*ブラック本丸表現注意※


 本部内のとある一室にて、少女と鶯丸は仕立てを行っていた。仕立てられるのは少女の巫女服だ。つい先日、遂に少女の本丸入りが決定した。そして、正式な審神者の証として正装である巫女服を拵えている最中なのだ。とは言え体の小さな子供な為、寸法も仕立ても然程時間が掛からずに済みそうな所ではある。白衣と緋袴は共通だが被布や羽織は好きな色で構わないということで、少女が真っ先に選んだのは深い緑色のものだった。相変わらずの緑好きである。ル○ージ大勝利。
 あとは仕立て終わるのを待つのみで、着々と衣装が出来上がる様を少女は興味深そうにじっと見ていた。少女が居るのは鶯丸の膝の上なのだが、あまりにも身動ぎしない様子に鶯丸は度々少女の顔を覗き込んで確認している。寝てはいない。

「面白いか?」
「うん。ぺらぺらだったのに、おようふくができてる」

 どうやら、一枚だった布が衣装に変わるさまが不思議でならないらしい。
 さて、そろそろ仕上げかというところで席を外していた少女の担当であるイロハが部屋に戻ってきた。「小梅ちゃん」と少女を呼んだ彼女は鶯丸の膝に座る少女の視線に合わせるように屈んだ。

「サイズは全部測ってもらったかな?」
「うんっ!おはなしおわったの?」
「終わったよ。それでね、小梅ちゃん。小梅ちゃんの本丸はもう用意出来ているのだけど、そこに行く前に別の本丸に見習いに行くことが決まったの」
「みならいー?」
「先にお仕事している人のところに、お勉強しに行くのよ」
「鶯丸もいっしょ?」
「もちろん」

 やった!と少女は嬉しそうに鶯丸にしがみついた。それを抱きとめながら、鶯丸はイロハに視線を合わせる。

「本丸入りが決定したというのに、随分急だな。本来ならもっと先に行くべきだったんじゃないか?」
「本来なら見習い期間というものがありますが、小梅ちゃんは特例ですので。正式な審神者となりますが、通常任務はまだ与えられません。まずは霊力の安定と、本丸の暮らしに慣れていただかなくては……」
「確かに。まぁ俺も出来うる限りのことはするが、初めから全ての事をさせるのは難しいだろうな」
「はい。ですが今回小梅ちゃんの話を聞いて是非にと名乗り出てくださった方がいたようで。審神者業というよりも、刀剣男士様との暮らしを見ていただくのが目的です」
「なるほど、それも一理ある。それで、その本丸へはいつ?」
「明日からの予定です」
「……急すぎないか?」

 随分と余裕のない予定に鶯丸は思わず顔を顰めた。これにはイロハも申し訳なさそうな苦笑いで答えるしか出来ない。

「えぇ、本当に……上層部は小梅ちゃんに随分と期待を寄せているようで、吸収できるものは全て与えようとせっついているようです」
「本当にその本丸で大丈夫なのか?」
「小梅ちゃんに用意された本丸とは違うエリアの本丸になりますが、資料を見たところ基本任務はしっかりとこなしているようです。無理な進軍もされている記録はありません。こんのすけからも刀剣男士様の異常事態などの通報も受けておりませんよ」
「……そうか」
「……何か、ご心配事が?」
「いや、ない。気にするな」
「鶯丸、だいじょーぶ?」
「あぁ、心配しないで大丈夫。少しの間だが、世話になってこよう」
「ん!」

 聞く限り、その本丸はごく普通の本丸らしい。一昔前まではブラック本丸なるものが跋扈していたようだが、勇気ある政府職員が一丸となって一斉粛清が行われた。審神者とは政府が擁している者たちではあるが、やはり付喪神なる刀剣男士を従えるだけあって力があった。立場は審神者より政府が上でも、刀剣男士を盾にされてはなかなか動きづらいものがある。政府は、刀剣男士にお願いをして力を貸して頂いている立場だからだ。そんな政府の中にも腐った物がいたようだが、ブラック本丸の粛清と同時に総入れ替えが行われた。取り締まり方も見直した結果、今は安定した制度が出来上がっている。故に、今受けた資料内容も事実なのだろう。



 しかし鶯丸は、何処かざわりとした予感を感じていた。それは少女を守りたいが故の本能から来るもので、それがただの思い過ごしか、過保護が過ぎるのか、はたまた刀として感じ取った警告か。この時はまだ確信が持てなかった。







 翌日、訪れたのは本丸エリア・陸奥国にある本丸。転換装置がある大門から暫く歩いて現れるのは大きな赤鳥居。鳥居の先は一見ただの森が広がって建物など何もないように見えるが、そこを抜けた先に審神者の本丸がある。襲撃を防ぐための二重構造で、大門を抜けられても鳥居を抜けない限り本丸にたどり着く事は出来ない。その鳥居を目指すにも辺りは森に囲まれてる。更に緊急時にはその鳥居自体が審神者と刀剣男士の力によって隠されるため、余程のことがない限り突破される事はない仕組みだ。最も、大門から不正アクセスが確認されれば異常事態として本丸にいるこんのすけに通達される。その為もし遡行軍に侵入されても鳥居を抜けられる前に大門通りで迎え撃つことが出来るわけだ。

