第六章 誘起
闇の中に少年の笑い声が響き渡る。
周囲を取り囲む薄っぺらい板がかたかたと震えた。
心臓が今にも口から飛び出しそうになるが、やがて笑い声は少しずつ遠ざかって行った。
「……」
完全に足音が聞こえなくなってから板に片耳をつけて慎重に外の気配を探る。
「……いない、よな?」
自分自身に確認を取ってから宍戸はそっとロッカーの戸を開けた。
静まり返った部屋の中に人の気配はない。
念の為廊下も確認してから宍戸はようやく息を吐いた。
「何なんだよあいつ。大石の奴、ちゃんと逃げたのか?」
まだ心臓がうるさく鳴り響くが、これ以上ここに隠れていても事態は進展しないので、宍戸はまた廊下を歩き始めた。
理科室で男子生徒の遺体を発見した直後、突然菊丸が叫びながら宍戸と大石に襲い掛かって来たのだ。
何かに取り憑かれたとしか思えない常軌を逸した目で、理科室に落ちていた割れたフラスコを振り回したり、窓ガラスに自分の頭を何度も打ちつけたり、全く予想のつかない異常な行動ばかり繰り返していた。
宍戸と大石はどうにか菊丸を落ち着けようと説得を試みたが今の菊丸は誰の声も耳に入っておらず、保健室にあった鋏を手にして襲い掛かって来た為、仕方なく二人は逃げ出したのだ。
逃げている途中で大石とははぐれてしまったが、無事に逃げられたのだろうか。
古い校舎内とは言え、宍戸は足が速く瞬発力に優れている為常軌を逸した菊丸から逃げ切る事ができたが、大石は菊丸の突然の豹変に戸惑っている様子だった。
「ん?これ……」
大石を捜しながら廊下を歩いていた宍戸は、木屑の側に落ちているハンカチに気づいて足を止めた。
ハンカチに見覚えはないが埃を被っていない所を見ると、まだ落ちて間もないようだ。
「大石のか?」
辺りを見回すと6年B組の教室から僅かに物音が聞こえた。
慎重に扉を開けて中を覗くと、窓際に横たわる大石の姿があった。
だが大石は天井を見つめたまま何も喋らない。
横たわる大石の側には菊丸が座り込んで何かを貪り食っていた。
「……お、おい」
勇気を振り絞って声を掛けると、菊丸がわずかにこちらを振り返った。
しかし口にしている物を目にして宍戸は悲鳴を上げながら廊下に尻餅をついた。
菊丸は人間の腸を食べていたのだ。
口も手も血と内臓物で汚れているが、菊丸は喜びの表情を浮かべながらひたすら人間の……"大石だったもの"を食らっている。
時折口を拭っては、「うまい」「もっと食いたい」「また腹減った」などと呟いている。
「っ……」
宍戸はどうする事もできずに床を這いずりながらその場を離れた。
後ろからごりごりと骨を噛み砕く音が聞こえる。
これ程の恐怖を感じたのは生まれて初めてだった。
心臓を鷲掴みにされるような、直接的な殺意。
理解できるとかできないとか、そういう道徳観をとうに超えた本能的な恐怖だった。
「はっ……うぐっ」
一階の端にある用務員室まで逃げた所で、宍戸は崩れ落ちるように畳に両手をつき喘いだ。
ここへ来て初めて遺体を目にした時のように、全身が震えて自分の体を支え切れなくなる。
頭の中が真っ白になって考えがまとまらない。
あれは一体何なのか、菊丸に何が起こったのか、人間はああも狂暴になれるものなのか。
疑問と不安だけが浮かび上がってすぐに霧消する。
「何なんだよ……もう訳がわからねえよ……」
気がつくと畳に涙が零れ落ちて染み込んでいた。
恐怖に心が耐え切れなくなって泣いているのか、見知った人間の死にショックを受けて泣いているのか、それすらよくわからない。
宍戸はしばらくそのまま泣き続けた。
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