零章 残留
静かに降り注ぐ雨。
霧と一緒に自分の気配も霞んで消えていく……。
私は誰なんだろう。
何故ここにいるのだろう。
答えを知りたくて、彷徨い続けた。
ただ一つ残った「お兄ちゃん」を捜して……。
「……雨」
窓を叩く雨音に誘われるように私はふらりと立ち上がった。
教室の窓から外を眺めると、夕日で赤く染まった森が見えた。
周りに民家などはなく、山奥にぽつんと建っているような感じだ。
「ここ……廃校、だよね?」
腐りかけた床や机を見る限り、今は使われていないのだろう。
どうしてこんな所にいるのかわからないが、とても静かだ。
微かに聞こえるのは雨の音と床の軋む音だけ。
「……誰もいないのかな」
窓から漏れる夕日だけを頼りに廊下を歩き始めると、階段の前に制服を着た女の子が立っていた。
私以外にも人がいた事に安心しながら、私は女の子に駆け寄り声を掛けた。
「あのっ」
「……」
女の子は私に気づいていないのか、手に持ったペンライトで辺りを見回している。
「どこ行ったの凍孤……一人にしないでよ……美月、私はここにいるよ……!」
泣きべそをかきながら女の子は私から離れていく。
「待って!」
慌てて呼び止めたけれど、女の子はこちらを振り返る事もせず階段を下りて行ってしまった。
……無視されちゃったのかな?
でもあの子も誰か捜しているみたい。
「もう一度声を掛けてみようかな……」
私は階段を下りて女の子の姿を捜した。
すると保健室の中に彼女が入って行くのが見えた。
薄暗い校舎内にペンライトの光が揺れるからすぐにわかる。
女の子の後を追って保健室に入ると、そこはずいぶんと荒れていた。
薬瓶などが並んでいた棚は床に倒れて、粉々に砕け散ったガラスが辺りに散乱している。
「もう嫌だよ……美月、凍孤……返事してよお……」
女の子はペンライトを握り締めたまま泣き出してしまった。
掛けている眼鏡が涙に濡れる。
どうするべきか迷ってから、私は意を決して女の子に歩み寄った。
「……あの、私……」
言い掛けてから私は言葉に詰まった。
自分の名前を言おうとして……そこで初めて気がついた。
私は……誰だっけ?
自分の名前を言うだけなのに、何故か口が上手く回らない。
「……私は」
続く言葉が見つからない。
苗字は?名前は?
たぶん私も学生なんだろうけど、どこの学校に通っているのか何も思い出せない。
クラスも仲の良い友達の顔も、まるで黒い靄が掛かったようにわからなくなってしまう。
必死に思い出そうとしても、何一つ浮かばない。
住んでいる家、家族の顔、好きな食べ物、趣味……。
驚く程、何も覚えていない。
「なんで……」
自分でも不思議だった。
記憶喪失になる程、頭を強く打った覚えはないし、体に痛みも感じない。
だけど、本当に何も思い出せない。
「あ……」
ふと気づくといつの間にか女の子の姿が消えていた。
私が考え事をしてる間にどこかへ行ってしまったのだろうか。
「……」
一人取り残された保健室でもう一度自分について考えてみた。
だけど浮かんだ光景はすぐに消えてってしまう。
まるでシャボン玉のように空に浮かび上がる前に弾け飛んで消えていく。
どうする事もできずに私は保健室を出てまた廊下を歩き始めた。
もうペンライトの光は見えない。
「あの子……誰を捜してたんだろう」
誰かと一緒にここへ来たのだろうか。
友達?それとも兄弟?
私は……どうしてここにいるのだろう。
私も誰かと一緒にここへ来たのかな?
「……あ」
無意識の内に頭に手をやって、違和感を感じた。
そこにあるべき物がないと。
「髪飾り……そうだ、私、バレッタを探して……」
頭の中に浮かんだのは大きなリボンがついた可愛らしいバレッタだった。
私のお気に入りでいつも身に着けていたはず。
それをどこかで失くしてしまったんだ。
自分の名前とかはまだ思い出せないけど、あのバレッタを見つければ何か思い出すかな?
そうでなくともあれは私の大切な宝物だから、どうにかして見つけ出さないと。
「どこかで落としたのかな……」
記憶を遡ってみるけど、やっぱり何も思い出せない。
この学校のどこかで落としたのは確かだと思うけど。
「明かりになる物を探した方がいいかな」
窓から差し込む夕日で廊下は比較的明るいけど、教室の中はやっぱりちょっと暗い。
懐中電灯とかどこかにないかな?
普通の学校だったら職員室とかに置いてありそうだけど、ここ木造校舎だし。
でも荒れているとは言え、用具などはそのまま置いてあるみたいだから探せば見つかるかもしれない。
後はロウソクやマッチかな?