「さて……私は本来エリア陸奥国の管轄ではない為、この鳥居を抜けることは出来ません。鳥居の向こうに陸奥国の管轄、この本丸の担当職員がいるはずです。詳しい手筈はそちらの担当が請け負ってくれるでしょう。……小梅ちゃん、お兄さんの話をよく聞いてね。困ったことがあったら鶯丸様に相談して、私に連絡してね。端末は鶯丸様に持っていてもらいましょう」
「うんっ! 小梅、いいこにする!がんばって、おべんきょうしてくる!」
「いい子ね。色んなことを見て、教わってきてね。いってらっしゃい」
「いってきます!」
「鶯丸様、どうぞよろしくお願いいたします」
「任せてもらおう」

 しっかりと鶯丸と手を繋いだ少女は隠しきれぬ好奇心を浮かべながら悠々と鳥居を潜る。イロハが次に瞬きをした瞬間には二人の姿はなく、目の前にあるのは森に囲まれた赤鳥居だけとなった。







 鳥居を抜けた先に漂う霊気に、鶯丸は居心地の悪さを感じた。長い間少女の傍らでその清らかな霊気を受けていたおかげか、今や少女の霊気はすっかり鶯丸に馴染んだ状態となっている。その為、他人の霊気で満たされたこの本丸は鶯丸にとって居心地の悪いことこの上なかった。

「ゆきだっ……」

 本丸にはちらほらと雪が積もっていた。突然変わった景色に少女がわっと声を上げると、近付く人の気配に鶯丸が気付いた。

「いらっしゃい。小梅ちゃん、だね?」
「あっ 小梅だよ、です!」
「そちらが小梅ちゃんの刀剣男士だね」

 二人を出迎えたのはとても人の良さそうな笑みを浮かべた青年だった。格好からして審神者のようだ。

「此処の本丸の担当から詳細を聞けと言われたんだが……居ないのか」

 辺りを見渡しても、居るのは彼一人。訝しむように鶯丸が問うと、青年は申し訳なさそうに笑う。

「急な用事が出来てしまったようでね。話はちゃんと聞いているから」
「そうか……暫く世話になる」
「よ、よろしくおねがいしますっ」
「うん、宜しくね」

 さぁ、と青年は二人を本丸内に促すように歩き出した。その背を追うように鶯丸が歩き出そうとすると、足にしがみついた小さな腕に引き止められた。視線を下げると、少女が鶯丸の足にぎゅっとしがみついて俯いている。

「小梅?」
「……さむい」







 本丸内はとても静かだった。案内された客間へ来る間、一振りともすれ違わなかったが、しっかりと刀剣男士の気配はする。

「随分と静かだな。此処の刀剣は大人しいのか?」
「あんまり騒いだら小梅ちゃんが驚いてしまうだろうと思ってね、言い聞かせているんだよ。大事なお客様だからね」
「小梅だいじょうぶだよ?」
「ははっ そっかそっか」

 青年は少女を気遣うようにしながら時折視線を合わせてはにっこりと微笑んでいる。その笑みを向けられるたびに、少女は隣に座る鶯丸の服をぎゅっと掴んで隠れてしまう。普段、人見知りなどしない人懐っこい子なのだが。

「主、」
「恥ずかしがり屋なのかな?可愛いね」
「いや……」

 後ろ手を回して促すと、おずおずと鶯丸の影から顔を出してきた。

「小梅ちゃんは女の子だし、鶯丸とは別の部屋が良いかな?」

 少女は小さく「えっ」と驚きを零すと、これでもかと言う程の力で鶯丸にしがみついた。乞うように鶯丸を見上げてぶんぶんと首を横に振っている。明らかに離れることを嫌がった様子に、宥めるように頭を撫でた。

「いや、同室で構わない。俺は主の刀なのでな」
「そう……うん、わかった」

 初日なのだから、まずは一日ゆっくりして本丸の雰囲気に慣れてくれ。そう言って青年は客間を退室した。部屋を出る青年の背中に向かっておずおずと顔を出した少女が小さく手を振る。そんな少女に向かって鶯丸は溜息を吐いた。

「珍しいな。緊張でもしたか?」
「ん……」

 少女の歯切れの悪い返事に苦笑いを零すと、話題を変えようと廊下とは反対側の扉を指差した。

「小梅、庭が見えるぞ。おいで」
「うん」

 襖を開けた先に広がるのは、やはり白い世界。雪こそ降っていなかったが、襖を開けた途端に伝わる冷気は、この状態が長く続いていることを教えてくれる。どうやらこの本丸の季節は冬であることが多いようだ。
 先程から随分と大人しい小さな主。あまり物怖じせず好奇心旺盛で、室内に居るよりも外で遊ぶことのほうが多かった。普段ならば、目の前に積もった雪に瞳を輝かせて飛び込んでいただろう。しかし、今はただ鶯丸の隣でじっと外を眺めるだけ。

