「私、結婚するの」

 そう言って嬉しそうに笑う彼女に祝福を告げる。もう何度この言葉を聞き、同じ言葉を言ってきただろうか。ずっとあの頃のままだと思っていたのは自分だけで、周りはどんどんと先へ進んでいく。私も進んでいるつもりだったのに、いつしか足並みが遅れてしまっていたようだ。







 リビングにあるソファに寝転がり、ぼーっと天井を眺めている。近くでは母親が掃除機をかけている音が聞こえるが、そんな音も一切気にならないくらい、私はあることをずっと考えていた。
 7年ぶり…くらいだろうか。高校時代の友達と久しぶりに会った。それなりに仲が良くて、彼女が海外の大学へ行くと知った時は別れを惜しんで二人で泣いてしまったっけ。在学中はお互いちまちまと連絡を取り合ったり、休暇にはこちらに帰ってくる彼女と会って遊んだりもした。私が彼女の方へ遊びに行くこともあった。しかし大学を卒業し、お互い就職が決まって働き始めてからはなかなか連絡を取り合うことが難しくなった。彼女はそのまま海外の方で就職した為、気軽に会いにいくことも出来ない。それでも時々思い出したように連絡を取り合って、電話口で話すことはあった。でも、それもほんの30分程度の会話。いつか二人で長い休暇を取って、何処かに旅行に行こうかなんて話していたけれど、一度も実行されることはなく思わぬ再会を果たした。

 土曜日の休日。なんとなく、近くにある公園へと散歩に出てみた。まだ寒さが残る中、もうすぐ開花するであろう桜の木が公園内を囲むようにぐるりと立っている。桜が咲いたら見に来ようかな、なんてベンチに座りながらブランコで遊ぶ子供を微笑ましく眺めていた。子供は好きだ、元気があってよろしい。駆け回っていた子供が石に躓き、盛大に転んだ。思わずあっと声を出しそうになったが、直ぐに子供の母親が駆けつけて泣いてしまった子供を宥めていた。その一連を傍観していると、不意に肩を叩かれた。完全に不意打ちを食らって思わずびくりと肩を震わせて背後を振り返ると、そんな私の反応に可笑しそうに笑いを堪えながらこちらを見る彼女。

「え、あ……?」
「ふふっ…驚き過ぎ!10cmくらい跳ね上がってたかも」
「なっ、なんでいんの?!」

 長らく会っていなくてもわかった。何年経ってもまだ残っている面影。海を挟んだ向こうにいると思っていた友人が今、目の前にいる。呆然と瞬きをしている間に後ろから回り込んできた彼女が隣に座った。

「おーい、生きてる?」

 馬鹿みたいに口を半開きにして彼女を見つめる私の前に、ひらひらと手を振ってくる。少しイラっとしてその手を叩き落すが、彼女は気分を害した様子は全くなく、寧ろまた可笑しそうに笑っていた。

「……笑いすぎ」
「だって、ごんべがアホ面かましてるんだもん」
「ひど!……おかえり」
「うん、ただいま」

 私が嬉しそうに言えば、また彼女も嬉しそうに笑った。

 数年ぶりの再会であっても、まるで昨日の会話の続きのように次々と溢れ出る会話の応酬。容赦なく口から吐き出される憎まれ口も、お互いに気を許しているから。世間話や懐かしい昔話に花を咲かせる中、次に出た話題はお互いの近況。

「仕事はどうなの?」
「楽しいよ。自分が育ててる後輩が成長していく様を見るのは良いね!子育てのような感じする」
「あんた子供はおろか、結婚すらしてないでしょ」
「うっさいなー、それはお互い様でしょ!」

 しかし、返ってきた反応は予想外のものだった。てっきり言い返してくると思った彼女はほんのりと頬を染め目を伏せる。その表情はとても可愛くて、「あぁ、恋してるんだ」というのが一瞬でわかった。

「あのね……私、結婚するの」

 私と向き合うように体をこちらに向けるから、思わず私も体を向けて正面から見つめ合う。頬に朱色を差しながら言う彼女はとても嬉しそうで、幸せそうで、綺麗で、思わず見とれた。今まで、大学で出来た友達や職場の友人、先輩が同じことを言ったのを聞いてきた。

