夏編

6月になった。
私はまだトキヤくんにあの事を聞けていない。
ずっと気にしているからなのかは分からないが、日に日に調子が悪くなっているような気がした。
それが本当に聖川様に申し訳なくて、梅雨入り宣言が発表され、土砂降りで数m先も霞んでいるようなそんな天気の悪い日に私は聖川様に当分自主練にさせてほしいと頼んだ。
「本当にすみません」
「いや……しかし、大丈夫なのか。先週からずっと調子が悪いようだが」
「多分スランプみたいなものだと思うんです…ずっと足を引っ張るのも悪いので」
「そんなの気にはせん。……無理はするな」
「え?」
「……なんでもない」
そっぽをむいた聖川様の頬が心なしか赤いように見える。
「お熱でも……?」
「熱などない!……では、何かあったらすぐに連絡してくれ」
聖川様はそう言うと、レッスンルームへと去っていった。
早速練習をしに行くのだろう。
「……」
私は一つため息をついて玄関へと足をむけた。
下校時刻をとっくに過ぎていたので、玄関はしんと静まり返っていた。
自分の靴が置いてある場所へと歩を進めていると、私の耳がかすかに歌声を捉えた。
「…?」
その声は私の靴がある場所から聞こえてくる。
私は足を速めた。

***

端から2番目の靴箱の列。
やはりそこから歌声が聞こえる。
なんだか邪魔するのも悪いと思い、私はなんとなく陰に隠れて覗いてみた。
「!!」
そこには目を瞑りながら靴箱に背を預け、歌を口ずさんでいるトキヤくんがいた。
(……どうしよう)
トキヤくんの近くではないところに靴があるのなら素早く動いてその場をあとにすることを可能だと思う。だがしかし、私の靴はトキヤくんがおっかかっているその丁度頭の部分にある。
声をかけないと靴を履き替えることができない。
晴れていたら室内ばきで帰ることもできただろうが、この土砂降りの中でそれを行う度胸はない。
私は意を決してトキヤくんに話しかけようと決めた。
(でも……)
もう少し、聴いていたいかも。
トキヤくんのビターチョコレートのようなほろ苦い声が紡ぐ優しいバラードは、雨音と混ざり合ってとても心地良い。
(……)
私はそのまま靴箱の陰に座り込み、そっと目を閉じた。
視覚をシャットダウンして聴覚を研ぎ澄ます―こうすると全身で音楽を感じることができるのだ。
(なぜ、トキヤくんはこんなに)
聴覚を研ぎ澄ますことで気づかなかった部分も見えるようになる。
彼が口ずさんでいる歌はリズムやピッチが1回もずれることはなかった。
でも。
(どうして悲しそうなの……?)
まるで、遠く離れた恋人に伝えているような。
そんな切なさが、彼の歌声に含まれていた。
(あ、)
涙が頬を伝ったのが分かった。
曲を聴いて感動することはあっても、涙が溢れたのは初めてだった。
その時、ふいに歌声が止まった。
「春歌……」
(!!!)
こっそり聴いていたのがばれたのか、と思いきやそうではなかったらしく、そのまま彼は何事もなかったかのように歌を再開する。
私はいたたまれなくなって教室の方へと駈け出した。
(どういうこと……?)
心臓が痛い。
階段を駆け上がると一気に呼吸が辛くなったので若干歩を緩めた。何気なく窓から空を見上げると、雲の切れ間から光がさしていた。