「さむい……」

 暫く並んで外を見ていたが、不意に少女が白い息を吐きながら呟いた。弱々しいそれに鶯丸が少女の顔を覗き込もうとすると、それよりも早く少女が動いて鶯丸に抱き着いた。

「なら、茶でももらおうか。此処にあるものは、恐らく使っても良いんだろう」
「ん」

 名残惜しむ様子もなく後ろ手で襖を閉める。抱き上げた少女の体は特に冷えているわけではなかったが、何分まだ子供である。研修先で風邪などひいてしまってはたまらない。どういう造りかはわからないが、昔ながらの日本家屋の形をしてはいるが扉を閉めてしまえば外気は一切遮られるらしく、程なくして室内に入り込んだ冷気はなくなった。

 使用されているものも昔のものかと思えばそうでもないらしく、現代のものを使っているらしい。少女の家や政府本部で見たことのある機械がある。部屋の隅に茶菓子やらと一緒に置かれていたのは電気ケトルだった。更には若干不釣り合いな小さな冷蔵庫が畳の上に直接置かれていた。折角の畳が痛みそうだ、と思ったが他人の本丸である。
 冷蔵庫を開けるとそれなりの飲み物や食べ物が入れられていた。客人として随分気遣われているらしい。オレンジ色の飲み物は、少女用だろうか。それらを無視して取り出したのはただの水。ケトルの中に二人分の量を注いでコンセントに繋ぐ。

「小梅、ピッてしたいっ」
「あぁ、頼んだ」

 ピッという音を立ててランプがついた。ありがとうと鶯丸が少女の頭を撫でれば、少女は嬉しそうに笑う。寒いと言っていた少女を膝に抱えてお湯が沸くのを待つ。鶯丸という刀剣を知ってか、当然のように茶葉も用意されていた。見習いとして世話になるというのに、あまりの好待遇に若干鳥肌が立ちそうだ。それを誤魔化すように、茶葉に手を伸ばして中身を確認してみる。

「ん……なかなか良いものじゃないか」
「小梅もっ」

 鼻先に箱を近付けてやると、すんすんと鼻を鳴らして香りを嗅いだ。良い匂い、と少女が顔を綻ばせている間に湯が沸いたらしく、ケトルからピーという甲高い音が鳴った。
 湯呑に注いだ茶を少女の口元に持っていく。湯呑を持つ鶯丸の手の上に自分の両手を重ねてこくり、と一口。ほっと息をついたのを見て、鶯丸もまた自分の分の茶を飲んだ。静かな空間の中で、茶を嗜む音だけがする。ゆっくりと茶を飲みながら時折あやすように髪を撫でていると、少女の体がゆらゆらと不安定に揺れだした。

「あぁ……そういえば時間だったな」

 船を漕いでいる少女の手から湯呑を奪い取ると向かい合うように抱き上げてその背中をぽんぽんと叩いた。時間、というのは少女のお昼寝の時間である。少女を抱っこしながら向かったのは押し入れで、迷いなく一式の布団を引きずり出した。少女を抱きながらでもさっさと布団を敷く鶯丸は大変手馴れている。一応研修として見習いに来ている身ではあるが、鶯丸は対して気にする様子もなく少女を布団に寝かしつけた。

「他人の霊気に当てられたんだろう。ゆっくり眠るといい」
「ん……」

 しょぼしょぼと頼りない瞬きをした少女は小さな声でおやすみなさいと呟くと直ぐに眠りに落ちていった。やはり静かな空間で聞こえるのは少女の寝息だけ。



 少女が昼寝から起きてからもずっと部屋にいた二人は、夕餉を持ってきた初期刀の蜂須賀虎徹以外の刀剣男士と会ったのは、それから三日後だった。







「少し仕事が立て込んでいてね、遅くなったけれど僕の刀剣たちを紹介するよ」

 この三日間、蜂須賀虎徹以外の刀剣はおろか、主たる審神者とも会わなかった。というのも、少女がこの部屋から全く出たがらなかったのだ。鶯丸も特に戒めることもなかった。そもそも他人の本丸内を勝手に動き回るのも気が引ける。
 案内された広間には数名の刀剣男士たち。唯一面識のある蜂須賀虎徹もいた。

「顔合わせも済んだし、本丸の中は好きに歩いていいよ。あっでも、僕の部屋はごめんね」

大事なものがたくさんあるから。
少女は素直にこくりと頷いた。

 それから一週間ほど。大体が宛てがわれた客間と庭を往復していた毎日だったが、最初の頃と比べて刀剣男士とすれ違うことが多くなった。自分に良くしてくれる刀剣達に次第に少女も打ち解けていき、初日の時が嘘のように楽しげにしている。
 何だか、薄ら寒い本丸だと思っていた。景趣は相変わらず冬のままで、刀剣達も大人しい。初日から感じていた霊気の違いによる居心地の悪さも感じている。それでもこの本丸の住人たちは小さな主を受け入れてくれているようで、やっと楽しそうに笑った少女に、鶯丸自身も何処か安心していた。それでもやはり。

「この違いには、慣れそうもないな……」

 少女の調子が戻って、安心していた。でも同時に、警戒もしていた。見習いの話を受けたときから感じていたこと。
 主である審神者はとても穏やか。個体差というものがあるんだろうが、従う刀剣男士も大人しい。少女にも好意的で好ましい。聞いていた通りの本丸なのだろう。ただ、この一週間で感じた違和感があった。この本丸には……







