来たる5月2日、合宿の初日である。時刻は夜の8時前、体育館での練習を終えて一同が向かったのは烏野高校が所有する部活動合宿用施設だった。中に入ってアリスの目にまず入ったのは、床に撃沈している田中と西谷の姿。

「なにごっこー?」
「 っは!」
「アリス!」

 取り敢えず声をかけてあげれば、アリスの声にすぐさま反応した二人はがばりと体を起こしてアリスに詰め寄った。何やら期待の篭もった眼差しを向けられている気がする。

「東雲は泊まっていくんだよな!?」
「アリスん家、こっから遠いもんな!?」

 鬼気迫る勢いで詰め寄る田中と西谷にアリスは顔には出さないが引き気味だ。

「聞いておどろけー」

 潔子せんぱいの家でお泊まりだ。そう言った時の二人の表情は傑作だったと後にアリスは言う。







「こっちは終わったよ」
「わたしも終わりました〜」

 場所は移って、こちらは清水家。仕事を終えて帰ってきた二人は揃ってユニフォーム直しを行っていた。これを明日の朝クリーニングに出して、合宿最終日の練習試合で着るのだ。ユニフォームが入った袋を端っこに押しやり、アリスが寝るための布団をフローリングに敷く。ぽすん、とふかふかの客用布団に横になったアリスは、長身の体をぐーっと伸ばす。

「疲れちゃった?」
「慣れないことしましたからね〜」

 針仕事なんて普段しないですよ、と欠伸を殺しながら言うアリス。それでも直ぐには寝ようとせず、がばりと体を起こして布団の上でストレッチを始めた。両足を伸ばし、長い足を滑って爪先まで上体を倒す。足の裏を抱え込むようにして体を折ると、ぴたりと足と体がくっついた。

「いつも思うけど、本当に柔らかいね」
「ほんとーに骨あるのかって、疑われたことあります〜」
「ないの?」
「ありますよ〜!」
「ふふ、冗談」

 潔子と話しながらもぐいぐいと体を伸ばして柔軟するアリス。本当に体が柔らかいようで、どんな動きをしても体同士がぴたりとくっつく。I字バランスも出来るらしい。

「最終日、楽しみだね」
「あのめちゃくちゃ速攻がどこまで通用するか、ですよね〜。青城には勝ったんでしたっけー?」

 まだアリスの部活禁止令が解けていない頃、烏野は県内有数の強豪校の一つ、青葉城西と練習試合をしていた。結果は烏野が勝ったと聞いている。しかし詳細を聞けば相手の正セッターは負傷でほぼ不在、セットカウント1-1の3セット目、烏野のマッチポイントという勝利の目前でピンチサーバーとして現れた。強烈なサーブであっという間に追いついてきたようだ。が、しかし、日向影山の速攻には対応出来てはいなかった。そのときは、”まだ”。

「たのしみだなぁ」







 翌日。ストレッチを終えた一同はすぐさま体育館を離れ、学校の外へロードワークへ向かった。その間マネージャーである二人はコートの整備やらドリンク、タオルなどの準備を進める。遠くから競うような日向と影山の雄叫びが聞こえた気がする。

「アリスちゃん、今のうちにクリーニング出してくるから、あとお願いね」
「はぁい、ガッテンです〜」

 ぐっと拳を握って見せると、頼もしいねと笑いながら潔子はいそいそとユニフォームが入った袋を抱えて出て行った。アリスだけが残った静かな体育館。暫くぼんやりとコートを眺めていたアリスはゆっくりと目を閉じた。
歓声が聞こえる。コートの中の熱気を感じる。極限まで研ぎ澄まされた神経と、コートを支配するぴりっとした緊張感。集中を切らせば、ボールが落ちる。足を止めれば、隙になる。繋げ、飛べ、打ち抜け。様々な声が響く中、最も心を惹かれるものはコートの中にたった一つ存在するボールだけ。自分に託された、自分だけに上げられたトスを、繋がれたボールを叩きつけ…………

 頭の中に存在していた音がフェードアウトしていくと同時に、アリスは閉じていた目を開いた。

「……ボール確認しよ」







 空気が抜けてるなど手入れが必要なボールを弾き、それらを一つ一つ直しているとそのうちにロードワークを終えた面々が戻ってきたようでがやがやと賑やかな声が外から聞こえてきた。が、しかし、一際賑やかなはずの声が一つ足りないような気がした。

「おかえりなさ〜い」

 直ぐに使えるように、と体育館の入口にセットしておいたドリンクとタオルを入ってきた部員たちが各自で取って使っている。手入れしたばかりのボールを抱えながら近付くと、アリスはきょろきょろと辺りを見渡した。

「帰還者が減るようなロードワークだったです?」

 日向の声が聞こえないような気はしていたが、どうやら菅原も居ないようだ。

「日向のやつ、途中一人で突っ走ってどっか行っちまったんだよ」
「で、スガさんが残って翔陽探してくれてんだ」
「ロードワーク中に迷子とか、ウケる」

 アリスの問いに答えたのは田中と西谷で、呆れながらも面白さを隠しきれないようで完全に表情に出ていた。

「東雲、ちょっと見てきてやってくれるか?10分したら戻ってきて良いから」
「はぁい」







 澤村に言われて日向を探しに出たアリス。借りた自転車を漕ぎながらやってきたのは、ちょうど澤村たちが日向を見失ったあたりだ。分かれ道になっているようで、どちらに行こうか悩む。

「んー……」

 ちょびっと悩んだ様を見せたアリスは直ぐに自転車から降りた。そしてポシェットから取り出したのはおやつのポッキー……ではなく、ボールペン。徐にしゃがみこんだアリスは、地面にボールペンを立て、それをぱっと離した。

カシャンッ

 小さな音を立ててボールペンが倒れた先は右側。

「じゃーこっち〜」

 雑な決め方である。