イスカリオテ
気がつくとユキは冷たい床の上に寝転がって、目の前に広がる惨劇を見つめていた。
氷帝の日吉が鬼のような形相で男子生徒に圧し掛かり、その顔を殴りつけている。
それが終わると今度は落ちていたサバイバルナイフを拾って無我夢中で刺し始めた。
男子生徒がもう動かなくなっても、その死を認識しても、恐怖心が勝るのか何かに怯えるように何度も何度も。
「っ……」
ユキはイモムシのように体をくねらせて身を起こし、床にお尻をつけたままゆっくりと後ろに下がる。
ある程度離れてから立って逃げようとした時、日吉がこちらを振り返ってナイフを握り直した。
血走った目は何かに取り憑かれたように怪しい輝きを放っている。
「!」
鳴り響く警告音に従うようにユキは両手を縛られたまま逃げ出すが、すぐに掴まってうつ伏せの状態で床に押し倒された。
「うっ……」
衝撃で呼吸が止まりそうになるが頭を押さえつけられて耳元で頭蓋骨が軋む音が響いた。
床に強く押し付けられているせいで助けを呼ぶ事もできず、背中に日吉が乗っている重みで身動き一つ取れない。
死を覚悟したその時、突然日吉の呻き声が聞こえて背中の重みが消えた。
咳き込みながら体を起こすと、そこには心配そうな顔をした哲志の姿があった。
「大丈夫か!?」
肩を掴まれ顔を真っ直ぐ覗き込まれてユキは思わず赤面する。
なんて答えればいいのかわからなくて、とにかく必死に頷いた。
「今解いてやるからな。もう少し我慢しろ」
幾分ほっとした様子の哲志が背後に回り、落ちていたサバイバルナイフで両手を縛っているネクタイを切り始める。
両手が自由になるとユキはようやく張りつめていた息を吐き出す事ができたが、その前に哲志に強く抱きしめられてまた呼吸が止まった。
「よかった。無事で……心配したんだぞ!」
泣いているのか、微かに震えた寂しそうな声だった。
だいぶ息が上がっているので、おそらくずっと校舎内を捜し回っていたのだろう。
赤也の姿がない事が気掛かりだが、とにかくもう一度会えてよかったとユキは哲志に礼を言って震える体を抱きしめ返した。
しばらくして落ち着きを取り戻した哲志は、日吉がめった刺しにして殺害した男子生徒に気づいて驚きの表情を浮かべた。
「森繁……!」
「……知り合いなんですか?」
哲志は静かに頷いて森繁のポケットからはみ出している学生証を手に取る。
するとその隙間から小さな紙切れが滑り落ちてユキの指先にぶつかった。
拾い上げてみるとそれは何の変哲もない真っ白な紙の切れ端だった。
特に文字が書かれている訳でもないし、ただのゴミのように思えるが……。
「それは……」
哲志が気づいてそっと切れ端を手に取る。
それを大事そうにポケットにしまって、それからユキに向き直って微笑んだ。
「もう大丈夫だ。"お兄ちゃん"が守ってやるからな」
「……え?」
きょとんとした顔のユキを置き去りに哲志はナイフを握り締めて立ち上がる。
「きっとまだ希望はあるはずだ。どこかにきっと出口はある。だから一緒に行こう、"由香"」
「……」
友人の死を目にして悲しみに暮れながら、それでも前を向こうとする哲志に恐怖心は感じなかった。
ただとても……とても悲しかった。
いつからこれほど無理をしていたのだろうと思ってしまうくらいに、差し出された手はとても弱々しかった。
穏やかで優しい彼はきっと自分が壊れ始めている事に気づいていないのだろう。
自分なりに精一杯前を向いて努力をして、いなくなった妹を捜し続けていた。
けれどもうとっくに哲志の精神は限界を迎えていたのだろう。
現実を受け止める事ができずに、空想の世界を作り出して自分という存在をその体に繋ぎ止めている。
彼の妹がどうなったのかはわからないが、おそらくもう……。
「……ごめんなさい」
差し出された手を掴む事はできなかった。
自分は彼の妹ではないから、その手を、その気持ちを受け止める事はできない。
たとえ偽りでもそうした方がいいとわかっていても、自分は"由香"にはなれないと思う。
このまま自分が"由香"になってしまったら、本物の"由香"は居場所を失ってしまうから。
たとえもうこの世にいないのだとしても、死者は生者の記憶の中でしか存在できないのだから。
だから……一緒にはいられない。
「"由香"?どうしたんだ?」
不安そうな顔でこちらを見る哲志に、ユキは背を向けて走り出した。
あまりにも色々な事が重なり過ぎて頭も心も混乱していた。
どうすればいいのかわからなくて、無意識の内に助けを求めていた。
いつも自分の側にいてくれる彼と、一番の理解者である兄に……。
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