「うちの刀剣達と一緒に出陣してみない?」

 審神者にそう話を持ちかけられたのは、その翌日だった。

「他人の刀剣を自分の部隊に組み込んで大丈夫なのか?」
「大丈夫。折角だし、一緒に暮らす刀剣がどう出陣するかも見ておかないとね」

 言いながら審神者は三つの刀装を鶯丸に差し出した。どれも並の軽騎兵だった。

「僕、刀装が下手でね……これしかなくて、申し訳ないけど」
「鶯丸、どっかいくの……?」

 少女が不安そうに鶯丸を見上げた。

「これもお勉強だよ、小梅ちゃん」
「んん……」

 少女は鶯丸と審神者を何度か交互に見たあと、決心したように鶯丸にじっと視線を合わせた。

「ん……小梅、おべんきょうがんばる」

 良い子だね、と審神者が少女の頭を撫でた。少女はずっと鶯丸を見つめたままである。少女の決心を受け、鶯丸も差し出された刀装に手を伸ばした。

「なら、精々期待に添えるとしようか」







 鶯丸は蜂須賀率いる一軍に組み込まれることとなった。いくら希少刀剣とは言え、一度も合戦に参加した事のない初期練度の刀剣である。全面的に鶯丸をサポート出来るメンツで結成されている。
 鶯丸を組み込んだ一軍、そして見送りの審神者と少女が赤鳥居の前にいた。

「鶯丸は初期練度だからね、場所は鳥羽を予定しているよ」
「そちらの練度調整は大丈夫なのか?」
「問題ないよ。……任せたよ、蜂須賀」
「わかってるよ、主」

 出陣前の緊張感が走る。それを感じ取ってか、少女はじっと鶯丸を見上げたまま視線を逸らさない。泣き出さないのは、これがお仕事だと、自分が学ぶことなのだとわかっているから。何より、鶯丸の為。それでも、自分が知らない場所に鶯丸が行ってしまうということが不安で仕方ない。泣き出さなくても、つい縋るような視線を向けてしまう。少女は年齢の割にとても聡かったが、子供だ。
 少女の視線に気付いて鶯丸が目を向ける。かち合った視線に、思わず少女は抱っこをせがむ様に両腕を上げかけるが途中で迷うように止めて降ろす。お見送りとして鳥居の前にいるが、なんと言って見送ればいいかさっぱりわからなかった。だって、鶯丸は自分の傍にずっといるから。
 前は、どうやっていただろう。仕事に向かう父親に母親はなんと言っていただろうか。自分は、父親を、どうやって見送っていただろうか。
 気付いたら、ふわりと少女の体が浮いていた。見慣れた腕の中。

「いってらっしゃいとは、言ってくれないのか?」
「あ……」

 優しい目が少女を射止める。

「……いってらっしゃい、鶯丸」

 鶯丸はやんわりと目を細めると、少女の瞼をそっと撫でた。

「あの時言ったこと、覚えているか?」
「うん、おぼえてる」
「なら大丈夫だ」

 審神者と蜂須賀たちは、二人の様子を眺めて待っている。出陣前で、これから向かうは戦場である。あまり待たせるわけにもいかず、鶯丸はそっと少女を地面に降ろした。その時の一瞬、ほんの一瞬だけ鶯丸は少女の耳に顔を寄せた。「      」傍から見たらわからないその一瞬で少女に何か一言呟くと、そのまま隊の方に歩いていく。

「行ってくる、主」
「さあ征こう。俺達の戦場へ」

 蜂須賀の出陣号令を合図に第一白刃部隊が鳥居を潜る。一人、二人と鳥居の中に消え、その場に残ったのは審神者と少女の二人だけ。暫くして、音を立てずに鳥居が足元から消えていく。

「さぁ小梅ちゃん、お勉強だよ」
「うん」

 少女は鳥居があった場所をぼけっと見ていたが、審神者の呼びかけで漸くその場から離れた。







 背後で鳥居が消える気配がした。振り返らずに視線だけ向けて確認していると、部隊長の蜂須賀が話しかけてきた。

「泣いてしまうのかと思ったよ」

 先ほどの少女の様子を言っているらしい。泣いてしまいそうだったけれど、それを我慢して見送った、という風に蜂須賀には見えた。感心したような口ぶりに、鶯丸はふっと口元だけで笑う。

「いや……あれは泣いていたようなものだ」

 涙こそ流していないが、鶯丸はそう思っていた。言い切った鶯丸に、蜂須賀は閉口する。視線を向けると、蜂須賀は何処か羨ましそうな目で鶯丸を見ていた。

「……貴方たちは、他者が入り込めない強い絆があるんだね」

 何か含みがありそうな言い方に思わず探るような視線を受ける。その視線を感じながらも応える気はないようで、蜂須賀はたどり着いた大門に手をかざした。戦場への転送は主に、審神者が本丸で操作をするか部隊長である刀剣男士が大門で決めることが出来る。審神者の操作となると、付きっきりで進軍の様子を見ていなければならないため、部隊長に指揮を任せてしまう審神者が殆どだ。
 手をかざした大門に、液晶のようなものが浮かび上がる。立派な大門に不釣り合いな近代的過ぎるそれを眺めていると、おかしなことに気付いた。