「そ、っか…おめでとう。やだ、なんか…泣きそう…」
「うん……」

 これほどまでに、嬉しいと思ったことはなかった。泣きそうというのが、悔しさや悲しさからくるものではないと彼女はわかっている。私は、彼女が幸せであることが嬉しくて泣きそうなのだ。

「そっかぁ…じゃあ、それでこっちに帰ってきたんだね」
「うん。結婚したらこっちで暮らすから」

 相手はバーで出会った日本人らしく、仕事で日本に帰る相手について戻ってくると言う。仕事はやめて、専業主婦になるそうだ。結婚式も日本で挙げる予定らしい。

「式の準備とか色々あるからってのもあったんだけど…」
「けど?」
「……一番に報告するって、約束したからね」

 もじもじと手を擦り合わせながら彼女は言った。それは、いつしかお互いで交わした約束。結婚したら一番に報告し合おうというもの。彼女は式の準備やらをついでのように言いながら、私に真っ先に報告しに来たのだ。あの時の約束を守るために。私は今度こそ目頭が熱くなった。

「ううう…可愛すぎかよぉ…」
「ちょ、ちょっと!泣かないでよっ」
「泣かないよ!まだっ!結婚式では泣いてやるぅ〜おめでどうう〜」
「あははっ、もう……うん、ありがとう」

 あまりの嬉しさに、昼間の公園のベンチで彼女とぎゅっと抱き合った。







 そんな出来事があったのはつい昨日のこと。大事な友人の喜ばしい出来事に胸がいっぱいになったわけだが、彼女が言った一言が胸に燻って私は落ち着けないでいた。

 彼女の結婚に喜んだ私だったが、話題は当然こちらにも向かってくるわけで。私が結婚していないことは知っていたから、今度は付き合っている人はいないのかと聞いてきた。学生時代には付き合っていた男性はいたが、就職して仕事をするようになってから自然消滅した。まぁ、その程度だったということ。その時から仕事に追いつくのに精一杯で恋愛沙汰などご無沙汰であった。そうぼやく私に対し彼女は「こんな可愛い子をほっとくの?!周りの男は節穴か!」と憤っていた。自然消滅した彼についてはボロクソ言っていた。やめたげて。

「でもさぁ、好きな人くらいはどう?」
「ん〜…ないね!」
「そんなさっぱり…」
「ずーっと恋なんてしてないから、乾いちゃったのかもねぇ」

 あはは、と何でもないように笑う。そんな私に彼女は苦笑いを浮かべ、それでも優しく言った。

「でも、恋してるごんべ、最高に可愛いんだよ、知ってる?今は少し忘れちゃっただけでさ、ごんべを可愛くさせてくれる人、絶対にいるよ」

 今まで何度も祝福の言葉を告げ、その都度似たような返事が返ってきた。「きっといい人が見つかるよ」
 結婚生活を送る人たちから幸せな話を聞くたび、何度も言われてきた。「結婚はいいものだよ」

 誰に言われてもいまいちピンとこなかったし、私を突き動かす動力にはならなかった。しかし、彼女に言われて初めて思ったのだ。「あ、置いていかれてしまう」と。

 それから家に帰ってからずっと考えている。彼女が言った言葉を繰り返しながら、結婚について。
 結婚なんて、まだまだ先の話だと思っていた。自分に結婚なんて早い。でも、実際はどうだろう。周りの同年代の女性は次々と結婚していくし、後輩すらも結婚の報告がある。まだ早いと思っていたのは自分だけで、周りはどんどん進んでいく。結婚しないことに焦っているわけではない、焦って出来るようなものでもないことはわかっている。ましてや女性にとっては一生もののことだし、焦ったからといって安直に決めてしまうのはよくない。それでも、考えずにはいられなかった。
 今の私は、可愛くないのだろうか。
 当然、男関係の付き合いがなくなったとは言っても女をやめたつもりはないのでそれなりの努力はしている。でも彼女は言っていた。恋をしていた私は、もっと可愛かったと。
 今のままでは、私は輝けないのだろうか。結婚すれば、いや、恋をすればまた変われるのだろうか。

