座布団を二枚に重ねた上に座り、少女は目の前の巻物を見ていた。少女には読めなかったが、巻物には『函館』と書かれている。こんのすけに促されるままにそれを開くが、中は真っ白だった。


「こんこん、まっしろだよー」
「最初はどれもそのようになっておりますよ。さぁ、紙に手を触れてみてください」
「こう?」

 ぺたり、と小さな手を巻物に落とす。すると、手が触れた場所からじわじわと色が浮かび上がり、それはやがて巻物全体に広がっていく。あっという間に真っ白だった巻物に浮かんだそれは、山々や木々を中心に描かれた絵だった。正確に言えば、地図である。そこにぽつりと凸方のマークが点在しており、所々によっては線で繋がっている。

「研修で見たものとは違うようだな」
「今は液晶型が主流となっておりますから。しかし最初の戦闘だけはこちらを用いさせていただきます」
「小梅、こっちのほうがすきー!」

 研修で見たものはこれが液晶に映されたものだった。指で操作するだけで簡単に次々と画面が切り替わりスムーズに出陣や戦闘が行われるそれは近代化によって開発されたものであり、今ではそれを使用することが多い。巻物を使った方法は昔ながらの手法である。しかし、機械とは度々不都合が起こりうるものである。その為、いざという時のために最初の戦闘だけは昔ながらの巻物を使った方法を覚えさせるのだ。とは言っても、殆どの審神者はそれ以降使う事はないのだが。
 しかし、少女は巻物の方が好みらしい。どうやら絵が浮き出てくるのが楽しいようだ。

「さいしょが、ここね?」

 青い色をした凸マーク。その場所がその戦場での自軍拠点になる。そしてそこから線で結ばれた先にある赤い色の凸マーク。これは予想される敵の位置である。一本道で全て繋がっているわけではなく、道が枝分かれしているのはその為だ。そしてそこまでを結ぶ線は、戦場を行軍する刀剣男士たちが歴史に干渉せずに済むルートであり、長い時間をかけて歴代の審神者や刀剣男士たちが作り上げてきた道だ。そしてそれらの経験を元にこの地図を作成したのが政府である。

「一度進んだ道は戻れませんので、分かれ道はこちらの賽で行軍する方角を決めていただきます。審神者様、刀剣男士様のどちらが持たれても大丈夫ですが……どうしますか?」
「小梅やりたいっ」
「それは一つしかないのか?」
「今は。しかし今後の進軍方法によっては手配することが可能ですよ」
「そうか。ではこの進軍が終わったら手配しておいてくれ」
「かしこまりました」

 ころん、とこんのすけが差し出したのは12面の賽子だった。賽子に刻まれた字は少女には読めない。隣で少女が12面の賽子をころころと転がしているのを横目で見ながら鶯丸はさて、と立ち上がった。

「では早いとこ終わらせようか」
「小梅もいってい?」
「見送りをしてくれるのか。じゃあ、鳥居まで頼もうか」
「うんっ」

 ベルトから下がる金属の佩緒にパチンと己の本体を佩く。戦場へ向かうために鳥居へと進む鶯丸の後ろをとてとてと小さな足音が追いかける。その手には先程の賽子がぎゅっと握り締められていた。

 初めて、鶯丸が自分から離れていってしまうわけだが、不思議と少女は落ち着いていた。鶯丸が向かう場所が危ない場所だとは知っていたが漠然としたもので、少女にはいまいちピンとこない。それでも、少女には不安の色はなかった。鶯丸は絶対に自分のもとに帰ってくると信じて疑わなかったから。例えるなら、少し出掛けてくると近所へ外出するのを見送る感覚だろうか。そして、鶯丸の方もそれを理解していた。少女は自分を疑わない。絶対に帰ってくると確信している。自分はその信頼に全力で応えるだけだ。

 子供というのは大人の感情に敏感である。少しでも不安の色を滲ませれば、それはあっという間に子供に伝染する。長いこと少女と共にいる鶯丸はそれを知っていた。だからこそ、少女に見せるのは余裕だけ。不安など与えない。

