BENNU | ナノ


▼ 023 歩み寄る刻(とき)

「突然ですまないが、話があるんだ」
 朝食に使った器や鍋を、外の炊事場で洗おうとしていたときのことだ。井戸に下ろした釣瓶を、シュナが一生懸命に引き上げるのを手助けしていた。さあもうちょっとで引き上げられるぞというそのとき、井戸のそばに突然光の玉が現れたのだ。かっと光が弾け、眩しさに目を細めた瞬間、何処から現れたダアトが立っていた。
 聖都ジェノの法王に驚いたシュナが、握っていた縄を思わず手放してしまった。汲み上げた釣瓶は水の重みで落下し、ばしゃんと大きな音を立て、井戸の底に落に沈んでいった。
 その水音は、バクゥで流れていたアークの時間を、ぴたりと止めた。
 バクゥでの穏やかな時は終わりを告げ、一転、この井戸の底のように底の見えない、暗い道へと歩きださねばならない時を迎えたのだ。
「――ハンサ地下隧道?」
「そうだ。君にはそこを通って、急ぎヘレ同盟国に渡ってもらいたい」
 聞いたことのない道の名前に、アークはおうむ替えしに問いかけた。
 ダアトに呼び出されたアーク、ラナ、シバは、四人で円になって座った。ダアトとはシバに預けられて以降会っていなかったので、簡単な挨拶をすませたのち、すぐに本題を切り出されたアークは戸惑いを隠せなかった。
「ちょっと待ってください。同盟国へは、ジェノを経由して船でオンディーヌ湖を渡るか、旧ロズベリーのある西の国境紛争地域を越えるしかないのでは……? 地下道があるなんて、聞いたことがありませんが」
「今となっては知る者はいないが、道はある。『世界の嘆き』の時代に使われていた古い地下道だ。……同盟国へ渡る必要がある理由は、分かっているよね?」
――もしお前が自分の生まれについて何か知りたいのならば、ブロウを訪ねなさい。
「『ブロウ』、ですね。じゃあ……ダアトさんは、知っているんだ。僕がブロウという男に、フラムの父さんのところに預けられた経緯を」
「うん。この大陸上に存在する竜族は、君たち二人だけだから。この子の……ラナの契約者となり得る君たちの動向は、ある程度知っておきたかった」
 答えながら、ダアトはそばに座るラナの頭を撫でる。いつも仏頂面のはずのラナも、このときばかりは嬉しそうにダアトの手にすり寄った。
「ならば、法王殿はアークの真の父親のことをご存じなのだね?」
 そんなラナとは正反対に顰め面をしながら、シバが問う。ダアトは、シバとアークにそれぞれ視線を合わせてから、ゆっくりと頷いた。
「旅立つ前に、私の知っていることをできる限り話しておきたい。アークの父のこと、ブロウのこと、そして――スクァールのことを」
 どくんと、心ノ臓が跳ねたような気がした。思わず、ダアトに向かって身を乗り出す。
「あいつのこと……何か知っているなら、全部話して下さい」
――この二人、僕にちょうだい。
 思い返す度に、燃えるような激しい怒りが胸の内を焦がす。
 煤を操り、レニの心を闇に染め人を斬らせた。アークがウッツの憎しみの対象となるように、コリーナとダニエーレを殺した。それらの罪を全て被せられ、故郷を追われた――大切な物を、すべて奴にかすめ取られたのだ。そんな少年が、今、レニとウッツの隣に立っているのかと思うと、たまらなく悔しかった。
「父さんのことが色々あったけれど……いつまでもここでじっとしているわけには行かないと考えていました。僕は、動き出さなくちゃいけない」
 友を、故郷を、取り戻すために――
「順を追って、話していこうか。……全ては、君に繋がってゆく。それらを知れば、君が今すべきことが見えてくるだろう」


 閉じた瞼に光を感じ、ブロウは目を開けた。差し込む朝日が、まだ冷たい朝の空気に微かなぬくもりを添える。
 静かな夜と、静かな朝であった。ブロウは伸びをして立ち上がると、細い煙をのぼらせる熾を踏み潰し、歩きだした。
 宿場町の側に広がる、針葉樹の森でのことである。ロイ達のもとを飛び出したが行くあてもなく、ブロウは森の中を彷徨った。日が陰り始めた頃、どうしようもない疲労感がどっと押し寄せてきたので、茂みの中にどうにかねぐらを見つけて休むことにしたのだ。
 横になり、目を閉じた。しかし、結局ただそれだけで終わってしまった。
――あなたは信頼されているんです! イラが猛威を振るう最悪の状況下で、部下を見捨てるはずがないと、必ず、帰って来ると――それなのに……それを知ってもなお、逃げ続けたんだ!