「結婚かぁ……」

 悶々とそんなことを考えていると、無意識に口に出ていた。いつの間にか掃除機の音はやんでいる。すると、その言葉を聞きつけた母が嬉しそうに近付いてきた。

「なに?あんた結婚する気になったの?!」
「わっ!びっくりしたぁ…」
「いい人でも出来たの?!やだもう、早く言ってよ!」
「いないいない、いないから!結婚の予定もないです!」

 きっぱりと言えば、母は残念そうに肩を下げた。母はこの年になっても結婚をしない、ましてや男の気配がない娘をたいそう心配しているようで、その姿に申し訳なくなって昨日のことを話してみた。母も当然彼女のことを知っていて、嬉しそうに喜んでいた。しかし次の瞬間には「次はあんたの番ね」なんて言ってくる。私の番も何も、まず相手がいなければどうしようもない。そう言って話を切り上げようとすると、母は思いついた!と言うように手を打った。

「お見合いすればいいじゃない!」
「……は?」







 どうしてこうなった、と私は頭を抱えたい衝動に駆られている。しかし思うだけで実行には移さない。着慣れない着物に体を巻かれ、少し呼吸が辛い。それは緊張のせいもあるかもしれないが。

 先を歩く母について向かった先は小洒落た料亭。なんと私、これからお見合いなんです。驚いた?私が一番驚いてるよ!

 あれから勝手に話を進めた母は驚くスピードで方々に連絡をし、私の見合い相手を探し出した。それはもう止める隙もないほどの機動力で。私が何もする気がないのを悟ってか見合いの日取りも、当日用の着物も全て母が段取りを決めていた。止められないし、逃げられないと悟った私は諦めてこうして大人しく見合いの席にきたわけだが……既に面倒になっている。結婚についてあれこれ考えてみたものの、元々まだ結婚に対しての意識が弱い為、やる気もない。なかったことにならないかなー、まぁでも向こうが私を気に入らなければなかったことになるよね。なんて、既に破綻する未来を予想しながら入口をくぐる。相手方は既に用意された部屋で待っているようで、歩きづらい着物でザカザカと足を進める。

「失礼します」

 どうぞ、という声を受けて母に続いて部屋に入る。憂鬱さを隠しきれずに俯きながら部屋に入り、案内された場所へと腰を下ろした。しかし、その姿は相手方には緊張しているように見えたらしく、男性の母親らしき方の笑い声が聞こえた。うぅ、帰りたい。

「ふふ、緊張なさっているのかしら?可愛らしいですね」

 そんな滅相もないです!と土下座したくなった。ちょっと吐きそう。すると、目の前からとぽぽ、という軽い音がした。そして目の前に温かな湯気を立てる湯呑が差し出された。

「まぁ、飲むといい」
「あ…ありがとうございます」

 どうやら相手の男性が気を利かせて茶を淹れてくれたらしい。ありがたいが、申し訳なさがプラス1された。差し出された湯呑を両手で引き寄せる。と、湯呑の中央でぷかぷかと浮かぶそれに気付いた。

「あ、茶柱……」

 思わずそう呟くと、前方からふっと微かに笑う声が聞こえて顔を上げる。上げてしまった。するとどうだろう、目の前には驚く程のイケメンがいた。右目が殆ど前髪で覆われているのが気になるが、確かにイケメン。というより美形だ。こりゃ、驚いた……とんでもないイケメンと見合いすることになってしまった。今すぐ逃げたい。そして私はすぐ、恐ろしいことに気付いた。
 この人の名前、わかんない。
 見合いをするにあたって、相手の写真や軽いプロフィールなどを母から渡された。しかし張り切る母に対して勢いが萎んでしまった私はその時から既に破綻の未来を予測していた為、「どうせ破綻になるんなら見なくてもいいよね」という理由で全く見ていなかったのだ。今思えば失礼にも程がある。せめて名前だけでも確認しておけばよかった。そんな後悔と焦りで冷や汗をかいていると、私の思いを察してか(それはそれでまずい)、相手の男性が名乗ってくれた。

