「……よっ、いしょー」

 ボールが飛び出してしまわないように閉められた扉の前に、ドリンクが入ったカゴがガシャンと音を立てて置かれる。ひと月もやらないでいると、慣れているはずの作業でも重く感じた。持ち手が食い込んで若干赤くなった掌をパンパンと叩き、扉に手をかける。扉を開けてすぐに感じる、熱気。これも久々だ、とアリスはしみじみと感じ入る。ボールが飛んでこないことを確認してから、カゴを持って中に入る。と、また知らない顔ぶれが居ることに気がついた。さっきは居なかったし、ドリンクを作っている間にでも来たのだろうか。それは向こうも同じのようで、怪訝そうな顔でこちらを見ている。

「お、きたな。月島、山口。ちょっと来い」

 どうやら澤村が紹介をしてくれるらしい。アリスはカゴを隅に避けて佇まいを正した。

「うちのもう一人のマネージャーだ」
「二年の東雲アリスでーす」
「月島蛍です」
「やっ、山口忠です!」

 大きいなぁ、とアリスは目の前にいる月島を眺めた。恐らく、部員の中では一番ではないだろうか。これは楽しみだ。うずうずとする気持ちを抑えながら、アリスは肩にかけていたポシェットから何かを取り出して二人の前に突き出した。

「お近づきの印、どーぞー」
「はぁ……」
「あ、あざーす…?」

 掌に受け取ったソレ。小さな袋に包まれたそれは飴のようで、飴じゃない。一体なんなのだろうと疑問符を浮かべていると、澤村が教えてくれた。

「それは塩分タブレットだ。東雲はそういった補給類を常備してる。何かあれば言うと良いよ」

 成程、肩にかけているあのポシェットの中はこれらで溢れているらしい。……ちらっとポッキーのパッケージが見えたのは気のせいだと思いたい。と、その視線に気付いたアリスがさっとポシェットを隠し「これは私のー」と宣った。別に取ろうとしたわけじゃない。







 久しぶりに西谷が戻った体育館は賑やかだった。大きく芯の通った声が体育館に響く。そしてそれは他の部員の活力になり、気持ちを奮い立たせる。
 一通りのメニューをこなし、モップ掛けが行われる脇で始まったのは西谷講習のレシーブ講座。……と言うには講師の語彙力が不足しているが。擬音ばかりでさっぱりコツが伝わらず、影山以外の一年は頭上に疑問符を浮かべてしまっている。

「あれじゃ伝わんないわーないわー」
「本能で動く系の奴は何言ってんのかサッパリわからん」
「それね〜」
「そうですか?俺なんとなくわかりましたけど」

 アリスはブルータス、お前もか。という視線を影山に向けた。それは田中も同じだったようで、「お前の説明も周りは何言ってるかわかってねぇからな!」と告げれば心外そうに目を瞬かせている。

「……まぁでも、口で説明されるより体感した方がわかりやすいのは確かだよね〜。あと洗濯回すからタオル」
「あ、はい」

 影山から受け取ったタオルの代わりに真新しいタオルを渡してアリスは洗濯カゴを抱えて体育館を出た。部室棟にある洗濯機を目指して歩いていると、ちょうどドリンクボトルを洗い終わった潔子と鉢合わせた。

「あ、お疲れ様です〜」
「お疲れ。これから?」
「はいー。中でノヤのレシーブ講座始まってますよ〜。言ってること意味わかんないですけど」
「……あぁ」

 その様子が容易に想像出来て、潔子は溜息のような声で答えた。でも、体育館に向ける眼差しはとても優しい。その視線につられるように、アリスも体育館に目を向けた。

「……戻ってきた感じが、するね」
「そうですねぇ」
「……でもまだ、足りないよね」

 その声色が寂しげで、アリスはそっと潔子に目を向けた。視線が合わないその眼差しの奥で揺れている感情に気付いたアリスは、元々無表情だった顔を引き締める。

「大丈夫ですよ〜」
「……そう思う?」
「はい。そう簡単に離れられる思いじゃないですよ」

 私も、知ってます。
 アリスの言葉に、潔子は体育館に向けていた目を彼女に向けた。視線の先の彼女は相変わらず無表情だったが、その瞳には強さが宿っている。あぁ、そうだ。彼女は知っている。マネージャーとして見守る気持ちも、選手としての彼の苦悩も。どちらも、知っている。

「それに、何だか一年は面白そうですね〜」

 その場の空気を変えるようにアリスが言った。その気遣いを感じながら、潔子は嬉しそうに口元を緩ませる。

「そっか、アリスちゃんはまだ見てないんだったね」
「え、何をですー?」
「今年の一年、すごいよ。アリスちゃん、興奮しちゃうかも」
「駅前のクレープと比べると?」
「同等か、それ以上かな」
「それはすごいです〜!」

 アリスにしかわからない比較の仕方だったが、この一年ですっかりアリスの人となりを理解した潔子にとっては扱いは容易い。更にあの青葉城西と練習試合で勝ったことを告げれば無表情だった面に期待の色が乗る。
 金髪碧眼。正にフランス人形のように容姿が整っているアリスだったが、残念なことにその表情筋は殆ど仕事を放棄しており、無表情がデフォルトである。しかしそれでも周りにとっては画になるようで、それを非難する者はいなかった。その為か、アリスの僅かな表情の変化に気付ける者は少ない。潔子は正に、その数少ない内の一人である。
 初めて会った時は、取っ付きにくそうな子だと思った。だが話してみればとても素直で可愛い後輩であった。確かに表情はあまり変わらないが、その代わり瞳の強さがよくわかる。目は口ほどに物を言うというが、まさにそうだった。だからこそ、この後輩が言うのならば。


「新しい烏野……楽しみだね」


<序章:無気力マネージャー/END>