雨が止んだ瞬間に私の名前を呟いたということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

***

7月。
夏休み前の最後の難関、期末試験。
月末に行われる小テストとは違い、2日間に渡って知識のペーパーテストと実技試験が行われる。
実技は勿論のこと、知識のペーパーテストは日頃の授業をしっかり聞いていないと高得点をとることは難しいと言われている。
それにSクラスはクラス全員が知識・実技共にA以上を取らないと夏休み返上で授業を行うらしい。
SクラスたるものがB評価など言語道断、とは学園長先生のお言葉。
さすが学園長先生、生徒のこともちゃんと考えておられるのですね、と呟いたらちょうど隣の席で昼食を食べていたSクラスの来栖翔くんに苦笑された。
お昼時となると、早乙女学園の決して大きくはない食堂は人でごった返す。
なのでトモちゃんと私は初めから教室でご飯を食べていたのだが、そこにパートナーである聖川様、同じクラスの一十木君と四ノ宮那月さんが自然と加わり、いつの間にか5人でお昼ご飯を食べることが日課になっていたのだが、最近は四ノ宮さんがSクラスから半ば強引に翔くんを引っ張ってきて6人でご飯を食べている。
翔くんは四ノ宮さんと同じ部屋で、たびたび「好意という名の被害」(と、魚肉ソーセージをかじりながら言っていた)にあっているらしい。
四ノ宮さんはその話を聞いても終始ニコニコしていて、「そんなことないですよぉ〜」と言いながらすごい味がするらしいクッキー(と、食べたことがあったらしい一十木君が卵焼きを箸でつまんだまま言っていた)をみんなに振舞おうとするのだから大変だ。
「やっぱりSクラスってすごいんだねー」
四ノ宮さんのクッキーが盛られたお皿をさりげに聖川様に押し付け……勧めながら一十木君が言った。
「授業のカリキュラムから違うからな」
聖川様が湯呑に入ったお茶を飲みながらちらりと私を見た。
軽く目があってしまった私は、気まずくてパンが半分だけ残っている袋に視線を落とした。
実は、6月の頭からの不調がまだ続いているのだ。
一回合同練習に戻してもらったけれどやっぱり調子が戻らなくてまた自主練習にさせてもらった。
それは成績にも表れてしまい、この間の月末のテストは散々だった。
ピアノを弾こうとすると、雨の日のあのトキヤくんの歌が頭をぐるぐるしてしまい思うように弾けないのだ。
まるで頭の中にあの歌が住み着いてしまっているようだ。
そして相変わらずトキヤくんとは話せないまま。
それらがよくないことは分かっている。
聖川様とは数日に一回くらい自主練習の成果などを報告しあって歌ったり弾いたりするのだが、聖川様の歌はそのたびにレベルアップしているような気がする。
それに対して私はまだ自主練習を始める前の方が良く弾けたと思えるくらいひどくなっていった。

「ごめんなさい……」
悔しくて悲しくて、膝の上に作った拳を痛いほど握りしめた。
一昨日の報告会のときだ。
「不調は誰にでもある。七海は今トンネルの中にいるだけだろう。出口はじきに見えてくるはずだ。だから、あまり自分を責めるな」
聖川様はそう言って、ちょうど私が後ろを振り向かない限り見えない位置から座っている私の肩に手を置いた。
……泣いていることを気遣ってくれての行動だろう。
「俺はお前の曲が好きだ」
聖川様はふいに呟いた。
「お前が弾くピアノも好きだ。なんだか……「音」が楽しんでいるような気がするのだ、お前に紡がれることを喜んでいるみたいに」
「そんな……」
私は首を横に振った。
「褒めすぎです」
小さく笑うと、聖川様もそれを察してか、ふっと笑ったのが気配で分かった。
「あまり気負いすぎるなよ」
聖川様はもう一度軽く私の肩を叩いてから教室を去った…―

学期末テストの実技試験はパートナーと2人1組で行う。
なのに1ヶ月も別々に練習していて、本番直前に合同で練習してもうまくいく確率なんて決して高いわけではないことなんてわかっている。聖川様もとっくに気づいていただろう。
でも、それでも聖川様は私を待っていてくれているのだ。
「るか、春歌ー」
「え?」
「パン食べちゃいなよ、もう授業始まるよ」
トモちゃんに言われて壁にかかっていた時計を見上げると昼休み終了まで残り3分ほどであった。
「あ、れ?翔くんは?」
「とーっくの昔にSクラスに帰ったわよっ」
トモちゃんはそう笑いながら次の授業で使うテキストを準備している。
「春歌最近よく考え事してるみたいだけど……大丈夫?」
「あ、うん、大丈夫だよ」
精一杯の笑顔を作ってみせる。
「そう?ならいいけどね。……まさやんとの口数も少ないからさ」
トモちゃんは鋭い。
私が何か言おうとしたその時、授業開始のチャイムが鳴った。