出陣指定先 墨俣



「……蜂須賀、」
「すまない……すまない」

 謝罪の意を聞く間もなく、開いた大門に吸い込まれるようにして彼らは消えた。







 勉強だと連れられた部屋は審神者の私室のようだった。私室に向かう間、残っている刀剣男士とは全く会わなかった。まるで、初日の頃のように。

「みんな、いないの?」
「人払いをしてあるからね」
「ひとばらい?」
「大事なお勉強をするから、邪魔をしてはいけないよってね」
「うん……」

 どれほど大変な仕事なのだろうか。少女は緊張感からか、手を繋いでいる青年の手をぎゅっと握った。それに、青年は心底嬉しそうに笑う。
 審神者の私室は洋室のようで、床はフローリング。足の長い机の上にパソコンがあり、奥にはシングルベッド。鉢に入った観葉植物もあった。畳ではないから、と青年が少女を座らせたのはベッドの上。
 政府本部内で行った研修では、行軍中の部隊との連絡は特殊な端末で行われると聞いていた。それらしいものが見当たらず、少女が辺りをきょろきょろとしていると自分を見つめる青年と目があった。

「今からするお勉強は、本部では教えてくれないことだよ」
「おしえてくれないの?」
「うん。これは審神者が自分で見つけなきゃいけないからね。でも小梅ちゃんはまだ小さいから、特別に教えてあげる」
「うん……なに?」
「刀剣男士を喜ばせる方法だよ」
「よろこぶ?鶯丸も?」
「うん、喜んでくれるよ」
「どーすればいいの?」





「夜伽って、知っているかな?」





 本部では教えてくれない、特別なこと。それをすれば、刀剣男士は喜んでくれるらしい。勿論、大好きな鶯丸も。だからこそ、ちゃんと教えてもらおうと思った。鶯丸が喜んでくれるなら。でも、よとぎを知っているかと聞いた瞬間、青年の目が一瞬ぎらついたように見えた。それに一抹の不安を覚えながらも、少女は小さく首を横に振った。何故か、青年はとても嬉しそうに笑った。そして、少女の被布に手をかける。留め具を外され、少女は戸惑った表情を青年に向けた。

「なに……?」
「大丈夫、怖いことじゃないからね」

 とってもいいことだよ。
 青年は笑みを浮かべているのに、途端少女は不安が大きくなった。
 自分が知らないことなのだから、教えてもらわなければわからない。だと言うのに、知りたくないと思った。咄嗟に捲られる被布を掴む。

「や、だ……」
「小梅ちゃん、怖くないよ?」

 不安で揺れる瞳を青年に向けた瞬間、あの時感じた寒さを感じた。部屋は閉め切っているというのに、冷え冷えとした感覚に思考が覚束なくなる。被布を掴む手が緩んだ隙に、それは簡単に外された。
 先程は我慢した涙がじわじわと沸き上がってくるのを感じる。本能的に怖いと感じるのに、どうすればいいかわらかない。

鶯丸。鶯丸。 鶯 丸



  『名前を呼べ』



 出陣間際、耳元で鶯丸に言われた事を思い出した。





「鶯丸、たすけてっ……」





 じわりと涙の膜が張った少女の瞳から、模様が浮かび上がる。
 鶯と梅の花。鶯丸の刀紋。
 それを間近で見た青年の動きがぴたりと止まる。まるで金縛りにあったようなそれに青年の額に汗が滲んだ、次の瞬間。



ダァァァァン



 すぐ近くで聞こえた破壊音。青年は動かない体で視線だけを恐る恐る音のする方へと向けた。床には、粉々に砕けた扉の破片。先ほどの音は、扉が壊される音だったらしい。
 刀剣達には人払いの指示をしていた。その意味をよく理解している彼らは決して審神者の私室には近付かない。何より、私室には特殊な結界が張られている。自分が拒むものは弾き出す結界。
 しかし、その結界を扉もろとも破壊したのは刀剣男士。部屋が薄暗いせいかその姿は逆光で見えないが、扉を破壊したと思われる刀身だけがはっきりと煌めいていた。

「な、…っで……」

 未だ固まったままの体から放たれる言葉は、震えていた。
 パキ、パキリと破片を踏み潰しながらその人影がゆっくりと室内に入ってくる。その人影が近くなる度にその人物像がはっきりと映し出されていく。

「嫌がる幼子に、随分な仕打ちだな」

 底冷えするような、静かに怒気を孕んだ声。それは、少女の傍でよく聞いていた声だった。

「鶯丸っ」

 青年の動きが止まった隙に、少女は脱兎としてその場から抜け出した。途中、脱げた被布を思い出して振り返ったが戻る勇気はなく、そのまま真っ直ぐに鶯丸へと駆け寄った。駆け寄る少女を自分の背にしながら剣を鞘に収めるが、視線は青年から逸らさない。彼の本体は鞘に収まったというのに、その視線は刃のように鋭い。未だに体が思うように動かない青年はその視線から逃げる術もなく、無残に晒されたままだ。