「そう言えば二階に理科室があったっけ。アルコールランプとかあれば使えるかも」
来る途中に見かけた理科室へ向かい棚を調べると、マッチとアルコールランプがあった。
だいぶ古いけどダメ元でマッチを擦ってみたら火がついた。
そっとアルコールランプに火を移すとぼんやりと辺りが明るくなった。
懐中電灯に比べるとちょっと心もとないけど、贅沢は言っていられないよね。
「ここには無さそうだな……」
アルコールランプで照らしながら一通り見てみたけど、理科室にバレッタはなさそう。
別の場所を探した方がいいみたい。
私はまた廊下を歩き始めた。
こうして一人廊下を歩いているとまるでお化け屋敷を探索しているみたい。
遊園地にあるお化け屋敷にはあまり入った事がないけど、こんな感じなのかな。
誰もいない教室、床の軋む音。
赤い夕日が頬に当たって何だか熱い。
でも誰もいない校舎は静かで物悲しい。
さっきの女の子はどこへ行ったんだろう。
もう一度会えたら今度はちゃんと話したいって思うけど、自分の名前も思い出せないのに何を話したらいいんだろう。
自分がわからないなんて、怖いというより何だか不思議な感じで、とても寂しい。
私は誰も覚えてない。
私を知ってる誰かに出会えたとしても、私はその人を知らない。
私の中には何もない。
空っぽのまま漂っているだけ。
このまま消えてしまうんじゃないかって不安になる。
響き渡る雨音だけが私の心をちょっとだけ癒してくれる。
空は灰色の雲に覆われてどんよりしているけど、雨は嫌いじゃない。
「……声?」
廊下を歩いていると曲がり角の方から人の話し声が聞こえて来た。
「二階には特に変わった所はないな」
「じゃあ一階?」
「そうかもしれません。聞こえた方向からすると保健室の方かも」
「よし、行ってみよう」
二人の男子生徒と一人の女子生徒が階段を下りて行く。
私は慌ててその後を追った。
階段を下りて一階の廊下を見回してみる。
でもついさっきここを通ったはずの3人組の姿はもうどこにもなかった。
「誰かいませんか?」
声を掛けながら教室を一つ一つ覗いていく。
こんな廃校に人がいる事自体珍しい事だと思うけど、それならどうして私はここにいるんだろう。
さっきの人達はここに何をしに来たのだろう。
肝試しかな?
でも最初に会った女の子はずいぶんと疲れた様子で泣いてたし、もしかしてさっきの人達とはぐれちゃったのかな?
「……私も肝試しでここに来たのかな」
ぽつりと呟いて考えてみるけど、何も浮かばない。
誰とここへ来たのか、何か目的があったのか。
私は怖がりだったのかな?それとも好奇心が強かったのかな?
廊下を一人歩きながら色んな事を考えてみた。
好きなもの、苦手なもの……得意な教科、部活、習い事。
たくさん考えて、私は深いため息をついた。
どんなに考えたところで、私の中に答えはない。
記憶がないと感情まで薄れていくようで、だんだんと無機質になっていく。
だけど一つだけはっきりした事がある。
「あのバレッタは"お兄ちゃん"から貰った……」
顔も名前も思い出せないけど、私には"お兄ちゃん"がいた。
それだけははっきりと覚えてる。
喧嘩した覚えはないから、きっと仲が良かったんだと思う。
お兄ちゃんから貰ったあのバレッタが私の宝物で、お兄ちゃんと私を繋ぐ唯一の思い出。
「何か他に思い出せないかな……」
私は少しでも手掛かりが欲しくて自分の体を見回した。
私が今着ているのは薄い生地のワンピース。
でもちょっと透けてるから、これはワンピースじゃなくて下着のスリップなのかもしれない。
足は裸足で靴下も履いてない。
上に羽織っているのは赤紫色のブレザー。
でもこれは私の制服じゃないみたい。
大き過ぎて袖がぶかぶかだし、それにこれって男子の制服なんじゃないかな?
胸に校章がついてるけど汚れていて文字が読めない。
「あれ?」
ポケットの中を探ると手が固い何かに触れた。
取り出してみると、それは学生証だった。
表紙には白檀高等学校って書いてある。
中を開いてみると、そこに男の子の顔写真と名前やクラスなどの情報が載っていた。
「白檀高等学校2年4組、刻命裕也……」
名前や学校名に覚えはないけど、私は高校生ではなかったと思う。
たぶん中学生……なのかな。
だとすると……
「もしかしてこの人が私のお兄ちゃん?」
淡い期待が胸に広がる。
お兄ちゃんの事はほとんど思い出せないけど、私に残された唯一の手掛かりだ。
私はもしかしたらお兄ちゃんと一緒にここへ来たのかもしれない。
もしそうならこの学校のどこかにお兄ちゃんがいるかもしれない。
お兄ちゃんに会えば"私"の事も思い出せるかも……。
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