▼ 022 その訳を
唐突に告げられた答えに、体が震えた。
ひゅうっと、喉の奥で息が詰まった。震えだした手を、シバはアークが口を開くまで、辛抱強くさすってくれた。
「母、親……? 僕の母親が、シバ様の、娘?」
やはりと、霞がかったような頭の隅で考える。
このバルクラム族長の一族は、血縁者であったのだ。それならばダアトがアークをシバに託した理由も、敵対する王都出身者を手厚くもてなす訳も、族長の家の者と同じ燃えるような赤毛をしているのも――全て、説明がつく。
「それじゃあ、シバ様は……僕の、おばあちゃんだ」
ぽつりとこぼれたアークの呟きに、シバが俯く。今にもこぼれそうな涙を隠したのだ。頷く代わりに、アークの手をきゅっと握り返した。
「じゃあ、僕の本当の父さんは……シバ様の娘と恋仲だったっていう、ブロウって男なんですね?」
僕を父さんに何も語らずに託した男。父さんの昔の友人。
彼が父親? どうして託した? なぜ僕をその手で育てなかった? どうして――僕を捨てた?
「それは違う……はずだ」
渦巻くアークの思考を、シバの否定が堰き止める。
「違う? なぜ? だって娘さんと、僕の母親である人と恋仲だったんでしょう? だったら、」
「ブロウは、子を作らぬ。それを己に絶対と課していた」
「……どうゆうこと?」
「アーク、アークよ。落ち着いて、よくお聞き」
冷えたアークの手を、シバが温める。しかし、彼女自身もまた、指先から冷えつつあった。
「ブロウは、人間ではない。竜族なのだ。……人の腹で、竜の子を生むことはできぬ。だからブロウは我が娘の体を慮って、いくら好きおうた仲でも夫婦の契りを結ぼうとはしなかった」
「……竜? ブロウという男が、約三百年前に四人の聖祉司によって封印された、あの竜族だっていうの?」
「そうだ。竜とは、獣から人へと転変する能力を備えた、魔力(マナ)を扱う有鱗種だ。彼らが最も扱いに長ける魔力は、炎。全てを焼き尽くす赤き業火だ」
シバの説明を聞きながら、アークは頭が痺れるようだった。
転変、鱗、炎。それはまるで――
「お前はこのバクゥに来たとき、赤い鱗を生やしていたね。そして友に酷い火傷を負わせてしまったと、嘆いていた」
「シバ様、僕は……竜、なの?」
「そうだ。半分ね。もう半分は、人間である我が娘の血を引いている。その優しい目元など、ほんにそっくりじゃて」
涙を湛えた瞳で、シバはアークを見て微笑んだ。娘の面影を、孫であるアークに見ているかのようだった。
慈しむ視線に、アークは思わず首を振ってしまった。どうしても、納得ができないのだ。
「そんなの……おかしいよ。だって、竜族は三百年前に聖祉司によって封印されたんだ。仮に『ブロウ』が本当に竜族だったとしても、彼は僕の父ではなくて、母親はシバ様の娘で、でも僕は竜の血を引いている?」
「やはり、混乱してしまうね。落ち着いて。順を追って話していこう」
シバがまた、手をさすってくれる。しかし氷のように冷えた手は、ちっとも温まる気がしなかった。
「じゃあ僕の父親は、いったい誰なんですか? それに、人に竜の子は産めないんでしょう? でも竜の血を引くという僕は、ここにいる。生きている。じゃあ、僕の母親は……?」
「父親についての確かなことは、すまないが私も知らぬ。娘も、ブロウも、何も話してはくれなんだ。母親については、」
シバの手が、いよいよ大きく震え始めた。それを御そうとして、強くアークの手を握り締める。
「我が娘ルドラクシャは……ルーはお前を孕み、己の腹で育て、そして」
ぽろりと、皺の縁から涙が溢れた。
「最期は……――」
「ここにいたの」
