二籠

それは不思議な感覚だった。

透明な箱の中に閉じ込められてふわふわ漂うような感覚。

ガラス越しに見える景色は現実味がなくて、でもただの幻というほど淡くはない。

零れ落ちる涙は宙に消えて、どこか遠くで雨の音が響き渡っていた。

「部長、どうかしたんですか?」

ふと声を掛けられて俺は意識を引き戻した。

振り返ると部員の一人が不思議そうな顔で俺を見ていた。

「いや、なんでもないよ。最近、フォームの形が良くなったね」

「え!ホントですか!?この前から少しだけ練習量増やしたんスよ。早朝ランニングのおかげで体力もついたんで」

「頑張るのは良いけど必要以上に体を酷使しないようにね」

「はい!気をつけます!」

そう言って嬉しそうに仲間の下へ駆けて行く後ろ姿を見つめながら、俺は部室の鍵を閉めて腕時計に視線を落とした。

今日は早めに切り上げたせいか時間に余裕がある。

この時間なら"彼女"の様子を見に行けるかもしれない。

「一応、電話してみようか……」

携帯電話を取り出して電話を掛けると、すぐに電話は繋がった。

「……ありがとう。じゃあこれからすぐに行くよ」

無事了承を得られたのでそのまま真っ直ぐ目的地に移動すると、大きな門の前で氷帝学園の制服を着た忍足と宍戸に出くわした。

どうやら二人も学校帰りに彼女の様子が気になってここへ足を運んだようだ。

呼び鈴を鳴らし出迎えてくれた執事に案内されて広いリビングへ向かうと、そこに先ほど電話で話した跡部の姿があった。

「とりあえずこれ、監督から預かって来たから渡して置くぜ」

「ああ」

「それで、ユキちゃんの様子は?」

「同じだ。今日も部屋から出て来ねえ」

「……」

跡部の妹であるユキが部屋に籠もるようになったのは、海原祭が終わった直後。

学校で何があったのかはわからないが、あの明るかったユキが別人のように暗く攻撃的な性格に変わってしまったらしい。

誰とも会おうとせず、たとえ家族であっても近づく者には強い拒否反応を示す。

精神状態は非常に不安定で、日に日に悪化しているらしい。

「やっぱり学校で何かあったんじゃねえのか?クラスの連中と揉めたとか、部活で何かよほどショックな出来事が起きたとか」

「そうなんか?」

宍戸と忍足に視線を向けられて俺は静かに首を振った。

「わからないよ。一応ユキのクラスメイトには話を聞いてみたけど、特に変わった事はないって言ってたし。部活でもてきぱき動いて皆をサポートしてたらしい」

「じゃあ文化祭で何かあったとか?」

「さあ……俺は海原祭が始まる少し前に退院したけど、学校に登校するようになったのは先週からだから海原祭の事はわからない。でも退院した時に会ったユキはいつも通りで特に変わった様子はなかったけど……」

それにたとえ海原祭で何かあったとしても、ユキはとても芯の強い女性だ。

幼少期からずっと病と戦って来たせいか、並大抵の事では動じず忍耐力もある。

何でも一人で抱え込んでしまう所はあるけれど、たいていの事は自分で乗り切る強さを持っている。

そんな彼女がここまで追い詰められるなんて……俺達には想像もつかないような出来事があったのだろうか。

「ま、ここで考え込んでても仕方あらへん。ユキちゃんは部屋におるんやろ?」

「待て。先に俺が……」

跡部がそう言い掛けた時だった。

バタバタと慌ただしい足音が近づいて来て、血相を変えた使用人がリビングへ飛び込んで来た。

「景吾さん!お嬢様が……っ」

「!」

それを聞いて跡部がすぐに席を立ちリビングを出て行く。

俺達もその後に続き、廊下の角を曲がったところで言い争う声や物音が聞こえて来た。

「ユキ!」

部屋に飛び込んだ俺達が見たものは、髪を振り乱し暴れるユキと、彼女をどうにか抑え込もうとする使用人達の姿だった。

辺りには物が散乱し、何かがぶつかったのか窓ガラスには亀裂まで入っている。

「ユキ、落ち着け!」

「やだ!来ないで!!」

「ユキ!」

暴れ回るユキは兄である跡部にも本や枕を投げつけるが、ユキの腕に血が滲んでいる事に気づいて跡部の顔色が変わった。

「怪我してるのか!?ユキ、早く手当てを……っ」

「うるさい!近づくな!!!」

鬼の形相で跡部を睨むユキはまるで別人のようだ。

明るく健気で誰に対しても友好的に接する彼女を知っているだけに、この変貌はあまりにも受け入れがたい。

「みんな嘘つきばっかり……どうせ私の頭がおかしくなったんだって思ってるんでしょ!何も信じてなんかいないくせに……」

「ユキ、とにかく一度冷静になれ!今は傷の手当てが先だ。そうだろう?」

「っ……離して!!」

華奢な見た目からは想像もできないような力で跡部を振り払うと、ユキは椅子を手に取り持ち上げた。

「ユキ!?」

「!」

止める間もなくユキは椅子を振り下ろし、亀裂の入った窓ガラスは粉々に砕け散った。

「こんな世界、全部壊れちゃえばいいんだ。"赤也"を否定する世界なんて消えればいい!!みんな嘘つきばっかり……こんな世界、いらない!!!」

ガラス片が突き刺さったままの椅子を投げ捨ててユキはそのまま割れた窓へと歩み寄る。

「ユキ!!」

「離して!!」

跡部が慌てて羽交い絞めにするけどユキは止まらない。

自分でも感情をコントロールできないのだろう。

問題は、何が彼女をそこまで突き動かしているのかだ。

それを見極めなくてはならない。

「……」

「おい、幸村?」

呆然と跡部兄妹の様子を見ていた宍戸が俺の肩に手を伸ばす。

でもその手が触れる前に、俺は二人に近づいてそっとユキの手を取った。

「ユキ、君が抱えているものを俺に教えてくれないか?」

「!」

「てめえ、何しに来やがった!すっこんでろ!!」

「跡部、ユキと二人で話をさせて欲しい」

「何だと?」

「俺は彼女が抱えているものを知りたいんだ。それがどんな事であっても、受け入れる覚悟はできてる」

「!」

跡部に比べれば、俺がユキと過ごした時間なんて僅かなものでしかない。

彼女の全てを知っているだなんてとても言えないけれど、彼女の人柄はもう十分に理解している。

理由もなく他人を傷つけたりはしない人だ。

きっと彼女の心をえぐるような"何か"があったんだ。

それを俺は知りたい。

「……」

跡部は苦い表情で俺を睨んでいたけれど、ユキが大人しくなったのを見て深いため息をついた。

「……ユキに何かあったらただじゃおかねえぞ」

「ありがとう」

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