Chapter8
「お兄ちゃん……っ」
暗い教室の片隅でユキは泣きべそをかきながら頭を抱えていた。
黒服の男に追われ逃げる為に跡部達と二手に別れたが、その後日吉ともはぐれてしまいユキは一人暗闇に怯え震えていた。
僅かな物音にも敏感に反応し、外で雷が光る度に心臓が縮み上がった。
「怖いよ……お兄ちゃん、助けて……っ」
全てを否定するかのようにユキは耳を塞ぎ目を閉じるが、どんなに待っても兄が助けに来る事はなかった。
やがてユキはそっと顔を上げて恐る恐る廊下の様子を窺った。
「……」
暗闇に目を凝らすが人の気配はない。
恐ろしい殺人鬼の姿も日吉達の姿もない。
しばらく立ち止まってそれからユキはゆっくりと歩き始めた。
涙で視界がぼやける度に無理やり手で拭って前を向く。
泣いていても何も変わらないと日吉に教えられたからだ。
優しい兄や鳳と違って日吉は自分にも他人にも厳しい性格だが、彼はいつも前向きで努力を怠らない。
誤解される事も多いが本当は面倒見も良く、割と心配性だ。
委員会で初めて会った時は冷たくて怖い人だと思ったが、文句を言いながらも資料を探すのを手伝ってくれたり、厳しいながらも的確な助言をくれたりと何かと世話になる事が多かった。
最近はテスト前になるといつも学校の図書室で勉強を教えてくれる。
そのせいか成績も少しずつ上がって先週の小テストで満点を取った時はたった一言ではあるがよく頑張ったなと褒めてくれた。
それがとても嬉しくて、その日はずっと上機嫌だった。
……平凡だけど楽しい毎日だった。
なのにどうしてこんな事になってしまったんだろう。
「夢ならよかったのに……」
思わずそう呟いた時だった。
腐食している床に気づかず、踏み出した瞬間に床が抜けて体がぐらりと傾いた。
慌てて手を伸ばしたが間に合わずそのまま床穴へと落下する。
悲鳴と共に死を覚悟したが、突然肩と腕に衝撃が走り体が止まった。
「ユキ、大丈夫か!?」
「っ……健兄っ」
そこには焦りの表情を浮かべてユキの手を掴む黒崎と、心配そうな顔で穴の中を覗き込む袋井の姿があった。
「よいしょっと。ふう……危なかったぜ。怪我とかしてないよな?」
聞き慣れた声にユキの目にまた涙が浮かんだ。
恐怖と不安で押し潰されそうだった心がふわりと温かくなる。
「無事でよかった。刻命は一緒じゃないのかい?」
「お兄ちゃん……」
寂しそうな顔で俯くユキを見て袋井は慌てて言い直した。
「だ、大丈夫さ。きっと刻命もどこかにいるはずだ。一緒に捜そう」
「ほらユキ、立てるか?」
黒崎の手を借りて立ち上がるとユキは涙を拭って頷いた。
そこでようやく袋井が怪我をしている事に気づいてユキは心配そうにその顔を見上げた。
「あの……怪我、大丈夫……ですか?」
「ん?あ、ああ。たいした傷じゃない。黒い服の男に襲われて結衣先生とはぐれてしまって……」
「美月さんも大丈夫かな。そいつに襲われてなきゃいいんだけど……」
「ああ。霧崎も無事だといいんだが。とにかく皆を捜そう」
「そうだな。けどここ本当に学校なのか?さっきから歩き回ってるけど何か形が変わってないか?」
「ああ、俺もそう思っていた所だ。時々起こる地震の後に校舎の様子が変わっている気がする」
「ったく、訳わかんない事ばかりだな」
ため息をついて黒崎は廊下を歩き出した。
しかしすぐに足を止めて訝しげな顔で前を見つめた。
「おい袋井、ここ確か行き止まりじゃなかったか?」
「ああ……そのはずだが……」
「廊下が伸びてる……」
真っ直ぐ伸びた廊下のつきあたりには扉があり、その向こうに渡り廊下が見える。
袋井が扉を開けると雨の匂いと生暖かい風が3人を包み込んだ。
「向こうにも校舎があるぜ」
「別館のようだな。行ってみよう」
「……大丈夫かな」
「俺達がいるんだから平気だって!ほら、こうすりゃ少しはマシだろ?」
不安そうに呟くユキの手を握って黒崎が笑みを浮かべる。