 ロイの言葉だけが、ずっと頭から離れない。
 その必死な声が。その真っ直ぐな瞳が。
 ブロウの卑怯さや臆病さを、真正面から責め立てた。
――ブロウ、お願いです――砦に、帰りましょう。俺はもう……大切な人達がいなくなるのは、ごめんです。
 それでも、服の裾にロイは縋りついた。彼にはブロウという存在が必要で、共に砦に帰ることを懇願してきたのだ。
 その庇護を求めて伸ばされる幼子のような手を振り払い、ブロウは逃げた。
 二人はおそらく、行動を共にしたときからある種の共生関係にあったのだ。庇護を求める者と、守るべき何かを求める者と。そうして長い年月を共に過ごすにつれ、ロイはブロウの欠けてしまった何かを埋めた。
 そしていつしかブロウにとって、ロイは揺るぎない『大事な何か』となった。共に立ち、歩み、生きてきた。言葉で確認せずとも、二人の間には切りがたい絆が、この十一年で確かに育まれていたのだ。しかし。
 それを望むことを、どうしても許すことができなかった。
 それ故、今は『逃げる』という拒絶の意志に従って行動しているはずだった。なのに、何かがおかしい。
 どうしても踏ん切りがつかないのだ。ロイの言葉ばかりが脳裏を廻り、ともすれば宿場町から遠ざかろうとする歩調が鈍くなる。今もまた、重い両の足は歩みを止めようとしていた。
 深い溜息をつくと、ついに、ブロウの足は止まってしまった。
 何も分からなかった。どうすればよかったのか、どうするべきだったのか。
 風が吹き、頭上の梢がさわりと鳴いた。思いのほか柔らかな風の感触に、視線を上げる。揺れる枝葉の方向は、風の軌跡を映し出し、ある方角へとブロウの意識を誘った。
 あの方角は――
「俺を……呼ぶのか」
 ただの思い込みに違いない。今は頭が混乱しているせいに違いない。
 けれど、そんな思い込みに導かれてしまうほど、ブロウは疲れていた。柔らかな風の腕が、記憶の底に押し込めていた彼女の笑顔を掬い上げる。
 止めていた足が、一歩、また一歩と動きだす。
 会いたい。例え、記憶の中の幻だとしても――
 無心で足を動かした。獣道すらない森の中を、木の葉が付こうが、枝で頬を引っ掛け擦り傷を作ろうが、ひたすらに歩き続けた。
 そうして深い森を進み続けると、突然視界が開けた。木々の感覚が広まり、背の高い雑草がなりをひそめる空き地に出たのだ。
 かつては、ここに小さな祠か教会が建てられていたのだろう。それらしき残骸が、そこここに転がっている。過去には建物の柱であったはずの石柱が横倒しになり、風化の証に刻まれた彫刻は輪郭を失いつつある。薄れた絵が描かれた石塊は、壁画の一部なのであろう。
 薄暗かった森の中、真っ直ぐに空き地に降り注ぐ陽光は、それら過去の残骸を、別世界のように鮮やかな色で照らしていた。
 その空き地の中央に、石板が埋まっていた。そばにしゃがみ、石版が被っている土埃や枯れ草の切れ端を手で払う。すると、石板に刻まれた古代文字が姿を現した。
 掌に魔力(マナ)を集めて石板に触れながら、文字を読みあげる。最後の一言を言い終えた、その瞬間。
 重い軋みを上げながら、石板が動き出した。ズズズと横にずれてゆき、人ひとりが通れるくらいの穴が地面に開く。薄暗い中を覗きこめば、急な下り階段が見えた。
「ここを通るのは何年ぶりかな……」
