少女の頭に彩るようにたどり着いた。それに気付いた鶯丸が目を細め、花弁を払おうとした平野を制して少女を金木犀の木の前に立たせる。少女は不思議そうな顔をしながら大人しく三人に向かい合うように立っている。
「まるで金木犀の精のようだな」 「あ……ほんとですね」 「同じ色の服を着ているから、余計にそう見えるねぇ」
しみじみと話す三人に首を傾げる少女。すると、先程よりも強めの風が再び金木犀の葉を揺らし、少女の頭に降り注ぐように橙色の花弁が舞い落ちる。
「わぁっ!」 「はは!どうやら金木犀も嬉しいようだなぁ」
ぱらぱらと頭に落ちてくる花弁に驚いた少女だったが、目の前にいる三人が楽しそうに笑うので、思わずつられて笑顔を浮かべる。
「えへへ……小梅もうれしい!」
その後、一頻り金木犀の花見が済んだ四人は花弁を少々拝借し、室内に戻っていった。燭台切が作った金木犀の花茶は無事完成し、本丸内では大好評だった。
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