背中からぶっきらぼうにかけられた言葉に、アークは俯いていた顔を上げた。背後にラナの気配を感じたけれど、振り返らなかった。夜を映した真っ黒な川面を、ただぼんやりと眺めていた。
バクゥの南側を流れる、川の畔でのことである。シバと話をしたあと、アークは混乱する頭を冷やしたくて、ひとり家を出た。どこへ向かって歩いているかも考えず、足が向くままに歩を進めた。それで辿り着いたのが、この川辺であった。
緩やかなせせらぎの音が心地よくて、転がっていた平たい石に腰を下ろした。それから、どれくらいの時が経ったのか分からない。アーク自身も石ころになってしまったように、その場から立ち上がることができなくなってしまった。強張る体は、自分のものではないように感じられた。
「シバ様の家に帰ったら、あんたがいなくてちょっと驚いた。暗いところ、嫌いなんでしょ? ランプひとつでよくここまで来れたわね」
「うん……そうだね。僕、夜が嫌いだった」
ラナに言われて、ようやく思い出した。ランプの光のせいで少し先の闇がより濃く感じられ、背筋がそわりとし始める。たった今まで、暗闇への恐怖すら忘れていたようだ。そういえば、ここはどこなのか。どうやって来たのか。それすら、アークは思い出せずにいた。頭に浮かぶのは、シバと交わした会話のことばかりだ。
「……その様子だと、聞いたのね。いろいろ」
かしゃりと、ラナがランプを持ちかえる音がした。足元で、彼女の伸びた影が揺らめいている。
「ラナは……僕が竜の血を引いているって、知っていた?」
「もちろん。あんたは私の契約者だもの。エトスエトラは、竜族と契約を交わして生きる者だから」
「じゃあ……ブロウという男のことも、知っている?」
「会ったことはないけど、名前は知ってるわ。ブロウは、ダアトの契約者だから」
「そう。じゃあ……僕の生れのことは? ダアトから、何か聞いていた?」
「いいえ。それは、何も」
「そう……」
消え入りそうなアークの言葉を最後に、二人の間の言葉が途切れた。
黒い川面に、夜空から落ちる星の瞬きと水面の揺らぎで、ちらちらと硬質な光が浮いている。風が吹いた。さらりと草原を撫で、遠くへ駆け去ってゆく。
夜露の澄んだ残り香と、遠くに聞こえる凛とした虫の音と。深い夜に包まれて、アークの感覚は次第に鈍っていった。闇と自分の境界線が、次第に曖昧になってゆく。己の内から噴き出すどうしようもない不安や恐れが、奈落のような夜の闇へと、アークを引きずり込もうとする。ラナが後ろに立っていることすら、もう忘れてしまっていた。
僕は誰。僕は何。誰に望まれ、この世に生を受けたのか――それとも、誰にも望まれず――?
トンと、不意に背中に重みを感じた。沈みかけていた意識が、はっとして浮かび上がる。
ラナがいつの間にかアークと背中合わせに座り、その背を預けていた。
背中にラナの体温を感じる。動揺のあまり、アークは声をかけることも振り返ることもできずに、ただ視線を泳がせることしかできなかった。
「あんたが言ったのよ」
ぼそりと、ラナが小さな声で言った。
「……一人は、駄目なんでしょ?」
他の誰でもない。それは、アークがラナに言った言葉だった。
一人になろうとするアークを、今度はラナが探しに来てくれたのだ。
慰める言葉なんて、思い付けない。けれど、それでも側にいてくれる。彼女の不器用な優しさが、アークは嬉しかった。
「うん……そうだね。僕、確かに君にそう言った」
今日の夕暮時を思い出しながら、アークは夜空を見上げた。今まで意識に入って来なかった満天の星空が、一気にその輝きを増したように感じられた。
あのときラナは、一人で泣いていた。アークが見つけると、文句ばかり言うけれど、それでも泣き止んでくれる。同じように、今、アークはラナの温度に心を引き上げられた。悲しみの淵を抜け出したのだ。
