部活開始前のアップを各々が行っている中、アリスはいつも通りに黙々とマネージャー業を行う。何回も使われるタオルを籠いっぱいに詰め込んでは運び、洗濯している合間にドリンクの追加、床に汗が落ちていればモップで拭いて、必要があればチャージタブレットを渡す。長めの休みを挟んでも自分がやることの流れは変わらなかった。
 ストレッチやらテーピングやらをしている部員を横目に見ていると体育館の重たい扉が開かれる。現れたのは顧問の武田先生……と、もう一人。烏野高校に通う生徒なら誰もが知っているであろう人物に一同は目を見開きながら集まった。

「紹介します!今日からコーチをお願いする、烏養君です!」
「コッ、コーチ?!本当に!?ですか?!」

 コーチ。暫く指導者が不在だった烏野にはとてもありがたい存在だ。加えて彼・烏養繋心は烏野出身の先輩であり、かつてバレー部を指導していた烏養監督の孫なのだそうだ。
 烏養は部員たちの実力を手っ取り早く知るために早速試合をさせるようだ。しかも、試合の相手は既に呼んであるとのこと。部員が若干の動揺を浮かべているのを感じながらアリスはちらりと時計に目を向けた。試合は六時半からだ。







「ビブス、ここ置いときますね〜」
「ありがとう。ドリンクの補充は済んでるよ」
「記録はどうしますか〜?」
「今日は私がやる。多分、アリスちゃんそれどころじゃなくなると思うから」

 時間は進んで試合の準備をしていると、用意された得点板の近くにいた潔子に声をかけた。足元にはドリンクとタオルが入ったカゴがそれぞれ置いてある。それに並ぶようにアリスはもう一つのカゴを置くと、潔子の意味ありげな言葉にそわそわと体を揺らした。そのわかりやすい反応に、潔子はくすりと笑う。
 練習試合と聞いて気分が高揚しているのはアリスだけではなく、選手も同じだった。しかしそんな中、普段ならば一緒に騒ぐであろう西谷だけが静かだった。



 日が落ちてきた頃。試合開始の30分前には烏養が呼んだという「町内会チーム」が体育館へと集まっていた。しかし相手は仕事を抱える社会人。それぞれ試合前のアップを取りながら時間ギリギリまで待ってはいたが、結局集まったのは四人だけだった。これでは人数が足りない。さてどうしたものか、と考える烏養の視界の端に浮かない表情を浮かべる西谷が映った。

「なんだお前、どうした」

 ほかの部員がコート内で体を動かす中、運動着に着替えているわりに混ざろうとしない。怪我か何か、それとも不調なのかと烏養が不思議そうに声をかけると、それに気付いた澤村が慌てたようにフォローに入る。しかし、西谷の事情を知らない烏養になんと説明すればいいのかと言葉を濁してしまう。

「……よくわかんねぇけど……町内会チームには入れるか?」

 西谷は烏野唯一のリベロ。怪我でないならば、是非とも実力の確認をしておきたい。それならば、と澤村が了承すると、それを受けた西谷は相変わらず静かなまま町内会チームへと足を運ぼうとする。そんな中。

「あっ アサヒさんだっ!!!」

 聞こえた名前に、部員の視線が一斉にその言葉を発した日向へと集中した。日向は窓の鉄柵にしがみついて外を見ている。アリスはててて、と窓に駆け寄って日向と並んで外を見た。

「せんぱい……」

 そこに居たのは、確かに“東峰旭”その人だった。身に纏っているそれは学ランの黒ではなく、「烏野高校排球部」と書かれた黒の部活ジャージ。
 日向に大声で名前を呼ばれた東峰は戸惑って言い訳を探している。そして、その隣に並ぶように現れたアリスの喜びを微かに浮かべた碧い瞳にじっと見つめられて言葉を噤んだ。まだよく知りもしない一年と対面するのはまだ乗り切れたが、かつて同じ場所を目指していた仲間と正面から向き合うには緊張が走る。相手が選手だろうと、マネージャーであろうと。

 部員たちが東峰に釘付けになる中、烏養の怒号によりアップを取りに第一体育館へと消える東峰。それを見届けて、アリスは潔子へと近付いた。

「潔子せんぱい、」
「うん? ……あぁ、うん。お願いね」
「はいっ」

 近付いてきたアリスに目を向けた潔子は、彼女の視線がチラチラと扉の向こうを気にしているのに気付いた。それが意味することを察して任せるように頷くと、アリスも力強く頷いて体育館を出て行った。







 第一体育館の扉を覗くと、東峰がバレーボールをじっと見つめている背中が目に入る。ぎゅ、と一度拳を作ってからアリスはわざとシューズの音を鳴らしながら中に入った。音に気付いた東峰が振り返り、アリスの姿を目に留めて息を詰める。

「アップ、手伝います〜」
「……あぁ、うん……頼んだ」

 試合開始の時間まであと10分もないが、アップを怠って怪我をしてしまっては元も子もない。少しくらい開始が遅くなってしまっても構わないだろうとまずは柔軟から念入りに行い、次いでダッシュを数本。ボールを使ってパスをいくらかこなしたところで、東峰の動きがぴたりと止まる。その目は、受け止められることなくコロコロと転がったボールへと注がれていた。室外で行われている部活の掛け声や、校内で行われている吹奏楽部の楽器の音が微かに聞こえる中、体育館内では気不味い空気が一時流れる。

「……俺は、」
「東峰せんぱい」

 重々しく口を開いた東峰。しかしアリスはすぐにその続きを塞ぐように言葉を重ねた。

「ずっと好きだったものを、忘れるのって難しいですよねぇ」
「……」
「ごちゃごちゃーって考えても、」

やっぱり好きだって、思っちゃうんですよねぇ。