***

試験を3日後に控えた日の放課後。
私はこの日を忘れないだろう。

聖川様とレッスンルームに入った時、肝心の楽譜を教室に置き忘れていたことに気が付いた。
聖川様に断って教室へと急ぐ。
窓から見える夕日が廊下を照らしていた。
そこに私の影が走る。
それはなんだか幻想的で。
油断していたら何もないところで転んでしまった。
恥ずかしくて周りに誰もいないか確かめたところで―私の目の前に手の平が差し出されていることに気が付いた。
辿って行って顔を見る。
そこにいたのは―
「大丈夫ですか?春歌。まったくあなたという人は昔から変わらないのですね」
そう言って微笑んでいるトキヤくん、だった。
「トキヤくん……」
「ええ。お久しぶりです」
トキヤくんはそう言いながら私の手をとり、立たせてくれた。
「ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀をすると、トキヤくんの空気が緩んだような気がした。
「10年ぶり……くらいでしょうか。私が上京する前でしたから」
そしてふ、と軽く息を吐く。
「もう少し昔話に花を咲かせたいのですが……急いでるようですし、また後日」
そうだった。楽譜を忘れたのは勿論だが、それよりも聖川様をお待たせしているんだ。
「は、はい」
では、と言いながら足を教室のほうへ向ける。
「あ」
「?」
振り向くと、トキヤくんは唖然としていた。
「……」
そして黙ってブレザーを脱ぎ、私に手渡そうとする。
なぜか顔を背けながら。
「あ、あの」
「スカートが……」
「え」
視線を下に向けると、制服のスカートが綺麗に破れていたのであった。
「!?きゃっ!!」
私はスカートを抑えて座り込む。
そういえば転んだときに何か切れる音がしたっけ……
でも制服って丈夫にできてるんじゃ。
「ど、どうすれば、」
このまま歩けないし。しかもトキヤくんに見られてしまったし……
再会してすぐにこれなんて。
「言っておきますが見ていませんよ」
私の心を読んだかのようにトキヤくんはボソッと言った。
「とりあえず今日はこれを巻いておきなさい」
そして先ほど脱いだブレザーを強引に私の手に握らせた。
「あ、ありがとうございます」
私は好意に甘えてブレザーを腰に巻かせてもらった。
「では、私はこれで」
巻き終わって私が立ち上がるのを確認した後、トキヤくんは反対方向へと歩いていった。
「……あ!!」
私も行かなければ。
気を取り直して教室のほうへ駆け出す。
(……あれ……?)
それにしても何故、トキヤくんはブレザーを着ていたのだろうか。
冷房対策だとしても、暑すぎるのではないのか。
しかもブレザーの下は長袖のYシャツだった。
どうして?
そんな考えも、楽譜を取りに行ってレッスンルームの扉を開けた瞬間に飛んでいってしまった。
レッスンルームには聖川様だけではなく、聖川様の同室である神宮寺さんがいた。
それだけならまだいいのだが、なぜか二人は睨み合っていたのである。
元々仲があまりよろしくないという話はトモちゃんから聞いていたけれど……
「あの……?」
「俺と七海が最初に予約をしていた。予約を取りに行った際に先客がいなかったのは確かに記憶している」
「あれーおかしいね。俺も予約したときに誰もいなかったはずなんだが?なあ、ジョージ?」
「左様で」
しかも二人とも執事さんとじいやさんを連れている。
話を聞いていると、どうやらレッスンルームがダブルブッキングしてしまったみたいだった。
「まあいいか。お前のパートナーを俺に交換してくれるのなら、このレッスンルームは譲ってやろう」
と、神宮寺さんは私のほうを向き、いきなり肩に腕を回してきた。
「ねえ?レディ。俺は聖川のやつよりずっとうまく君の曲を歌えるよ」
「は、はい?」
なんでいきなりこうなるのか訳が分からない。
「……馬鹿げたことを」
聖川様はいつもより一段と低い声でそう呟くと素早く神宮寺さんの腕を払った。
「七海は渡さん」
そして一段と鋭く睨む。
「ふーん?」
しかし神宮寺さんはそれを涼しい顔で受け流し、鼻で笑った。
「でもレディはそれをどう思ってるのかな」
そして私のスカートを一瞥してからジョージさんを連れてレッスンルームを出て行った。
扉がパタンと閉まった後、聖川様はため息をついた。
「まったくなんなんだ、あいつは。いつもいつも俺に衝突してくるし……変なところを見せてしまってすまないな」
「いえ……」
「では早速始めるか?」
「はい」
「じゃあ俺はブースに……ん?」
聖川様がブースに足を向けようとしたとき、私のスカートに目を留めた。
「それはどうしたんだ」
「あ、実はさっき廊下で転んで破いてしまって。そのときにちょうどトキヤく……一ノ瀬さんが通りかかってくれていて、ブレザーを貸してもらったんです」
「……この時期に、ブレザー?」
「はい。今日涼しいわけでもないのに……なぜでしょうね」
「……」
聖川様はそのまま黙ってしまった。
「あ、あの……」
「もしや一ノ瀬……」
「え?」
「いや、なんでもない。練習を始めよう」
「そうですね……」

