第四章 沈黙

「……ねえ赤也、やっぱり戻ろう?」

二階2年C組の教室でユキが躊躇いがちに赤也に声を掛けた。

一階廊下で幸村の遺体を発見した後、柳と再会した赤也は彼が重傷の幸村を放置してその場を離れた事が許せず、反発してその場を逃げ出してしまった。

精神的に不安定な赤也を放って置く訳にもいかず、ユキは柳をその場に残して赤也の後を追ったが、頭の中に幸村の無惨な姿がちらついて残して来た柳の事が心配になった。

ここではもう何が起こっても不思議ではない。

赤也とてあと少し発見が遅ければ三階の女子便所で命を落としていたのだ。

七星が言った"裏切り者"の言葉は引っ掛かるが、やはり自分達の中にそんな人間がいるとは思いたくない。

一度離れれば二度と会えなくなってしまうかもしれない。

……幸村のように。

「私、蓮二君を迎えに行って来るよ。だから赤也はここで待ってて。絶対にどこにも行かないで、私すぐに戻るから」

「おい!」

教室を出て行こうとするユキの腕を慌てて赤也が掴んで引き止める。

「あんな奴放っとけよ」

「蓮二君だってきっと幸村君を助ける為に必死だったんだよ!私と真田君が何があっても赤也を助けたいって思ったように……っ」

女子便所で首を吊っている赤也を思い出してユキはまた冷や汗が流れた。

何かの冗談でも悪戯でもない。

赤也は確かに死に掛けたのだ。

もしあの時、赤也を救う事ができなかったら……どんなに自分を責めただろう。

後悔してももう遅いとわかっていても、きっと自分を許せなかったに違いない。

今、柳は一人で自分を責め続けているだろう。

誰かが側にいないと、きっと罪悪感に押し潰されてしまう。

もう誰も失いたくない。

「今までずっと私達を支えて来てくれたのは蓮二君だったじゃない!参謀の蓮二君がいなきゃ全国大会で優勝するなんて絶対に無理だった!」

「っ……」

「青学とのダブルスで暴走する赤也を止めてくれたのは誰だった?練習試合で怪我した足でどうしても試合に出たいって言い張った赤也を助けてくれたのは誰だった?」

少し思い返すだけでたくさんの思い出がよみがえる。

誰が欠けても全国大会三連覇はきっと成し遂げられなかった。

一人一人が成長し、仲間を信じて戦い抜いたからこそ、優勝を手にする事が出来たのだ。

たとえ弱肉強食の世界でも、固い絆で結ばれた仲間ならどんな壁でも乗り越えていける。

そう教えてくれたのは、誰よりも熱く仲間思いな赤也ではないか。

「……蓮二君だって怖かったんだよ。こんな所に連れて来られて、急にあんな話を聞かされて、ちょっと驚いただけだよ」

「……」

「幸村君達はいつも冷静に皆を導いてくれるけど、本当はたくさん無理だってしてるんだよ。辛くて苦しい時に部長の幸村君達が不安そうな顔してたら、皆もっと不安になるでしょう?」

今は離れた場所で暮らす双子の兄も学校ではテニス部の部長をしている。

皆を統率するカリスマ性と責任感がなくては部長は務まらないのだ。

いつも兄の背中を追い続けていたユキにはそれがよくわかる。

「だから……行こう?何ができるかわかんないけど、一緒にいようよ。……大切な友達じゃない」

枯れたと思った涙がまた溢れ出してユキは俯きながら何度も目をこすった。

自分は王者立海を支えるマネージャーなのだから、泣いているばかりではいけない。

自分に何ができるかわからなくても、真田から教えられたように強い心を持っていなくてはダメだ。

「……」

ずっと黙り込んでいた赤也は掴んでいた腕を離してぽつりと呟くように言った。

「……あんな事、言うつもりじゃなかった」

「っ……」

「俺だって真田副部長を置いて逃げ出したのに、幸村部長を見たら何が何だかわからなくなっちまって……」

「うん……」

震える赤也の言葉をユキは必死で受け止めた。

心が折れそうで胸が悲鳴を上げるが、同じ痛みを知る人間がいればこうして立っていられる。

辛い事も苦しい事も一人で抱えきれないのなら、分け合い支え合っていけばいい。

「……俺、謝んないと柳先輩に」

「うん……行こう、赤也」

二人は互いの手をしっかりと握り締めて柳のもとへ向かったが、階段を下りて東側の廊下へ向かう途中、突然校舎を地震が襲った。

「何かに掴まれ!」

「っ……」

老朽化した校舎は今にも崩れそうだ。

地震はしばらく続き、蛍光灯が落ちて割れたりしたが、ユキと赤也はどうにか耐えてゆっくりと立ち上がった。

「ユキ、大丈夫か?怪我は?」

「う、ううん。大丈夫。今の地震、大きかったね……」

「ぼろい学校だから潰れんじゃねえかって心配になったぜ」

「蓮二君も大丈夫だったかな……早く合流しよう」

「ああ」

二人は冷や汗を拭いながら先へと進む。

しかし幸村の遺体があった東側の廊下は、先程の地震が原因なのか腐った床がすっかり抜け落ちて渡れなくなっていた。

「どうしよう……これじゃ蓮二君が……」

「どっか回れる場所ねえのかよ!」

この学校の二階はコの字型の校舎になっており、西側と東側の廊下ははほとんど同じ造りになっている。

北と南にはそれぞれ階段が設置されているが、二階廊下を通れば柳のいる東側の通路へ行けるはずだ。

「赤也、二階へ!」

「そうか、あっちから回れば!」

二人はすぐに来た道を引き返して二階廊下から東側へと回った。

階段を下りて真っ直ぐ廊下を進む。

「……あれ?」

廊下を歩いていたユキは違和感を感じて足を止めた。

「どうした?」

「……」

辺りを見回しながらユキは首を傾げる。

「ねえ赤也、この辺じゃなかったっけ?」

「もう少し先だろ。先輩達がいたのはあの橋が掛かってた場所だ」

「そう……だよね」

不安を抱きながらも前を歩く赤也を追ってユキは足を進める。

しかしその不安は的中した。

「ちょっと待てよ。どうなってんだよ、これ……」

先程反対側で目にした床が抜け落ちた地点に辿り着いたが、そこに柳の姿は無かった。

それどころか幸村の遺体も消えて、床には血痕さえ残っていない。

「やっぱりおかしいよ。だって幸村君が座ってたのは壁際の穴の近くだったのにその穴もなくなってるし……血まで消えてるなんて……」

「っ……」

頭が混乱して破裂しそうだった。

一体ここで何が起きているのか。

消えた幸村の遺体、姿を消した柳、穴の塞がった廊下……。

「くそ、何なんだよこの学校。もう訳がわかんねえよ」

「っ……」

気味が悪くなってユキは繋いだ赤也の手を強く握り締めた。

感じた事のない言い知れぬ恐怖と不安感。

「赤也……」

「……」

途方に暮れたように立ち尽くす二人を暗闇が包み込んでいく。

この闇に飲まれたら二度と外には出られない気がする。

「一度戻ろう。ここに居ても仕方ねえし」

「うん……」


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