Book of Shadows
夢を見ていたような気がする。
妙に懐かしい、とっくに忘れたと思っていた子供の頃の夢。
俺は手にナイフを持っていた。
どうしても欲しいものがあった。
何をしても手に入れたかった。
「おーい、刻命ー!こいつだよ、この間見かけた猫って」
息を切らしながら走って来る黒崎の腕には一匹の猫が抱かれていた。
この前黒崎が公園で見かけたと言うその野良猫は、野良にしては肉付きがよく毛に覆われた体は少し重そうだった。
どこかに餌場があるのか、道行く人間が与えているのか、それはわからないが。
「ちょっとでっぷりしてるけどこいつお散歩コースじゃ結構人気なんだぜ?俺も犬飼ってるからあそこよく通るんだ」
黒崎はそう言って猫を庭に下ろした。
人慣れしているのか野良猫は庭に下りても逃げようとはしない。
「けどなんで野良猫が見たいなんて言ったんだ?お前の家なら幾らだって……」
俺は黒崎の言葉を無視して猫の前にしゃがみ込んだ。
じっと観察しても、他の猫とどこが違うのか俺にはわからない。
確かに野良だから毛並みは悪いが、それ以外にはこれと言って目立った違いはないように思う。
黒崎が言うようにこいつは野良でも人に好かれているせいなのか。
こいつにとって"野良"とは、単純に拠点としている場所がないというだけで他の猫と違う異質な存在という意味ではないのだろう。
「な?可愛いだろ?俺は犬の方が好きだけど猫もいいよな?」
そう言って笑いながら頭を撫でる黒崎に、野良猫は甘えた声で鳴く。
その様子を見ているとまたあの疑問が頭に浮かんだ。
この野良猫にあって俺にはないもの。
それが何なのか、どうしてもわからない。
黒崎に聞いた所で俺の納得する答えが出るとは思えない。
こいつも俺とは違うのだから。
「おい刻命?」
俺がポケットからナイフを取り出すと黒崎が少し戸惑ったように瞳を揺らした。
俺は構わず野良猫に近づいてナイフを振り上げた。
黒崎はただ茫然と俺を見ている。
「裕也!!」
突然背後から聞こえた怒鳴り声に俺の手が止まる。
振り返るとリビングにあるテーブルの前に一人の女が立っていた。
学校帰りなのか鞄を手にしたまま青白い顔でこちらを見ている。
「あ……刻命の姉ちゃん……」
立ち尽くしたまま黒崎が茫然と呟いた。
姉は庭に下りると慌てた様子で俺からナイフを取り上げ、俺を殴り飛ばした。
黒崎がびくりと肩を震わせるのが視界の片隅に映った。
「裕也……あんたまたこんな事……何考えてるの!!」
「……」
ヒステリックに叫ぶ姉を無視して俺はよろめきながら立ち上がる。
すると茫然と様子を見ていた黒崎が慌てた表情で姉に声を掛けた。
「あ、あの、俺ただ猫を見たいって刻命に言われて……っき、今日はもう帰ります!じゃ、じゃあまたな刻命!」
早口でまくし立て黒崎は逃げるように走り去って行った。
野良猫もいつの間にかいなくなっていた。
ふと自分の手を見ると指先がざっくりと切れていた。
さっきナイフを取り上げられた時に刃先が当たったのだろう。
でもたいして痛みは感じなかった。
俺の体はぽんこつだから麻痺しているのかもしれない。
「なんでいつもこんな事するのよ!黒崎君まで巻き込んで、あんた一体何がしたいの!!」
目に涙を浮かべながら姉はいつもそうやって俺に説教をする。
それは俺の為じゃない、自分の為……自分の保身の為だ。
俺の行動が両親に知られると自分の立場が危うくなる。
役立たずだとレッテルを貼られる。
そうなれば利用価値のなくなった自分は両親から見捨てられるとそう思っている。
両親の期待に応え、言われるがままに生きる事だけが兄と姉の目的だ。
兄は父親が敷いたレールの上を順調に辿っているし、姉も母親に言われるがままに同じ道を進んでいる。
それが自分の人生だと勘違いしたまま、一生気づく事はないのだろう。
ずっと昔から同じ人生を繰り返しているのだ。
祖父母の人生を両親が歩み、両親の人生を兄と姉が歩む。
そうやって続いて来たのだ。
井戸の中のカエルにはそれがわからないのだろう。
でも井戸の上から見下ろした時、底で暮らすカエルの一族がどれほど滑稽に見えたか……。
それでも井戸という閉ざされた世界では、それが当たり前でその通りに生きるしかない。
それを拒んだ者は異質な存在として扱われる。
"化け物"と呼ばれる。
俺はただ両親や兄達のように滑稽な存在になる事が嫌だった。
親の操り人形として生きる事が嫌だった。
自分で望んでこの世界に生まれた訳でもないのに、生まれた後で"不必要な存在"だと言われてもどうしようもない。
何の為に存在して、誰の為に生きているのか。
……この世界に俺は必要な存在だったのか。
答えが知りたかった。
父親は名の知れた獣医で家に来る患者の数も多かった。
事故で傷を負った犬、病気で苦しむ子猫……あらゆる動物が家を訪れ、助かる者もいれば助からない者もいる。
飼い主の表情も色々だった。
犬の治療が終われば嬉しそうな顔で何度も礼を言い、子猫が弱って死ねば涙を流す。
共通していたのは愛情。
子供でもわかる、相手を思う純粋な気持ち。
生と死の狭間でそれは一層輝きを増していた。
生きるとは、この輝きの為にあるのではないか……そんな風に思える程、俺はその輝きに魅せられた。
いつしかその輝きを欲しいと願うようになった。
それがあれば、俺も生きていられると思った。
でもどんなに探しても俺の中にそんな輝きはなかった。
俺を見るあいつらの目はいつも冷たくて、どんな色もしていなかった。
虚無……黒一色の何の輝きもない無意味な色。
だから奪い取ろうとした。
野良猫でも猫は猫、どこかにあの輝きがあるはずだ。
それがあれば俺は生きていられる。
猫は死ぬが輝きが失われる事はない。
子猫が死んでもその輝きは失われなかったのだから、野良猫の輝きだって消える事はない。
けれどそれは失敗に終わった。
あいつらは俺があの輝きを手に入れる事を恐れてるんだ。
俺がもしあいつらより優秀な"優等生"になったら、自分の価値がなくなるとそう思ってる。
俺に自分の輝きが奪われると、そう思ってる。
だからあいつらは俺を化け物扱いして自分達から遠ざけようとするんだ。
拒絶し、否定して、俺の存在を消そうとする。
それでも俺は消えなかった。
何も知らないままだったら、あいつらの言う事を大人しく受け入れる事ができたのかもしれない。
けれど一度あの輝きに魅せられた以上、それを諦める事はもうできなかった……。
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