「古備前鶯丸だ」

 ありがたや!これ幸いと私も名乗ると、「知っている」と微笑みながら返された。あれ、これ私が知らないのわかってるんじゃないの…?と、今度は別の冷や汗をかいた。見透かされている感じがする。

 古備前さんが淹れてくれたお茶を飲みながら、親を交えて軽い話をしていた。私はお茶を飲みながら相槌を打っているばかりだったが、話を聞いていたところ相手はどうやらお坊ちゃんらしい。由緒正しい家柄の息子さんだそうだ。古備前派の茶道の家元?お茶はペットボトルでしか飲まないです。でも抹茶のスイーツは好きです。相手が私と月とスッポン過ぎて軽い現実逃避をしていると遂にやってきた例のアレ。

「じゃあ、そろそろ若いお二人で…」

 テンプレありがとうございます!じゃない。あぁ、遂に来てしまった。何を話したらいいんだ。適当に話していたら破綻になるかな?でも空気が悪くなるのは耐えられない。ただでさえ着慣れない着物で苦しいのに。
 すっかり温くなってしまった湯呑の底を眺めていると、古備前さんが立ち上がる気配がして顔を上げた。

「ここの庭園は見事だと聞いたのでな、少し外に出ないか?」
「あっ、はい」

 アッハイ。これもテンプレなんですね。相変わらず脳内では現実逃避が忙しい。よいせ…と立ち上がろうとしたところで目の前にすっと差し出される手。わぁ、イケメンは動作がとても自然ですね!怖い!でも着物がとても動きづらいので遠慮なくその手を借りる。

 案内された庭園は、確かに見事なものだった。思わず「わぁー!すごいっ」とはしゃいだ声を出してしまってハッとした。恐る恐る古備前さんを見てみれば、とても微笑ましそうに見られていた。なんだその目は、子供みたいな反応で悪かったな。お坊ちゃんにとってはこういう庭園は見慣れているのだろうが、私は一般人なんだからね!というツンデレな反応が出来たら面白かったのだろうが、実際は恥ずかしさMAXであり、慌てて目を逸らして無意味に髪を撫でることしか出来なかった。ぐぅ。

 庭園に来てみたものの、やはりそこに会話はなく。二人少し距離を空けて並びながら静かに庭園を眺めていた。何か会話を、と思うが何も思い浮かばない。そもそも良いとこのお坊ちゃんを喜ばせる会話なんて出来ないのだけど。何を話しても教養の違いが出てきそうで恐ろしい。最初からハードル高すぎんよ、お母さん。なんてことをつらつらと考えていると無意識に溜息をついていたらしい。それを聞き取った古備前さんがこちらを向いた。

「あまり乗り気ではないようだな」
「あっいえ!いや、えっと……すみません」

 まずい。これは流石に私が悪い。溜息とか一番駄目じゃないか。しかし取り繕う言葉も出てこず、素直に謝ることしか出来なかった。古備前さんは気にしていないと言ってくれたが、流石に気まずい。というか溜息つかれたのに気にしてないとか神様か。あ、それとも「(別にお前と結婚するつもりはないから溜息を疲れようがなんだろうが)気にしていない」という意味だろうか?いや、流石にそれは考え過ぎか。というかそんな最低野郎には見えないから違うだろう。

「誰か懸想している相手でもいるのか?」
「いえ、それはいないです」

 これにははっきりと答えた。曖昧な答え方をしてしまえば、失礼を重ねてしまうだけだ。今更遅いのだろうけど。今度は相手の目を見てきっぱりと否定すると、古備前さんはやんわりと目を細めて笑った。この人は、本当に優しそうに笑う。ますます私が相手ではいけない気がしてきた。こんなところで、私の前で足を止めている場合じゃない。この人にはもっと相応しい人がいるはずだ。そう思ったら、なんだか少し気分が楽になった。楽になったついで、私は正直に話してしまった。この見合いが決まった時の心境、それに至るまでの経緯。古備前さんが静かに、でもしっかりと相槌を打ちながら聞いてくれるから全て話してしまった。