「出陣してくる」
「うん、いってらっしゃい!」







 さて、鳥居の向こうへと消えていった鶯丸を見送った少女は審神者部屋へと戻っていた。机に広げた巻物をじっと凝視している。すると、最初の拠点にあった青い凸マークが一番近くにある赤い凸マークへと近付いた。バチンッと火花が散る。開戦の合図だ。

「鶯丸、がんばってね。小梅、まってるね」







「ふむ……足がないのは少し不便だな」

 戦場についた鶯丸は最初の拠点から早々に離れ、一つ目の開戦区へと歩みを進めている。初めて訪れた地ではあるが歩みに一切の迷いはない。何度も行軍したと思われるそこはすっかりと道が出来上がっていた。しかしどうやらそれは開戦区へ向かう刀剣男士達用の道標のようで、通り過ぎた道を振り返ればそこに足跡など一切なく、むしろ草が生い茂り道を探すのが困難な状況になっていた。成る程、戻れない一方通行とはこういうことか。つまり、遡行軍に刀剣男士達が向かってきた道を悟られないための知恵だ。先人たちの努力の賜物、というわけだ。まぁ、こちらとしては逃げ道が絶たれているわけだが。

 足を進めるにつれ、ピリピリとした緊張感が肌に刺さる。これは、殺気だ。歩みを止め、草陰へと身を潜めて前を見据える。すると、黒く澱んだ地面からこぽり、と何かが浮かび上がる。段々とその勢いは増し、ゴポゴポと醜い音を立てながら黒い地面から現れた異型の姿。それこそが、刀剣男士達が倒すべき相手であり、歴史修正を目論む遡行軍である。現れたのは短刀二振りだ。

 とにもかくにも、まずは索敵である。とは言っても2対1という、お互い陣形も何もない程に少数精鋭なわけだが。索敵を終わらせたところで、ふわりと少女の霊気を感じた。感じたと思ったと同時に脳内に主の声が聞こえてくる。

『きこえる?』
「あぁ。相手の陣形は鶴翼陣のようだな」
『かくよく』
「鶴の翼、だ」
『つる!とりさんね』
「相手が鶴なら、こっちは?」
『小梅しってる!おさかなだよっ』
「魚鱗陣だな、わかった」

 施設での勉強の成果か、主はすらりと有利陣形を応える。陣形指示を受けると、感じていた少女の霊気が途切れた。きっと今頃、賽子を握り締めながら巻物をじっと見つめていることだろう。







 結果的に言えば、まぁ、鶯丸の圧勝だった。

「骨がないな。いや、骨のような姿はしているが」

 鶯丸にとって、これは初陣であった。しかし、戦闘自体は初めてではなかった。本丸入りするまでの一週間、只管演練を繰り返していた鶯丸の練度はそれなりに上がっていた。勝ちを得たことはなかったが、他に得るものは大きかった。対戦してきたのは最近出来たばかりの本丸が殆どだったが、場数は向こうのほうが踏んでいる。練度も上だ。常に6対1の圧倒的不利の状態でいた。毎回同じ相手ではないため、戦い方も様々だった。

 つまり、自分より強い相手と幾度となく刃を交えてきた鶯丸にとって、付喪神である刀剣男士より劣り知能のない遡行軍の短刀二振りなど、最早敵ではなかったというわけだ。

 本来ならば、初期練度の打刀が単騎で訪れるこの戦場。通過儀礼のようなものだったが、一つ目の開戦区で重傷になり本丸に帰還するまでが通常の流れだった。例に漏れず、鶯丸も刀装は付けていなかった為、一体を相手しているうちにもう一体から攻撃を食らってしまったが、元々打たれ強い太刀である。加えて初期練度ではなく、それなりの練度にまで上がっている。二撃目を受けることはなく、一太刀で敵を沈めてしまった。

 ようは、軽傷にすら陥ることなく一戦目を終えてしまった。その為、緊急帰還の状態にもならない。

「まぁ、取り敢えず進むか」

 ヒュッと刀に付着した血を払い、鞘に納める。二つ目の開戦区を目指して進んでいると、分かれ道に到達した。進軍先を決める賽子を持っているのは主である。そして、振った賽子で決まった進軍路をどうやって伝えるのだろうか。先程のように声でもかけられるのかと暫し分かれ道で立ち止まって待っていると、一方の道が音を立てずに消えた。瞬きをしている一瞬の間だった。

