「お前、海は好きか?」

手摺に寄りかかるようにしてキッドのお頭は私に訊ねた。朝日のまるがちょうど、水平線から切り放されたときだったように思う。私の知っている、粗野で乱暴で極悪非道な彼はそこにはいなかった。なんでそう思ったのか、具体的にはわからないのだけど、それをべつにしても、太陽は彼にも分け隔てなく、惜しみなくあらわれるのだということを特段に感じた。

「…好きですよ」
「じゃあ泳ぐのはどうだ?」


かなり控えめにした返事のあと、すぐの2つ目の質問が私を本格的に混乱させる。一方通行の命令はあったにしろ、会話として成立するような声を交わしたことは一度もない。彼がすこしもこちらを見ないのも余計不安を煽った。べつに、こんな話をする相手は私じゃなくてもいいのだ。それなら、私を選ばないでほしい。
…好きですよ、泳ぐのも。ずいぶん葛藤して、やっと口から出た言葉は「そうか」の一言の前にぼろぼろになった。ざざん、ざざんと今は穏やかに船を揺らす波がひどくうらめしい。早起きの元凶になった、手にしていたデッキブラシも憎らしい。
なにか言わなければ殺されてしまいそうな気がした。ただの立ち話ではない以上に、なにかのかけひきのような気がしてならない。


「…キッドのお頭は、好きなんですか」

すかすかの潤いのない声が殺伐とした咽からやっとのことで絞り出された頃には私はくたくたに疲れていた。好き、か。私の言葉を反芻して彼の唇がもぞもぞと動く。私の行きすぎた偶像を基準にするにしろ、その様子はおおよそ彼らしくなかった。

…好きだ。好きなんだが、なァ…。波の音に紛れるくらい小さな声でそう呟いたあと、キッドのお頭は自分の赤い髪をぐしゃぐしゃに荒らした。やっとのことで外に出た本心をけれども後悔して、なかったことにしようとする足掻きを、私はただただ黙って見ていた。
この人は、誰?今、私の目の前で、何故なのかも何に対してなのかもわからないけれど、朝日の下で苦悩している人は、いったい誰だ。


「おれはもう、だめなんだよ」

両手で目を覆って、やっぱり彼は小さく呟いた。言葉がたりないのは、自覚しつつも確定させたくないからなのだろうかとか、考えてしまうのだけども真相はよくわからない。でもそのころにはさすがに私も気づいていた。というより、思い出していた。彼は海に嫌われている。
好きなものに永遠に拒絶される感覚ってどういうものなのだろう。好きなのだと言った彼は、生涯寄り添うことができないのだ。ねえそしたら、彼はいったいどこに還ればいいのだろう。いつもは仲間に囲まれて賑やかなキッドのお頭が急にひとりぼっちみたいに見えて鼻の奥がつんとした。せっかくいい朝だったのに、しめっぽくなって嫌だなあ。


かたん、と音がした。なんだろうと元をたどれば、私の持っていたデッキブラシが床板に落ちた音だった。私の両手はからっぽで、すべてを受け入れることができそうだった。意を決して、私の喉は震えていた。お頭、私、本当はこんなことする義理なんて、ないんですけどね。キッドのお頭が息をのんだ気配がこそりとして、次の刹那には私と彼の手と手がゆるやかに繋がっていた。






∴君が迎える朝を知る







title by.白群
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