零章 泡沫

激しい頭痛と吐き気の中、誰かの声が聞こえたような気がした。

その声だけが苦痛に飲み込まれる俺を救ってくれた。

意識の水底で俺はただその"誰か"を呼び続けた。

どうかこの手が届くようにと。

「ここは……どこだ?」

気がつくと俺は見覚えのない木造校舎の教室にいた。

辺りに人影はなく、置いてある机や椅子も随分と年季が入っている。

どこかの廃校だとわかるが、記憶を辿ってみてもはっきりしない。

まるで頭にもやが掛かったように曖昧だ。

すこぶる気分が悪い。

「……誰かいないのか!」

俺は声を掛けながら廊下を進んだ。

窓から差し込む夕日が廊下を赤く照らし出している。

そのせいで最初は全く気づかなかったが、よく見ると床板に赤い血痕のようなものがぽつぽつと続いていた。

誘われるように血痕を辿って二階にある理科室に入ると、そこに血塗れの男の死体が転がっていた。

頭部は熟した果実のように潰れていて顔もわからないが、毎日見てる"化け物"を見間違えるはずもない。

「……何だ。俺は死んだのか」

不思議と何の感情も湧かなかった。

死んだらもう少しせいせいするのかと思っていたが、頭が重いせいで気分は良くない。

だが自分の死体を見たら忘れていた記憶が戻って来た。

そうだ、ここは天神小学校だ。

何人もの人間を喰らってきた"化け物"のような学校。

だが俺には心地良い場所でもあった。

ここでは"化け物"の存在が許されている。

元の世界では拒絶され疎ましがられる存在でも、ここでは簡単に受け入れられる。

ここで求められるのはあいつらのような"優等生"じゃない。

弱者を守れる強者。それだけだ。

……なのに、どうしてこんなに気分が悪い?

生前の苦痛を引きずっているのか?

死んでようやく下らないしがらみから解放されたと思ったのに、死んでからも地獄が続くのか。

俺は馬鹿らしくなって自分の死体を蹴った。

だが蹴ったはずの足は体をすり抜けて衝撃さえ感じなかった。

どうやら今ここにいる"俺"は霊体で、死体とは言え"生者"には干渉できないらしい。

暇潰しに見つけた獲物の一人や二人、遊んでやろうかと思ってたんだがそれも無理か。

まあもうどうでもいい事だ。

いつかはわからないが、死んだのならいずれ消えるだろう。

欠片も残さず消えてしまえば、もう何も感じる事はない。

結局俺の求めるものは手に入らなかった。

最初から無意味な存在だったんだ、当然の結果だろう。

後はこの"俺"が消えるまでどうやって暇を潰すかだ。

宛ても無く歩き出そうとした俺は、背後に人の気配を感じて振り返った。

理科室の扉を開けて茫然と佇んでいたのは、見覚えのある少女だった。

「お兄ちゃん……?」

呟かれた言葉に俺は違和感を感じた。

彼女には"俺"が見えているのか?

確かにここは異質な空間で霊体らしき存在を何度も見て来たが、俺もその一つになったという訳か。

「君は……」

「あの、ごめんなさい。私、何も覚えてなくて……」

俺が何か言う前に彼女は慌ててブレザーのポケットから学生証を取り出して俺に差し出した。

「これポケットに入ってたんですけど、あなたの学生証ですよね?」

渡されたそれは確かに俺の物だった。

白檀高等学校、刻命裕也。

たったそれだけの何の意味もない情報だ。

だがそれより何も覚えていないというのはどういう事だ?

着ているブレザーは血塗れだが、これは"俺"の血だ。

見たところ、特に致命傷になるような傷も見当たらない。

「記憶がないと言ってたね?」

俺が尋ねると彼女はどこか不安そうな顔で頷いた。

「あ、はい……。自分の名前も思い出せなくて……」

「……」

やはり記憶を失っているようだ。

だがこれは好都合かもしれない。

どの道、俺はもうすぐ消えるのだから、今更何をしようと問題はない。

「……俺も"妹"を捜してたんだ」

「え?」

彼女の瞳が俺を映しながら揺れる。

本当に何も覚えていないのか。

所詮、俺はその程度の存在でしかなかった訳だ。

「その妹さんの名前は?」

「いや、思い出せない」

俺は静かに首を振った。

"妹"を捜していた……その言葉に嘘はない。

「私、大切なバレッタをどこかで失くしてしまったんですけど……見かけませんでしたか?」

「バレッタ?」

「"お兄ちゃん"から貰った物なんです。……それ以外には何も覚えてませんけど」

「……」

記憶を失くしてもまだ"兄"を捜しているのか。

そう言えば、いつだったか聞いた事があるな。

自分に生きる意味を与えてくれたのが"兄"だったと。

だからこそこんな状態になっても求め続けるのか。

哀れだな。

……哀れ?

そうだ、俺は確かにこの少女を見て哀れだと思った。

地獄のような場所で怯えながら兄を捜すこの少女を。

だからこそ俺はこの少女に興味を持った。

俺の中にもまだそんな人間らしい感情が残っていたのかと確かめたくなって。

あの時、苦痛の中で聞いた声はこの少女の声だったのか。

すぐに逃げ出すと思っていたのに、この少女はずっと俺のそばにいた。

いつ殺されるかもわからないあの状況で。

早く逃げればいいものを、俺が完全に意識を失うまでそこにいた。

何故だ?

どうしてそこまでして他人に尽くそうとする?

そんな事をしても何の得にもならないはずだ。

……やはりわからない。


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