それはお互いの苦しみを知るが故の、ただの傷のなめ合いなのかもしれない。しかし、もしそうであったとしても――共に立ち、前を向けるのならば、それもいいような気がした。いつかお互いに寄りかかるのではなく、支え合うことができる、その時までは。
大きく頭を逸らしたせいで、背後のラナの頭にコツンと後頭部があたる。ラナが、背後で身じろぐ気配がした。
「痛い」
「ごめん」
不機嫌そうな答えに、思わずふっと頬が緩んだ。
「ねえラナ。僕、これからひとりごとを言おうと思う」
「はあ?」
「僕の本当の母親は、シバ様の娘さんなんだ。名前は、ルドラクシャ。僕と同じ赤い髪をした、バルクラム族の戦士だった」
ラナの背中に、緊張が走るのを感じた。返事はないが、立ちあがろうともしない。彼女は静かに耳を傾けてくれている。
自分は誰なのか。
それを胸の内で夜の闇に問いかけるよりも、ずっとずっと、不安の霧は晴れるようだった。
「僕が生まれる少し前、僕の母親はある一人の男と恋をした。それが、『ブロウ』だ。あてのない旅の途中だったブロウは、バクゥの腰を下ろして、僕の母親と共に暮らした。そうして穏やかな時が過ぎた、ある日のことだ」
シバは『ある日』のことを話すとき、震えていた。思い出すのも苦痛であるようだった。
「ある日……それは、バルクラム族が春の到来を祝う『花萌え』というお祭りの日だった。その賑やかな空気を切り裂く、一陣の黒い風が吹いた。風は、すぐに炎へと変わった。煤をはらんだ、真っ黒い炎だったらしい。その炎は……多くのバルクラム族を焼き殺し、祝いの場を惨劇の場へと変えたんだ。そして、その黒い炎の中心に……一人の男がいたんだって」
話をする時のシバの瞳に、一瞬だけ殺意が見えた。黒い炎を纏った男の話をする時だった。
「煤と同じ、真っ黒い鱗を生やした黒髪の男だった。そいつは、ブロウに瀕死の重傷を負わせ、僕の母親を攫って行った。けれどブロウが必死で男を追いかけ、僕の母親を奪還することに成功した。でも……」
アークは、自らの手を見た。今はなめらかな人の肌をしているが、その内側には獣――竜の血が流れている。ひとたびその力を解放すれば、またあの醜い赤い鱗が生えるのだろう。その血は、誰から受け継いだものなのか。おそらくは――
「惨劇の後、僕の母親は身籠った。それは不自然なことだった。だって、ブロウは……人は竜の子を産めないからと、えっと……」
耳が、かっと熱くなる。どう言葉を選ぶべきかと、舌がもつれた。
「大丈夫、分かるから。続けて」
「ごめん。だから、僕の父親はブロウではないはず……らしいんだ。となると、たぶんその黒い鱗の男が、僕の本当の父親……なんだと思う。男が鱗を生やしていたのなら、そいつは竜族だ。……聖祉司に封印されたはずの竜族が、その二人以外にもいるとは少し考えにくいから」
「『はずだ』とか『たぶん』とか、なんなのよ。シバ様から真相を聞いたんでしょう?」
「シバ様もちゃんとは知らないみたいだから、状況から推測しただけらしい。ブロウも、娘さんも、教えてくれなかったんだって。それが、十七年前の話」
「十七年前? でも、あんた確か……」
「うん、十五歳のはずだ。僕は丸二年、母親のお腹の中にいたらしい。だから、ルドラクシャは化け物――竜の子を身籠ったと恐れられて……バクゥを、追放されたんだ」
花萌えの惨劇は、バルクラム族の心に影を落とした。その元凶である男の子供を身籠ったとされるルドラクシャは、恐怖の対象となったのだ。腹の中で息衝く小さな化け物が、もし、この世に生を受けたなら。またあの惨劇が繰り返されるのではないかと、バクゥの民から迫害を受けるようになってしまった。
