私はたぶんきっと、大人というものに夢をみすぎているんだと思う。


「…おかえり、ドレーク」


すっかり暗くなってから、島に上陸していたドレークが部屋に帰ってきた。陸にはあがらずに船のなかで大人しくしていた私は、彼をできうるかぎり親切に出迎えた。半ば惰性で読んでいた本をベッドの上に置き去りにして、代わって彼のマントに手をかける。

苦笑しつつマントと、手袋を私に渡してくれたドレークは、口角を微妙にもちあげたまま、不思議な声音で「いつの間につけていたんだ?」と言った。不思議、と評したのはそのままの意味で、私にはあまりそこに隠れた意味を見つけられない。私の周囲の年上の人っていうのはたいがい理解できない人が多い気がするのだけど、この人は別格だった。

推し量れないものに気を取られている間に、彼はすっかり私との距離をつめていた。なにも纏わないドレークの指が唇をゆっくりとなぞって、離れていくのを視覚と触覚で感じる。
いつのまにかとめていた息を吐き出していると、私の口紅がついてしまった彼の親指がひらりと空中でゆれた。



「今日のはやけに毒々しい色だな」
「…お気に入りなの。映えるから」
「おれの肌にか?」



相変わらず不思議な声音でそう言った彼に私は肩を竦めてみせた。口紅のついたその指をそのまま自分の首筋に沿わせたその下には、いっそグロテスクなほど鮮やかな赤の口紅で私が今朝かいた、所有印がわりの文字が残っているのかもしれない。

わりと力作だと思うのに、と言ってみたら、そうか、と穏やかに返された。

怒っては、いないようだった。
正直なところそれだけしかわからない。頭から怒る気がないのか、怒る気が失せるほどだったのか、結果は同じでも過程ですごくちがうと思う。
とてもとても自分勝手な希望を言うなら、「リユだから」という理由で許してほしいとか、そんなこともすこし。



「ねえドレーク。この色、きらい?」
「リユがすきならそれでいいんじゃないか」
「よくわからない返事、私はきらい」
「それは悪かった」
「…ほんと、やな人」



把握しきれないことへの焦燥が嫌になって彼に正面から抱きついた。ドレークの匂いがする。当たり前のことなのだけど、ちがう匂いがしないことがひどく嬉しかった。ちがう匂いがなにかって、たとえば私の趣味じゃない女物の香水とか、余所の石鹸の匂いとか。


「お金、つかわなくても私がいるのに」
「お前が疲れるだろう」
「そんなところで紳士になられても。…ねえ、まだ残ってるの」



念のための言葉が私とドレークの間でこもった。こんなときになると無言を貫く彼はほんとうに意地悪だ。昔はもうちょっと、まともな大人だと思っていたんだけれど、幼い私は見る目がずいぶんなかったらしい。

そこまで考えて、へんな頭痛がしてきたのでやめた。そのかわりドレークのうしろに回り込んだ。私が今朝かいて、彼が気づいたみっともないわるあがきの残骸のあたりへ、服ごしに顔をよせる。

「まともな大人」になれなかったのは、私もいっしょ。


「こんなはずじゃなかったんだけどなあ…」
「…ん」
「万能で聞き分けのいい、お利口な部下になりたかったのに」
「そんなのお前じゃないだろう」



広い背中から伝わる声がどうしようもなく愛しい。耳から響くそれは胸へと侵入して、呼吸器官を埋めつくしていった。かろうじて息をしたらなぜだか涙が滲んだ。

彼が笑ったのか、空気がかすかにゆれた。船室は暗い。
好きよ、ドレーク。震えた声で呟いて、彼の背中にあてていた手をゆっくりと這わせた。不器用だから、直情的になってしまう。口紅でかいたのを確かめるのは、誘ったあとでいい。







∴アスパルテーム







2014.03.05