「成る程、進軍先を削って教えるわけか」

 残されたもう一方の道へと足を踏み出す。すると、バチンッ!と大きな音を立てて何かが弾けた。咄嗟に辺りを見渡すが何もない。嫌な感じはしないため、何かの合図なのだろうか。気にしつつも再度足を進めていくと、先程とは比べ物にならない殺気を感じた。この地を支配しているもの、だろうか。つまりは函館に蔓延る遡行軍の大将ということになる。鶯丸は本能でそう感じた。

「大包平なら喜ぶだろうが……まぁいいか」







 少女は鳥居の前でそわそわと落ち着きなく歩き回っていた。つい先程鶯丸が函館の大将を倒し、帰還の合図として地図上の青い凸が消えた。攻略した進軍地には刀が交差したようなバツマークがついている。そしてその地の大将を倒したことによって次の進軍地が拓けたらしく、避けてあったタイトルのない巻物の一つに文字が浮かび上がった。そこが次に進める進軍地らしい。

 鶯丸が帰還すると聞いて、少女は駆け足で鳥居へとやってきた。演練と違い、戦っているところは見えなかったがどうだったのだろうか。鶯丸が帰ってきたら、おかえりなさいを言おう。

 落ち着きなく待っていると、鳥居の中心部がゆらりと揺れた。ハッとして近寄ると、揺れたその部分から鶯丸が出てきた。鶯丸の体が完全に鳥居を抜けた瞬間、少女は鶯丸の足にはしっと抱き着いた。そして顔を上げ、満面の笑顔で言うのだ。

「おかえりなさいっ!」

 砂埃などで汚れているため引き離したほうが良いのだろうが、少女の笑顔を見ていると他のことなどどうでもよくなってくる。大将戦で軽傷を負ったが、その笑顔を見ているだけで痛みが和らぐ気がしてくるから不思議だ。

「……ただいま」

 自分が帰る場所は、やはりこの少女の元なのだなと、鶯丸は再確認した。







 鶯丸が初陣から帰還し、彼らがやってきたのは手入れ部屋だ。勿論、軽傷を負った鶯丸を治す為である。

 手入れの仕方は、勿論施設にいた時に教わっていた。しかしそれは口伝てで教わったものであり、実際に行ったことはない。わざわざ傷を負わせた刀剣男士で練習させるなど、失礼極まりないからだ。

 さて、早速鶯丸の本体の手入れをするわけだが。少女一人だけで太刀を持つことは出来ない。その為、鶯丸が少女を後ろから抱え、鞘から抜いた自分の本体を目の前に掲げている。本来ならば柄やらやらと色々と外さなければならないものがあるが、審神者という特殊な力を持つ人間はその霊力を持って刀身を癒すだけで手入れを行うことが出来る。必要なものは打粉と拭い紙だけ。

「いたいのいたいの、とんでけー」

 鶯丸に刀を支えてもらいながら、打粉で刀身をぽんぽんと叩く。刀身を、鋒まで満遍なく打粉をかけ、それを拭い紙で拭って綺麗にする。それを幾度か続けるだけだ。

 目の前に抜身の刀を向けられているわけだが、少女は全く怖がる気配がない。つい先程まで、遡行軍の血糊が付着していたものだとしても。その刀は鶯丸そのものだ。少女にとっては鶯丸の一部のような認識だったが、それでも鶯丸に直結する大切なもの。怖がるはずがなかった。

 何度か繰り返していると、刀身を叩く打粉から白い粉が出てこなくなった。手入れが完了した合図だ。

「もう、いたくない?」
「あぁ、何処かに飛んでいってしまったみたいだなぁ。小梅のおかげだ」
「えへへっ」

 すっかり輝きを戻した刀を鞘に納める。これにて手入れは終了だ。少女の霊気が鶯丸に馴染んでいるおかげか、通常よりも半分以下の時間で終わらせることが出来た。初めての仕事がこれで終わったわけだが、さてはて残りの時間をどうしようか。胸元の房飾りで遊んでいる少女を見下ろしながら鶯丸がぼんやりとそう思っていると、控えていたこんのすけが言った。

「では、次は鍛刀を行いましょう」