 ひとりごちながら、ブロウは階段を下った。一段下がるたびに、地下の湿気た土臭さや黴臭さに包まれる。
 餓狼雪原を南へ突っ切り、ラルガラ雪山を越え、ベルナーゼ教会へ至った。ここからさらに南を向かってフランベルグ王国領へ向かうには、ラルガラよりも険しいとされる未開の地、ネイプルス雪山が聳えている。そこは最早人の通る道ではない。
 かつん、かつんと、ブロウの靴が石の階段を踏みしめる音が反響する。一番下まで下ると、頭上でまた石板が動く気配がした。地上の光を四角く切り取っていた入口が、次第に細くなってゆく。正方形から長方形へ、線のように細くなり、そして。
 ついに、地下道は閉ざされた。
 ロイと、ここを目指していたのだ。誰にも知られず、密かに国境を越えることのできる、秘密の道――『世界の嘆き』の折、聖祉司がエパニュール大陸に円を描いて打った『リベラメンテの楔』を巡るために、安全にネイプルス雪山を越えることができるようにと作られた巡礼路、ハンサ地下隧道である。
 ヘレ同盟国領からフランベルグ王国領へと真っ直ぐに伸びるこの地下隧道は、両国間の関係が危うくなってすぐに、閉道となった。それから二百年余り、その存在は両国の歴史の深くに埋もれ、存在を知る者はいなくなった。――密かに管理を続けていたエトスエトラと、王国側の入り口を隠す密命を受けているバルクラム族以外は。
 使う者のいなくなったハンサ地下隧道は、地底の生き物が巣食っていたり、老朽化のせいで落盤を起こしたりと、なんとか通ることのできる荒れ果てた道である……はずであった。
「どうゆう事だ? ずいぶんきれいになってるじゃねえか」
 明りとなる炎を作りだしてすぐ、ブロウは異変に気が付いた。
 以前通った時には確かにあった落盤の形跡や、生き物の死骸などが、きれいさっぱりなくなっているのだ。それどころか、道はきれいに整備され、落盤防止にと天井や壁の補強までされている。闇に慣れた目でよくよく確認すれば、等間隔に発光性の地位植物が植えられ、地下隧道の道筋を仄かに照らし出していた。
 これは、エトスエトラの管理だけできる芸当ではない。もっと大掛かりな――そう、ラルガラ雪山で見た、雪の斜面を安全に下りるために組まれた階段と同じ類の――
 宿場町で別れた敵国の姫君と、ラルガラ雪山で出会った者たちの顔が、ふっと頭をよぎる。
「あいつら、この地下隧道を使っているのか……?」
 それもあり得なくはない。ダアトが、この隧道の存在を知る、ジェノの法王がからんでいるのならば。そうであれば、同盟国側の入り口を管理しているはずのベルナーゼ教会のイソルダも、一枚噛んでいるのだろうか。
 そこまで考え、やめた。煙草を取り出し、火を付ける。
 もう、俺には関係のないことだ。
 重い足を引きずるようにして、ブロウは歩き出した。思考を途切れさせる直前、共にここを通るはずであった連れの顔が、ふと浮かぶ。ロズベリーで拾ったときの、幼い顔。ウガン砦にて小言を言う、大人びた生意気な顔。
 煙を吸う。深く深く吸い込んで、胸を灰色の煙で満たす。そうしてから、浮かんでは消える彼の顔をかき消すように、一気に吐き出した。


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