本日のミッドフォード家はいつもの威厳ある雰囲気から一変、女性の楽しそうな笑い声で華やかな雰囲気が漂っていた。その理由はミッドフォード家の愛娘であるエリザベスと、嫡子エドワードの婚約者であるティファニーによるものだった。目に入れても痛くないほどに溺愛している妹と、共に生涯をと決めた婚約者が仲睦まじく談話している姿はまさに目の保養ではある。ではあるが、些か仲間はずれにされている感は否めない。彼女は確か、婚約者であるエドワードに会いに来たはずなのだ。しかし挨拶もそこそこにエリザベスがティファニーの手を取り、現在彼女を独占している。自分もその輪に入ろうと近寄ろうものの、妹の「女同士でお話しているのよ!」という言葉に一蹴されてしまった。エリザベスがティファニーに懐いているのはとても喜ばしいことなのだが、蚊帳の外にされるのは少し寂しい。何より、自分だって彼女に話したいことがたくさんあるし、独占したいのだ。エリザベスが話している内容に相槌を打ちながら、エドワードの熱い視線に気付いたティファニーが申し訳なさそうに口元に笑みを浮かべたのを見て、遂にエドワードはそこから離れることにした。







 訪れたのは中庭。あと数十分もすれば妹の家庭教師が来る予定なので、そこでティファニーは解放されるだろう。それまで適当に時間を潰そうと持ってきた本を広げた。好きな作家の一人が最近出した新書で、発表を聞いてからずっと楽しみにしていたものだ。しかし、いざ本を広げて文字に目を滑らせてみるものの、イマイチ内容が頭に入ってこない。本の内容がつまらないわけではない。正しく言うならば、気が散っているせいだ。開いた窓から微かに聞こえる華やかな笑い声。それがついつい耳を擽って本の世界に入り込めない。ついにはページを捲る手が止まり、文字に向けた目も一点から動かなくなってしまった。
――あぁ、せっかく婚約者が会いに来てくれたというのに、楽しくないな。
 そう思ってしまう自分に苛立って、少し乱暴に本を閉じた。ぐしゃりと髪を一掴みし、そのままテーブルに突っ伏す。行儀が悪いとわかっていても、直ぐに体を起こすことは出来なかった。
――妹と未来の妻が仲良くしているのは良いことだろう。
――エリザベスはとても人懐こいから当然だが、ティファニーも本当の妹のように可愛がってくれていて嬉しいのは確かだ。
――しかし、もう少し自分にも構ってくれても良いんじゃないだろうか。
――カッコ悪い思考だとはわかってはいるが、相手が婚約者…ましてや想い人なら当然なのでは。
 ぐるぐると脳内を旋回する思考を追い出すように、エドワードは深く息を吐き出した。頭の中をリセットしようと、今度は新鮮な空気を吸い込む。すると、息を吸い込んだと同時に芳しい香りも鼻腔を擽った。更には、世界で一番好きな香りも自分の直ぐ傍でふわりと香る。突っ伏していた顔をゆっくりと上げると、目の前にはティーセットを持ったティファニーの姿。カチャリ、とそれをテーブルに置くと、腕の隙間から彼女を覗き見るエドワードの視線に気付き、にこりと微笑んだ。

「淹れてもらったの。この紅茶、好きでしょう?」
「……あぁ」

 ゆっくりと体を起こして辺りを見渡す。が、エリザベスの姿は勿論使用人の姿も見えない。使用人に頼めば良いものを、わざわざ自分で持ってきたようだ。お礼を言ってカップを受け取り、自分が好んでいる香りを吸い込むと少し気分が落ち着いた。目の前で同じように香りを楽しんでいる彼女を見て、思わず「リジーは?」と聞いてしまいそうになったのを紅茶を飲み込むことで誤魔化す。それじゃあまるで構ってもらえず拗ねているようでカッコ悪いではないか。……いや、実際その節はあるのだが。しかしながら、好いた女性の前では余裕のある男を見せたいわけで。そんな葛藤から目を逸らすと、気になるものが目に入った。彼女が持ってきたティーセットにある、お菓子の皿。そこにはミッドフォード家お抱えのシェフが作ったスイーツではなく、なんの変哲もないクッキー。しかも、少し焦げ気味だ。

「……これは?」
「ん? ……あぁ。なんか、突然作ってみたくなって」
「ふーん……。………っえ?」

 そのまま流してしまいそうだったが、彼女が言った言葉を理解した途端に目を剥いた。彼女に視線を向け、再びクッキーへと戻す。彼女の口ぶりからして、恐らく作ったのは初めての試みだったのだろう。少し焦げ気味なのがその証拠だ。形にもバラつきがある。一つ摘んでまじまじと眺めてみた。不思議な形と思っていたそれは、ちゃんと見てみると音符の形をしているようだった。実に彼女らしいと思ってしまって思わずくすりと笑みが溢れた。

「出来るだけまともそうなのを持ってきたのだけど……やっぱり不格好ね」
「いや、ティファニーらしくて良いと思うぞ」
「ふふ、不格好なのが?」
「そういう意味じゃ……いや、そうかもな」

 エドワードの言葉にショックを受けるでもなく、ティファニーは嬉しそうに笑っている。出来栄えが良くないことに対してあまりダメージはないらしい。ティファニーのわくわくとした視線を受けながら、エドワードは恐る恐るクッキーを口につけた。さくり、と小気味いい音を立てて口の中で砕ける。やはり焦げているようで少し苦味はあるが、それ以外はちゃんとしたクッキーだった。エドワードが口をつけたのを見て、ティファニーは特に感想を急かすつもりもなく、自分もクッキーへと手を伸ばして食べ始めた。