「それで……あっ!ごめんなさい!」

 正直に全て打ち明けたあとでハッとしたが今更遅い。此処に来るまでの間大人しくしていた分が吐き出されたのだろうか、怖い。後半に関しては何だか愚痴も混じっていたような気もするし、私は一体何をやっているんだ。頭を抱える代わりにシュン、と俯いていると。

「良い友人だな。相手の幸せを望んでいる。友人は君の、君は友人の」

 フォローなのか何なのかわからないが、古備前さんのその言葉には嬉しくなった。そう、私は彼女が幸せで嬉しい。また、彼女も私の幸せを望んでくれていて嬉しい。だからこそ、応えてみようと、頑張ってみようと思った。まぁ、結果はこんな有様なのだが。

「あの…古備前さんは何でお見合いを?相手には困らなそうですけど」

 正直にも程があるだろう、私。しかし古備前さんは気を悪くした様子はなく、すんなりと答えてくれた。

「俺?俺はそうだな…まぁ、似たようなものだ。早く身を固めろと、弟にせっつかれていてな」
「弟さんがいるんですね」

 そう言えば、古備前さんはとても嬉しそうに笑った。それからは弟の大包平さんについて古備前さんがとても楽しそうに話すので、今度は私が聞き役になった。いや本当、会ったこともないのに大包平さんについて詳しくなりそうなほどに語ってくれた。
 古備前さんは長男らしいが、実家を継ぐのは弟の大包平さんらしい。自分があまりにも自由で実家に縛り付けることは出来ないと早々に判断したらしい両親が決めたと。それに対して悔しいと感じたことはないし、寧ろ肩の荷が降りた気分だと笑っている。まぁ、これ幸いとのらりくらりと自由気ままに過ごしていたわけで、気付けば周りの同年代は結婚してしまったし、弟の大包平さんも結婚してもう子供までいるらしい。いつの間にか叔父さんになっていて驚いたなぁ、などと呑気に言っている。何だか私と似ているなと、勝手に親近感が沸いてしまった。

「なんか、私と似てますね」
「ん?あぁ、確かに言われてみればそうだな」
「でも古備前さんならすぐ結婚出来そうですね」
「そうか?」
「はい。私は、頑張らないとかなぁ…」

 すっかりこの見合いは破綻する前提で話してしまっているが、古備前さんは特に戒める様子もないし恐らく同じ気持ちなのだろう。自分が古備前さんの立場ならこんな女はいやだ。

「結婚はしたいのか?」
「ううん……どう、なんですかね。確かに、周りは幸せそうだなって思うし、知り合いの子供とかと会うと可愛いなって思いますけど、いざそれが自分の立場になると上手く想像出来ないです」
「まぁ、そんなもんだろう」
「古備前さんは焦ったりしないですか?」
「男はあまりそういうのは感じないんじゃないかな」
「そっか…じゃあ、あまり焦ってない私って、やばいですかね?」

 結婚なんてまだまだ先。そんな事を思って逃げていたらもう20代後半。あれ、逃げて…たのかな?どうなんだろう。

「まぁ、他人の言うことなど気にするな。一度きりの人生、謳歌してこそだろう。無理して周りと足踏みを揃える必要はない」
「そう、かな…」
「あぁ」
「そう、ですね……うん」

 初対面のはずなのだけど、古備前さんの言葉は友人と同じで、私の中にすーっと入ってきた。そうだよね、焦っていいことなんてない。もう20代後半だなんて思ってたけど、まだ20代じゃないか。今は時期じゃないだけで、その時になったら私だって。あぁ、何だか気分が良くなってきた。着物の苦しさももう気にならない。
 すっかり緊張も溶けてすっきりした私はそれから古備前さんと他愛ない世間話に花を咲かせた。そろそろ時間だ、と見に来た母達には何だか良い笑顔を向けられてしまったが、申し訳ない。このお見合い既にぶち壊してます!両者結婚する意識が低いことぶっちゃけてました!私たちが何だか話に盛り上がっていたので気を利かしてもう少し時間を伸ばすかと言われたがとんでもない。これ以上私にボロ出させないでください。しかし紳士な古備前さんに、あまり女性を長く連れ回すのはよくないとやんわりと断られたおかげで回避出来た。出来た男ですね、本当。どうか、何処ぞのご令嬢さんとお幸せに…!