試験が三日前に迫っているのに、今日の練習ではニアミスを何回もしてしまった。
でも聖川様は何も言わない。言わずに待ってくれる。
私の調子が戻るまで、待っていてくれるのだ。
その無言の優しさが、今の私にとっては少しだけ辛かった……

私はそこで一つのことを決めざるを得なくなった。
レッスンルームには聖川様だけではなく、聖川様の同室である神宮寺さんがいた。
それだけならまだいいのだが、なぜか二人は睨み合っていたのである。
元々仲があまりよろしくないという話はトモちゃんから聞いていたけれど……
「あの……?」
「俺と七海が最初に予約をしていた。予約を取りに行った際に先客がいなかったのは確かに記憶している」
「あれーおかしいね。俺も予約したときに誰もいなかったはずなんだが?なあ、ジョージ?」
「左様で」
しかも二人とも執事さんとじいやさんを連れている。
話を聞いていると、どうやらレッスンルームがダブルブッキングしてしまったみたいだった。
「まあいいか。お前のパートナーを俺に交換してくれるのなら、このレッスンルームは譲ってやろう」
と、神宮寺さんは私のほうを向き、いきなり肩に腕を回してきた。
「ねえ?レディ。俺は聖川のやつよりずっとうまく君の曲を歌えるよ」
「は、はい?」
なんでいきなりこうなるのか訳が分からない。
「……馬鹿げたことを」
聖川様はいつもより一段と低い声でそう呟くと素早く神宮寺さんの腕を払った。
「七海は渡さん」
そして一段と鋭く睨む。
「ふーん?」
しかし神宮寺さんはそれを涼しい顔で受け流し、鼻で笑った。
「でもレディはそれをどう思ってるのかな」
そして私のスカートを一瞥してからジョージさんを連れてレッスンルームを出て行った。
扉がパタンと閉まった後、聖川様はため息をついた。
「まったくなんなんだ、あいつは。いつもいつも俺に衝突してくるし……変なところを見せてしまってすまないな」
「いえ……」
「では早速始めるか?」
「はい」
「じゃあ俺はブースに……ん?」
聖川様がブースに足を向けようとしたとき、私のスカートに目を留めた。
「それはどうしたんだ」
「あ、実はさっき廊下で転んで破いてしまって。そのときにちょうどトキヤく……一ノ瀬さんが通りかかってくれていて、ブレザーを貸してもらったんです」
「……この時期に、ブレザー?」
「はい。今日涼しいわけでもないのに……なぜでしょうね」
「……」
聖川様はそのまま黙ってしまった。
「あ、あの……」
「もしや一ノ瀬……」
「え?」
「いや、なんでもない。練習を始めよう」
「そうですね……」

試験が三日前に迫っているのに、今日の練習ではニアミスを何回もしてしまった。
でも聖川様は何も言わない。言わずに待ってくれる。
私の調子が戻るまで、待っていてくれるのだ。
その無言の優しさが、今の私にとっては少しだけ辛かった……

私はそこで一つのことを決めざるを得なくなった。

***

テスト当日。
私はテストの時間よりも比較的早くに聖川様を呼び出した。
「どうしたんだ」
「実は……言わなければならないことがあるんです」
「パートナーの解消か?」
聖川様はある程度予想していたらしい。
「……はい」
私は視線を床に落とした。
「この試験が終わったら……パートナーを解消してください。こんな調子の曲、聖川様に歌ってもらう資格がありません」
「試験の結果が良くてもか」
「はい」
「……」
聖川様は目を閉じた。
「……俺はたとえお前の調子がこの先戻らなくても、試験の結果が悪くても、ずっとパートナーでいるつもりだった」
「……はい」
「それはお前の曲が好きだからだ。純粋なその気持ちだけ……ではないな、今は」
「え……」
やがて聖川様はゆっくりと目を開けた。
優しい、海原のような色の瞳が、私の目を捉えて離さない。
「俺は無理に引きとめはしない。だから、この試験がパートナーとしての最後の仕事だ」
そしてふ、と微笑んだ。
「聖川様……」
「短い間だったが、世話になった」
胸が痛い。
この決断が正しいとは限らない。でも間違いではなかったはずだ。
私も、聖川様の歌が好きだから。
だから、歌ってもらえない。
今のままの私の曲なんて、歌ってほしくない。
……もっと、もっとうまい人に……
そう思ったら涙が出てきた。
「あ、すみませ……」
その時、聖川様が私を抱きしめた。
「え……」
「お前の泣き顔は、もう見たくないんだ」
「聖川、様、あの、」
「好きだ」

その時、無情にも予鈴が鳴った―…

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