「何をしようとしていたか……と聞くのは野暮か?」
「あ……」

 青年はすっかり混乱していた。はっきり言ってしまえば未遂で終わってしまったが、邪魔さえなければ……そう、本来なら鶯丸はこの場に居ないはずである。確かに鳥居で見送った。しかも、つい先程だ。鳥居も消した。こちらから開かなければ、本丸の中には戻ってこられない。現に鳥居がある感覚はしないし、鶯丸と一緒に出陣したはずの蜂須賀たちも戻ってはいない。では、どうして。

「鳥居を通らずとも、俺は主の傍に行ける術があるのでな」
「そ、な……」

 そんなもの、知らない。

「鶯丸っ……」
「大丈夫だ、小梅」

 ゆっくり、ゆっくりと鶯丸は青年に近付く。少女は扉があった場所の近くで壁にべったりとくっついている。鶯丸が近くなる度に心臓が嫌な音を立て、焦りを大きくする。逃げ出すことも出来ず、遂に鶯丸が青年の目の前に来た。冷たい視線に見下ろされ、思わず喉が引きつった。そんな青年に大した興味も見せず、鶯丸は鞘で青年の体を押してぞんざいに転がした。退かしたその場所から少女の被布を取り戻すと、もう用はないと言うばかりに青年に背を向ける。

「ほら」
「んっ……」

 取り戻した被布を少女に差し出せば、少女はそれを抱き締めるようにして蹲る。ぐずり、と鼻を啜る音が聞こえる。被布に皺が出来てしまうほど抱き締めていたが、鶯丸がそれを軽く引っ張れば少女は大人しくそれを差し出した。子供のわりに静かに嗚咽しながら鶯丸にされるがまま、脱がされた被布を着せられる。涙で湿った頬を、大きな手が撫でる。

「疲れてしまったな。大丈夫、次に起きた時にはもう何も怖いことはない。いつも通りの朝を迎える。だからおやすみ、“陽和”」

 鶯丸の言葉を聞いた瞬間、急に抗えない眠気に襲われ、少女の瞼はそっと閉じられる。今の状況を全く無視した穏やかな寝息が聞こえ、鶯丸は眠り少女の体をそっと抱き上げた。

「まだ、なにもっ……」
「“まだ”?“何も”? まるで次があるような口ぶりだ」

 最初から、何処か薄気味悪い感覚はしていた。見ていた限りでは、聞いていた通りの普通の本丸だったようだが、何処か胡散臭い。それでも、自分の主に手を出さないのであれば、鶯丸は関与する気はなかった。

「なかなか興味深い術を使っているようだな?」

 気付いたのは、夕餉時。毎日決まった時間に食事を届けに来ていた蜂須賀が来なかった。流石に勝手に厨を使うわけにもいかず、主だけでもどうにか食事を与えられないか考えていたところ、夕餉というにはあまりに軽食な食事を持って蜂須賀がやってきた。世話になっている身で文句を言うつもりはなかったが、一体どうしたのかと聞けば。
「あぁ、何かをするのが億劫でね。寒さのせいかな、すまないね」
 蜂須賀虎徹とは、とても真面目な刀剣であると記憶していた。派手な装いが目立つが、その言動は育ちの良さが見える。虎徹という名にたいそう誇りを持っているようだし、怠慢など起こさない者だと思っていた。
 それが、あの発言。責めるつもりはなかった。むしろそれは、“サイン”なのだと思ったから。この本丸にとって異物である主と俺が来て初めて感じたであろう違和を、蜂須賀は漏らしたのだ。

「感覚を鈍らせるとは、考えつかなかったな。呪具でも使っていたのか?それらしいものは見当たらなかったが……まぁいい」

 感覚を“奪う”のではなく、“鈍らせる”。何とも小狡い方法を選んだものだと鶯丸は思った。
 感覚を完全に奪ってしまえば、刀剣男士としての働きも疎かになってしまう。そうすれば政府に伝わる戦績にも影響するし、それが続けば監査の対象になる。程よい働きをさせながら、余計な思考を与えないためには、“鈍らせる”のが一番。
 刀剣男士は、自分を顕現した主に全面的な信頼を寄せている。呼び寄せられたその瞬間から、必ず好意を持って現れる。人の手によって造られ、人の手に使われ、人の思いによって成り立つ付喪神。それが刀剣男士。故に、此処の刀剣男士は自分たちの主である審神者を疑わなかった。もとより感覚を鈍くさせられている為、疑うという思考に至らなかった。今の状況は普通であると。結果、監査の対象にはならなかったし、こんのすけによる通報もされなかった。
 ……こんのすけの通報とは、刀剣男士が“異常”だと危機を感じて初めて行われるからだ。
 感覚を鈍らせ思考が疎かになった此処の刀剣男士たちは、異常だと感じる術が最初から絶たれていたのだ。