 母はとても嬉しそうだったが、私がその気がないことを告げるととても残念そうにしていた。それはもう、きのこが生えてくるんじゃないかというくらいしょんぼりと、じめっと。

「良いとこのお坊ちゃんと結婚なんて、私には荷が重すぎるよ」
「良い感じだと思ったのに…」
「………」

 うっ…罪悪感の海に溺れそう…

「…今度はごく普通の一般家庭のサラリーマンとかがいいなぁ」

 瞬間、母の表情が破顔した。それはもう、表現するなら「(*゚▽゚*)パァァ」といった感じだ。復活早い。今回の結果がどうであれ、母は娘が結婚する気があるということが嬉しいらしい。うん…相変わらず結婚に対する意識は低いけれど、お見合いは続けてみようかなと思った。出会いがないと思っていたのは自分だけで、もしかしたらこの人だっていう人が見つかるかもしれないしね。だが古備前さんは駄目、私が不釣り合いすぎる。後ろからプギャーされかねない。
 しかし母は古備前さんに心残りがあるようで、「いいの?ほんとにいいの?断っちゃうの?」と何度も聞いてくる。まぁ、ぶっちゃけ良物件だったもんね、食いつくのは仕方ない。しかし私にはハードルが高すぎる。話しやすかったけどね。断る裁断で話を進めると、漸く母は諦めたようだ。肩はしょんぼりしているけど。

 私はいつしかのようにソファに寝転がっていると電話が鳴った。家の電話だ。はーい、とコールに答えて母が電話に出る。電話用の1トーン高い声で名乗っているが、次第にその声に困惑の色が宿る。どうしたんだ、怪しい勧誘かなにかかと視線を送ると、戸惑った母と目があった。目があったまま母は電話の相手と会話を続けている。この間はどうも…って、もしかして、古備前さん、でしょうか…?わあああ、確かに破綻しよう!と今決定したばかりの相手から電話来たら戸惑うわ。タイミング良すぎかよ。まぁでも、きっと向こうから破綻の連絡が来ただけだろう。あんなにぶっちゃけちゃったし、お互い結婚する気ゼロだったし。再びソファに身を沈めてファッション雑誌を眺めていると、通話が終わったようで母が近付いてきた。

「こないだの人?古備前さん?」
「えぇ、そうよ」
「お断りの電話でしょ?まぁしょうがないしょうがない。こっちも断ろうとしてたしね」

 雑誌から顔を上げることなく、ぶらぶらと足を遊ばせていると、何だか母の様子が可笑しい。なんかもじもじしてる?怪訝そうに顔をあげて母を見ると、様子がおかしいというかなんか、ちょっと嬉しそうだった。ん?

「なに、どしたの?」
「あの、それがね…」
「うん?」

「古備前さんが、この話、お受けしますって」
「」

 ………?
 ………ん?

「え、いやっ、ちょ……え、何で?!」
「なんでって…あんたのこととても気に入ってくれたみたいでね、是非って」
「は、」

 いやいやちょっと待って。あれ?あの時の雰囲気、明らかにお互い「この見合いはなしだな」って感じだったよね?どこに気に入る要素があったの?あれか、庭園の池に放たれていた鯉を見て「あ、牛柄」とか言っちゃったあれか。古備前さん吹き出してたけど、まさかな。ちょっとアホを晒しちゃっただけで気に入られるところはなかった気がするんだけど、どういうことなの。
 母が言っている意味が理解できなくて、呆然と見上げるしか出来なかった。完全にフリーズしてしまっている。



「それでね、あなたにまた会いたいみたいで。今こちらに向かっているそうよ」



 その時、来客を告げるベルが鳴った。