アスタロト
「……それで別行動ですか?はあ……いつもポーカーフェイスを気取ってる割には情けないくらい感情的なんですね」
「……」
ため息をついて呆れた表情で振り返る日吉に、忍足は返す言葉が見つからなかった。
部室棟での出来事は確かに衝撃的で向日の死はそう簡単に受け入れられるものではなかったが、まさかあそこまで感情的になるとは自分でも思っていなかった。
一人になって冷静さを取り戻して自分の幼稚さに呆れたくらいだ。
日吉に言われるまでもない。
あの時感情的になって跡部に言った言葉は全てただの八つ当たりに過ぎない。
受け入れたくない仲間の死、得体の知れない悪意、死ぬかもしれないという恐怖。
それらの感情に混乱して行き場のない思いをただぶつけていたに過ぎない。
危険だとわかっていたのだから絶対に単独行動は避けるべきだった。
そんな事は百も承知で……それなのに跡部に向かって意味のない罵倒を続けた。
何かにすがりついてないと自分が消えてしまいそうで不安だったのだ。
見えない誰かの悪意を、実態のある何かのせいにしてしまえば幾らか心が安らぐから。
だがそれはあの場で向日の死を目の当たりにしてしまった跡部にも言える事だ。
……今考えれば、跡部はとても冷静だった。
仲間の死に動揺していても決して弱音を吐かず、忍足の事も気遣っていた。
向日が死んで、自分もいつ死ぬかわからないあの状況で、それでも決して油断するなと忠告してくれた。
なのにその思いを土足で踏みにじり、鍵を奪って逃げ出したのだ。
再会したら問答無用で殴られそうだ。
それとも日吉と同じように心底呆れるだけだろうか。
いずれにしろあれは自分の落ち度だったと忍足も理解している。
「とにかく今は先輩達と合流するのが先決です。行きますよ」
「ああ。せやな……はあ、跡部怒っとるやろな」
「この状況であの人がそんな些細な事を気にするとは思えませんけど」
「それもそうやな。まあええわ。それより宍戸と鳳を見かけたっちゅーのはほんまか?」
「ガラス越しでしたけど間違いありません。俺の声が聞こえなかったのか、さっさと廊下の奥へ走って行きましたけど」
日吉が偶然忍足と出会ったのは数十分前の事。
それより数分前に日吉は廊下を走る宍戸と鳳の姿を目撃した。
何かに追われていたのか、宍戸はだいぶ混乱した様子ですぐに廊下の奥へ消えてしまったが、鳳の方は平然としているように見えた。
日吉は広場にいて校舎内に入れなかったのでガラス越しに声を掛けたのだが、二人共気づかずに行ってしまったのだ。
ようやく鍵の開いた非常口を見つけて中へ入る事ができたのだが、そこで見つけたのは無惨な死体ばかりだった。
青学の河村、不動峰の二年生達……どこに行っても物言わぬ死体ばかり。
忍足に出会っていなければ気が狂っていたかもしれない。
それほどここは異質で恐ろしい空間になってしまっている。
見慣れた廊下や教室も、今では何だかより無機質で息苦しい刑務所のように思えてならない。
保健室前の階段から二階へ上がると、一年生の教室から物音が聞こえた。
警戒しつつ中へ入り日吉がライターの火で奥を照らすと、窓際に女子生徒の死体があった。
壁と椅子の間に猫のように丸まって横たわり、何かを大事そうに抱えたまま息絶えている。
少しだけライターを近づけて確認してみると、それは首から切り離された人間の頭部だった。
あまりに変わり果てているので確証はないが、おそらく息絶えた少女と同じくらいの年頃だろう。
その顔は恐怖に歪み、虚空を見つめたまま口をぽっかりと開けている。
「また死体……どうなってるんだ」
うんざりした様子でため息をつく日吉の後ろで忍足は吐き気を堪えるように口元を押さえる。
「あかん、頭がくらくらする。早よ行くで」
「不動峰の連中と言い、ここに集められているのはテニス部の関係者かと思ってたが違うのか?……一応聞くけど、忍足さんこの二人に見覚えは?」
日吉に尋ねられ反射的に死体を直視してしまった忍足は、慌てて顔を背け苦しそうに咳き込んだ。
「し、知らんわ!それより自分どういう神経しとんのや!」
「さすがに最初は驚いたけどもう慣れましたよ。そうでなきゃとっくに狂ってる」
「相変わらず図太い神経しとるわ……」
真っ青な顔で俯きながら忍足が廊下に戻ると、日吉が何かに気づいて後ろを振り返った。
「……鳳?」
「……」
薄暗い廊下の真ん中に見慣れた同級生がぼんやりと立っていた。
忍足も気づいて振り返るが鳳は黙ったままじっとこちらを見つめている。
「どないしたん?」
忍足がそう声を掛けた時、鳳が突然駆け出して忍足に体当たりした。
火のついたライターを持っていた日吉はとっさに避けたので気づくのが遅れてしまったが、鳳は右手に包丁を持っていた。
べっとりと赤黒いジャムのようなものがついた包丁。
それを勢い良く振り下ろし忍足の腹に突き刺す。
「がっ……」
「!」
突然の出来事に一瞬頭が真っ白になるが、状況を理解して日吉はすぐライターを消して鳳に掴み掛かった。
だが凄まじい力で振り払われ体勢を崩した次の瞬間、日吉の目の前で防火扉が大きな音を立てて閉まった。
「なっ……」
慌てて立ち上がり手動レバーに手を伸ばすが扉を開ける事はできなかった。
誰の仕業なのか、防火扉のレバーはセメントで固められていたのだ。
「忍足さん!!」
力一杯扉を叩いて耳を澄ませるが、聞こえて来るのはくぐもった呻き声と肉を切り裂く不気味な音だけ。
やがて呻き声は小さくなり、そして血肉を啜る音だけが響き始めた。
「っ……」
耳を塞いでも背中を向けても音は鳴り止まない。
「あああああ!!」
悪夢をかき消すように叫びながら日吉はその場から逃げ出した。
そうでもしなければ、もう正気を保っていられなかった。
この音が届かない場所ならどこでもよかった。
自分の叫び声で頭が割れそうになっても、もうどうでもよかった。
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