 そして、鶯丸が気付いたことはもう一つ。

「あぁ……あと、短刀が一振りも見当たらないようだな。折られてはいないようだが……やれやれ、一体何処で“大事に仕舞っているんだ”?」

 そう聞きながらも場所など既にわかっているようで、鶯丸の視線がある場所に移される。それに気付いた青年が、動かない体を必死で動かそうとする。それよりも早く、鶯丸は視線の先にある扉を蹴破った。
 中には、顕現が確認されている倍以上の短刀が刀の姿のまま大事そうに保管されていた。同じ刀剣が、何振りも。その中心に、こちらを見て目を丸くしている人影が一つ。来ている衣服は明らかに女子供のものだったが、“彼”は刀剣男士だった。

「みだっ……乱っ……たす、け……」

 乱藤四郎は、目の前にいる鶯丸を呆然と見上げていた。その後ろで自分の主が助けを求めている声が聞こえたが、何故か答える気になれなかった。
 自分を含む短刀は全て、審神者の私室の奥で大事に大事に保管されていた。この本丸に降りてから、一度も戦場に出たことはない。いや、正確には戦場に出たことはあるが、自分で自分を振るって戦ったことは一度もなかった。出陣する部隊に編成として組み込まれるが、それは政府に送られる戦績を誤魔化す為のものだった。短刀故に、大きな武勲が立てられなくても気にはされないらしく、出陣する短刀以外の刀剣達が刀のままの彼らを持って戦場に立つ。敵を仕留めずとも出陣に向かうだけで戦績に反映される仕組みを使っての偽装だった。練度が上がらないままでは、疑問を持たれてしまうからだ。
 保管されている短刀の全てがさせられていた仕事は、“夜伽”だけだった。初めて顕現されたその日のうちに体を暴かれた。当然、驚きはした。短刀故に、夜伽がどういうものか嫌というほど知っていた。自分たちがいた時代背景を見れば、男色など珍しくもなかったが、自分たちは戦う為に呼ばれた付喪神である。短刀でも、自分たちは武器だった。だからこそ、抵抗した。しようと、した。途端に、急に思考が鈍くなった。自分は今、夜伽を任されている。でも抵抗しようとした。何故いやだと思ったんだっけ?ゆらゆらとする思考の中、審神者の声だけがはっきりと聞こえた。これは大事なお仕事。審神者と刀剣男士をきっちりと繋ぐもの。今思えば巫山戯た都合ばかりを並べた言葉だったが、その時は納得してしまった。なら、仕方ないか、と。中でもこの審神者は見た目がとても女の子に近い乱藤四郎をたいそう気に入っていたらしく、与えられるものは何でも与えていた。甘いものが食べたいと言えば現代の人気のお店のものだという甘味を取り寄せて与えた。武装服以外で与えられるものは、女性ものだったが。
 鈍い感覚の中、この毎日はこういうものなのだと認めてしまっていた。他に、上手く物事が考えられなかったから。そんな中、主とは違う気配を感じた。それは私室の奥に居ても感じることが出来るほどの大きな光。何故かわからないが、その光にどうしようもなく縋りたくなった。でもその理由がわからなかった。その光は近いようでとても遠く、壁を隔てた場所でしか感じることが出来なかった。その光が来てから初めての夜伽は、何処か億劫に感じた。
 そしてつい昨日の事。主にいいものを見せてあげる、と言われた。寝ずに、扉の前で大人しくしているようにと。夜伽の仕事ではないようで、言われた通りに扉の前で待機していれば、あの光を強く感じた。扉一枚隔てた向こうに、光。しかし、その向こうで行われるのが自分たち短刀が与えられている“仕事”と同じものだと知って、急に頭が冷えた。仕事なら仕方がないと感覚が鈍るのに、鼓動が速る。心臓が痛いほどに早く脈打ち、何故だか泣きたい気持ちになった。



だめ。ダメだよ主。その光はダメ。お願いだから、あるじ



 それは言葉にはならなかった。が、代わりに思いが伝わったのかその光を助ける人物が現れた。それはつまり、主に危機が訪れているようなものだったが、乱はとてもほっとしていた。ほっとした、と理解した瞬間に、あれ?と首を傾げる。どうして僕は今、安心したんだろう?
 どうにかしてその鈍くなる感覚を振り落とそうとしていると、目の前の扉が蹴破られた。



「……侍らすのも、大概にするんだな」

 予想はしていたが、それが一瞬で確信に変わり鶯丸は不愉快そうに眉を寄せた。刀掛けに一本ずつ大事そうに飾られているが、毎夜毎夜その一つずつを愛でるために顕現しては閨に誘う。事が終わればまともな思考を遮るように刀に戻して大事に飾る。とても、反吐が出る。