「うん、見た目通り焦げた味がするわね」
「味見しなかったのか?」
「一緒に食べようと思って」

 彼女の言葉に、先程までぐるぐると頭の中に燻っていた思考が何処かへ飛んでいくのがわかった。彼女の言動は、なかなかどうして自分を一喜一憂させる。そわそわと滲み出る嬉しさの行き場をどうしようかと葛藤した末、直ぐにまたクッキーへと手を伸ばすことにした。がっつきたいほど特別美味しいわけではないが、“特別”ではあるのだ。しかし手を伸ばした先で、不思議なものを見つけた。きっと彼女のことだから、符号か何かかと思ったのだが思い当たるものがない。気にせずそのまま食べてしまえばいいのだろうが、そこは少し“変わり者”という評判がある彼女のこと。きっと何か意味があるのだろうと思った。その証拠に、エドワードがそれを手にした瞬間にティファニーはとびきりの笑顔を浮かべたのだった。

「気付いた?ね、此処に置いて」
「ん」

 言われるがままに広げられたナプキンの上にそれを置く。すると、彼女は皿から別のクッキーを摘んでナプキンの上に広げていった。そのどれもが音符とは違う形をしていたが、直ぐに共通点に気付いた。それが何かを確認する前に、ティファニーは「これね、並べると……」と、エドワードに見えるように一つ一つお利口さんに並べていく。

「見て、“EDWARD(エドワード)”になるでしょう!」

 パチパチと嬉しそうに手を叩きながらティファニーが笑う。変わっていると思っていたそれはなんて事はない、ただの“文字の形をしたクッキー”だった。ただ、その文字で作る言葉が彼女にとって特別だっただけ。

「この形を作っている時が一番楽しかったわ!」

 なんて、とびきりの笑顔を浮かべて言うものだから。自分の頬がじんわりと熱くなっているのを自覚していてもつられて笑うのを止められなかった。毒気なんてとうに抜かれている。

「ね、どの文字から食べる?別の名前が出来そうね」
「確かに。これで……」
「EDWAR(エドワー)!なんだか惜しいわね」
「惜しいってなんだ」
「ならこっちからDを借りる?」
「EWARD(エワード)も惜しくなるんじゃないか?」
「それもそうね。やっぱりEDWARD(エドワード)が良いわ」

 あれよこれよと言い合っているうちにEDWARDを食べ尽くす(語弊が有りすぎる)と、あれほど楽しげだったティファニーが突然不満そうな溜息を零した。

「? どうしたんだ」
「えぇ……作っている時はとても楽しかったのだけれど、やっぱりあまり美味しくないわ」

 ウェンディに換えを持ってこさせるわ、と席を立とうとするティファニー(因みにウェンディとはティファニーの侍女だ)。しかしその腕をエドワードが掴んだ為に許されなかった。

「? なぁに」
「換えって、」
「ちゃんと買ったものも持ってきてるの。美味しい方が良いでしょう?」

 確かに美味しいに越したことはないが、それとこれとは話が別だ。

「……いい、勿体無いだろう」
「お腹を壊すかもしれないわ」
「あーーーっ!!」

 すると、腕を掴んでいない方の片手で自身の顔を覆ったかと思うと突然大きな声を出したエドワードにティファニーは驚いて目をぱちぱちと瞬かせている。

「それはティファニーが作ったんだろう?!俺の為に!だから俺はっ!それが、いい、と……言って、るんだっ……」

 最初こそ威勢が良かったものの、自分をじっと見つめるティファニーの視線を受けて少しずつ冷静になったのか、段々と言葉尻が萎んでいき、それに合わせてエドワードの表情に赤みが強くなっていった。恥ずかしいとは思ったが、ここで目を逸らしたらそれこそカッコ悪いと思い、エドワードは顔を真っ赤にしたままティファニーをじっと見つめ返していた。すると、腕を掴まれたままだったティファニーが上げていた腰をすとん、と下ろす。瞬間、ぱぁぁっと花が開いたように嬉しそうな笑顔を綻ばせた。

「えぇ、えぇ!貴方の為に、貴方を想って作ったわ」
「っ……ならこれは、俺のもの…だろう?」
「もちろんよ。でもお腹を壊してしまったら元も子もないわ……だから少しずつ、ね?」
「あぁ、大事に食べる」

 ティファニーは心配しているが、少し苦味があるだけでそこまで酷い味ではない。これしきのことで腹を下すようなヤワな体はしていないつもりだ。しかし彼女の心配が嬉しくないわけではないので、残りはまた後日ゆっくりいただく事にしよう。

 自分にとって、天使と呼べる女性は妹のエリザベスだけだと思っていた。だが今ではすっかり彼女の魅力に引き込まれている。有名な音楽一家の娘で、本人もその才能を色濃く継いでいると聞いた。そして少し“変わり者”ということも。自分の婚約者だと紹介される前にそう聞いた時、思わず大丈夫なのかと不安になったが、実際見えた時には衝撃が走った。運命だとか、そんなチープな言葉で片付けるつもりはないが、あの時は幼いながらに本当にそう思ったのだ。

『初めまして、私はティファニー。あなた、とても綺麗な瞳をしているのね。美しい自然の力強い翠だわ』

 天使がもう一人。



title:喉元にカッター様