いつもと変わらない明るい笑顔を見てユキはほっとしたように頷いた。
別館へ移動し東階段から二階へ上がると図工室へ続く南廊下が途中で崩れて通れなくなっていた。
助走をつければ跳べない距離ではないが、床の損傷が激しくあまり負担を掛けるとそのまま落下し兼ねない雰囲気だった。
「こっちは無理だな。一旦戻ろう」
「あっちに資料室があるぜ」
「……あ」
不意にユキが廊下の向こうを見つめて声を上げた。
訝しげに思って黒崎がその視線を追うと、図工室の前に赤い服を着た少女が立っていた。
「子供?」
「あの子も……ここに迷い込んだのかな?」
「あんな小さな子までいるのか。おーい、君!」
袋井が穴の側に近づいて声を掛けるが少女はそのまま廊下の奥へ走り去ってしまった。
「行っちゃったね……」
「仕方ない、とりあえず一階に戻って……」
そう言い掛けた袋井は階段の方を振り向いて背筋が凍った。
そこには重そうな斧を手に持った黒服の男が立っていたのだ。
「あいつ……!」
男の存在に気づいた黒崎も焦りの表情を浮かべる。
3人はすぐ図工室とは反対側にある資料室の方へ移動するがここに逃げ込んだ所でどうにもならない事はわかっていた。
「くそ、どうする?ここじゃ逃げ場がねえぞ!」
「とにかく彼女だけでも隠さないと……っ」
「んな事言ったって……っ」
黒崎達は慌てて教室の中を見回すが身を隠せそうな場所はどこにもない。
背の低い本棚では裏に回り込んだ所ですぐに見つかってしまうだろうし、机の下は狭くて子供がやっと入れるくらいの大きさしかない。
「来るぞ!」
「!」
足音が近づいて来て黒崎はもう一度辺りを見回した。
目に映ったのは本棚の近くに置かれていた大きな段ボール箱だった。
中に入っていた書類を全て床にぶちまけて、黒崎はユキを無理やりその中へ入れて蓋を閉めた。
「そこでじっとしてろ!」
小声で指示を出した直後、扉が開いて男が姿を現した。
「っ……来るなあああ!!」
袋井が近くにあった本を手当たり次第に投げつけるが、男の体に当たったはずの本はそのまま体をすり抜けて床に落ちた。
「!」
男が斧を振り上げそれを避けようとした袋井は足を滑らせて壁際に倒れ込んだ。
「袋井!!」
止める間もなく男が斧を振り下ろし、立ち上がろうとした袋井の頭にぶつかり鮮血が飛び散った。
血と錆びに覆われた斧には切れ味などほとんど残っていないが、鈍器としては十分だった。
がつっという鈍い音と共に袋井の体が崩れ落ち、返り血を浴びた男が黒崎の方を振り返る。
「ちくしょうっ、来るなら来いよ!返り討ちにしてやる!!」
隅に転がっていたモップを手にして黒崎が叫ぶと、男が血塗れの斧を振り上げ襲い掛かって来た。
黒崎は野球部で鍛えた反射神経を活かしてそれを避けると、全力でモップを振り回した。
モップの柄は木製だが当たれば怯ませる事くらいはできる。
しかし袋井が投げた本と同様、モップは男の体をすり抜け何の衝撃も感じなかった。
「この化け物!!」
男が斧を振るうとモップはあっさりと折れてただの木片へと変わった。
「っ……くそ、刻命……後は任せたぜ……っうおおおおお!!」
死を覚悟した黒崎は捨て身になって男に飛びつき拳を振るった。
背後で震えているユキの存在に気づかれる訳にはいかないと、ただそれだけを考えて無我夢中で殴り続けた。
黒崎の拳は確かに男の体に命中したが、男は少しよろけただけで痛みを感じている様子はなかった。
突き飛ばされ床に転がった黒崎はとっさに腕で頭をガードしたが間に合わなかった。
鈍い衝撃と共に激痛と耳鳴りがしてそのまま床に崩れ落ち、えぐるような痛みと共に徐々に意識が薄れていった。
「……っ」
暗く狭い段ボール箱の中で、ユキは頭の上から何度も降って来る黒崎の鮮血に耐えながら必死に声を押し殺していた……。
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