「こんな所に長居するなどごめんだ。世話になったな。礼は言わんが」

 未だ情けなく乱に縋る視線を向ける青年を放り、鶯丸は扉に感じた人影に声をかけた。振り返れば、共に出陣していた蜂須賀が戻っていたようで、呆然と室内を見ていた。自身の本体に手をかけてはいるものの、それを抜く素振りはない。
 主の命で、鶯丸を連れて出陣した。初期練度で、装備された刀装は全て並。練度に見合わない出陣先は意図的なものだった。それはつまり、破壊してしまっても構わないということ。言い訳はいくらでも出来ると審神者は言っていた。
 本当は、出陣先は厚樫山を指定されていた。主は、希少刀剣である鶯丸に対して興味はなかったらしい。あっさり手放すつもりでいた。それよりも、欲しいモノがあったから。しかし寸前で墨俣に切り替えたのは、蜂須賀個人だった。
 初めて感じた、違和。そして、少女と鶯丸の繋がりを、酷く羨ましいと感じた。それを壊してしまってもいいのだろうか。鈍くなる感覚がその先を考えることを止めようとしてくる。しかし、その何故が知りたくて、少し抗ってしまいたくなった。墨俣に変更したのは、侵攻路次第ではたいして敵に合わずに進軍が終わるからである。そちらに進軍できなければ、それまで。
 しかし、どうだろう。墨俣に出陣はした。明らかに予定先と違うと感じた鶯丸はこちらを責める様子はなかった。が、一戦目が始まる直前に、消えた。探そうにも既に遡行軍との白刃戦が始まってしまった。遡行軍を倒して一戦終えなければ、一時帰還は出来ない。練度はそれなりに高い部隊だったが、敵の行軍が強い墨俣では一人居ないだけでも苦戦してしまう。何とか一戦を凌いで帰還してみれば、主の私室がある方角で不穏な空気。そして居合わせたのがこの場面だった。

「口を出そうにも、本人たちが受け入れてしまっていたようだったからな」
「何を……」
「何故、諦めたんだ?抗うことを諦めなければ、こんな事態は続かなかったはずだが」
「それは、だって……」

 何も考えられなかったから。諦めてしまうより先に、思考が鈍って何も考えられなかったから。

「だが、今は抗えているだろう?」
「っ!」

 蜂須賀はハッと目を見開いた。本来ならば、主の危機を救うために抜刀すべき場面だ。主の“仕事”を邪魔しないために。しかし、これは本当にすべきことなのだろうか。主に従うように契約されている刀剣男士はまだしも、同じ審神者になるはずの、まだ幼い少女が。いや、少女だけではない。本当ならば短刀である彼らだって、立つべきは戦場なんだ。そう思ったら、鶯丸に刃を向ける気にならなかった。そして、その腕の中で眠る少女の姿に胸が痛んだ。蹴り壊された扉の向こうで呆然と座り込む乱の姿に、表情が歪んだ。

 重苦しい空気が漂う中、鶯丸だけがその空気を感じさせない様子で部屋を後にしようとした。と、そこで思い出したように振り返る。

「……そういえばイロハに通話を繋げたままだったのを忘れていた。あぁ、イロハとは主の担当役人だ。随分と頭の切れる女性でな。多くは言わなかったが、今までの会話の内容で大体は察してくれただろうな。因みにだ、蜂須賀。世話になったついでに教えておいてやろう。あの男は暫くの間まだ思うように動けないだろうな。あぁ、お前たちに起こしていたもののように。つまりだ、お前たちの感覚を遮るものは薄らいでいるだろう。……なんだ、まともな思考が出来るのが久しくて戸惑っているのか?無理もないが、それを忘れたくなければこれから来るであろう役人にしっかりと話を付けるんだな。……おや、審神者の顔色が悪いようだな。世話をしてやったらどうだ?俺たちはもう帰る」

 もやもやとしていた思考の霧が薄れていく感覚に戸惑う刀剣たちの気配がいくつもした。が、それからどうするから当人たち次第だ。此処まで関与したのだ、これ以上関わる気はない。
 さっさと帰ってしまおうと迎えが来ているはずであろう鳥居に向かっている途中、こちらに駆け寄ってくる気配を感じた。それに嫌なものは感じず振り返れば、そこにいたのは一振りの短刀……乱藤四郎は立ち止まった鶯丸を見上げて、次いで腕の中にいる少女を見つめて意を決したように口を開く。

「助けてくれて、ありがとう」
「……別にお前たちの為じゃない。主への狼藉に腹が立っただけだ」
「そうだね……それでも、ありがとう」

 乱は、本来の武装服を身に纏っていた。女性ものの作りではあるが、纏う空気はがらりと変わっていた。
 乱の見送りと、その向こうの離れた場所から複数の視線を感じながら鶯丸は鳥居をくぐり抜けた。







 ぱちり、と少女は目を開けた。政府本部内に与えられた、見慣れた一室。ぼーっとする頭でそろりと視線を動かす。と、これまた見慣れた大きな背中が目に入る。それを見た瞬間なんだが目頭がとても熱くなった。何か嫌なことがあったわけでも、怖いことがあったわけでもないのに、たまらずせり上がってきた。ごしごしと両目を擦る。少し、痛い。
 物音に気付いた鶯丸が少女を振り返る。優しい目をして、少女を抱き起こした。

「おはよう、小梅」

 その声を聞いて、ついに少女は我慢できずにぽろり、と一筋涙を零す。それを皮切りに、続けて滝のように涙が次々と溢れ出てきた。

「うっ…うぇっ……あぁぁぁん!!!!」

 栓を抜かれたように大声で泣き始めた少女を、鶯丸はただ黙ってずっと抱き締めていた。