彼が望むなら、なんだってしてあげるのにな、と思う。そばにいろというならいつだってそばにいるし、仕事をやめて家事をしろというのならいくらでもするし、稼いで養えというのなら、いつまでも養おう。幸いにもそれができる環境を私はもっていた。もった上で、そんなことを言う覚悟もとっくにできていた。それがなにひとつ実行されていないのは、なんてことはない。彼がそれを望まないからだ。

「ローさんには欲がないのね」

ローさんの顔の横に両手をついて、ソファに座る彼の太股を挟むように膝をついた。手のひらに、きちんと掴んだ感触がする。部屋にあるなかで唯一、体が沈み込むようなやわらかさのないその固いソファは彼の一番のお気に入りで、今日もそこから動く気配はちっともない。正直わたし、ソファに負けている気がする。
ローさんはとても冷静に、急に覆い被さったわたしを観察していた。彼がさっきまで読んでいたフリーペーパーがくしゃりと音をたてる。ずっとローさんの顔のパーツばかりにしか目をやっていないからわからないけれど、きっといびつな球をつくるようにしわくちゃにされたにちがいなかった。つい数秒前までは熱心に見てたでしょう。なんでそんなに簡単に、さよならすることができるの。


「心外だな」

かなり間があって、ローさんの唇が動いた。「それって、わたしに遠慮してるってことでいい?」「遠慮するような男に見えるか?」ぐっとつまる。そう言われたら、見えないと言う他なかった。でもそれはわたしの完全敗北を示していたので、なにも言えなかった。ただただ、だんまりを決め込んだ。ローさんは気にした素振りもなくフリーペーパーをくしゃくしゃいわせていた。

―次に行動をおこしたのはローさんの方だった。かなり、珍しいことだ。
急に手をソファからはがされて、あまりのあっけなさにバランスを崩したかと思えば、ローさんの腕がわたしの腰に回されていた。落ちないようにしてくれた。身体中がきゃっと声をあげる。ソファからぺりっとはがされた手も、左手だけはローさんの右手とつながっていた。宙ぶらりんになった右手は、きっと運がなかっただけ。それだけ。


「ローさ、ねえ、ローさん」
「うるせェから黙ってろ」
「やだ、…そんなの、無理」


わたしの部屋は持ち主に冷たい。うるさいと言われたのが悲しかったわけじゃないけど、涙がでてきた。泣き顔が可愛らしいなんて、そんなのは限られた美人に許された特権なのであって、わたしのはいけない。運がなかった右手はわたしとローさんの顔と顔を阻む壁になった。むだに悩みのタネを増やした左手なんかより、よっぽど素敵なはたらき。
ローさんはとても難しい人だ。向き合おうとすると疲れてしまう。知っていた。けれど今さら彼になんの感情もおこさずに接することなんてできないし、嫌悪の感情を抱くことはなおさら難しい。めんどくさい恋。分かっているのに続けてしまうのだから世話ない。…でも、だって、どうしようもないのに。


「ローさんは、わたしなんかいなくても生きていけるでしょう?」
「……あァ」
「っ、でもわたしは、」
「リユ」


名前を呼ばれた、ただそれだけ。それだけのことさえわたしにはとても珍しい。勝手に開閉する口の動きを、喉の動きを、止めるだけの力がそこにはあった。
もう一度、リユと呼ばれたときにはわたしの唇はローさんの唇とくっついていた。涙がまた溢れた。唇が離れれば彼はきっと、これだけでわたしがそばにいていい理由になるんだといつものように言うのだろう。だけどそれじゃたりない。なにもしてないわたしがずっとそばにいていいなんて、そんなうまい話があるはずないのに。







∴さよならが言えない










140331