「ブロウとルドラクシャは、バクゥを去った。そうして時が流れて、バルクラム族が花萌えで体験した恐怖が癒え始めたころ……ブロウが帰ってきたんだ。ルドラクシャの、亡骸を抱えて……」
あの時のブロウの顔が忘れられないと、シバは涙ながらにアークに語った。
怒りもなく。悲しみもなく。ただ全てに対する諦めが、ブロウの無感動な表情を形作っていたのだと。
「シバ様はどうしてルドラクシャは死んだのかと、ブロウを問い詰めた。人が生めるはずもない竜の子を産んだからかとか、迫害に耐えきれずに自ら命をたったのかとか、いろいろ聞いたらしい。追放を後悔していたことも語った。赤子はどうなったのかとも尋ねた。でも、ブロウはたった一言しか言わなかった。その他のどんな問いや言葉にも、答えなかったんだ」
「……ブロウは、なんて?」
すっと、息を吸い込んだ。冷やりとした夜の匂いに、鼻がつんとしみた。
「『俺が、ルーを殺した』――それだけ言って、亡骸を焼いて風と共に葬ったんだ。これが……シバ様に聞いた話の全て」
風葬の後、ブロウは再び姿を消し、二度とバクゥに戻ることはなかったという。
風が流れ、雲が出てきた。星の輝きを覆い隠し、水面をより濃い黒へと変化させる。
「竜族は聖祉司によって封印されたはずなのに、どうして十七年前姿を現した? その悪しき血を受け継ぐ僕は……僕は、何だ? 誰だ? どうして、スクァールにあれほど憎まれる?」
一度抱えた疑問を吐き出し始めると、止まらなかった。
「どうして僕の母親は死んだんだ? 僕はどうやって生まれた? 誰に望まれ、何のために生まれた? どうして、ブロウは僕の母親を――殺した?」
分からない。分からないことだらけだ。
地面についた手を、ぎゅっと握りしめた。川辺の小石も握り込み、ジャリ、と硬い音が鳴る。分からないことへの苛立ちを晴らそうと、握った小石を川に投げ込んでやろうかとした、そのときだった。
そっと、ラナの小さな手がアークの大きな手に触れた。少しひやりとした掌がアークの手に重なり、きゅっと握られる。冷えた手は、二人の体温でたちまち熱を帯びた。
アークの体は緊張で岩のように固まって、全く動けなくなってしまった。どきどきと鐘のように響く心臓は、今にも口から飛び出しそうだ。
何か言わなくては。必死で言葉を探すアークだったが、聞こえてきた音に思わず眉をひそめた。……鼻をすする音だ。
「ラナ? ……泣いてるの?」
「泣いてないわよ」
嘘だ。今にもしゃっくり上げそうな声で、必死で強がっている。
「生まれた意味なんて、なんだっていいじゃない。あんたは、エイジェイ・ベッセルの息子のアーク・ベッセル。そうでしょ? 違う?」
――今までも、そしてこれからも、お前は私の息子だ。
「ううん……違わない」
父の手紙を見たかのようなラナの言葉に、疑問の霧が晴れてゆく。焦る必要はない。答えは、これから探していけばいい。今はまだその答えは全く知れないけれど、その抱えた疑問の数々に、もう足下が揺らぐことはないだろう。
父エイジェイとの、心の繋がりがあるのだから。最も大切な答えを、ラナが改めて教えてくれたのだ。
「いいな」
ラナが、ぽろりと言葉を漏らした。
「私にも、あんたのお父さんみたいな人がいれば――」
最後の方は尻すぼみになって、聞き取れなかった。聞き返そうとしたけれど、それより先にラナが立ち上がった。鼻をすすり、濡れた眦を袖で拭う。
「何でもない。……ほら、帰るわよ」
地面に置いていたランプを拾い、ラナが歩き出す。その背を追って、アークも立ち上がり後に続いた。
ランプに照らされた小さな影と、それを追う大きな影が、つかずはなれずして揺れている。夜の草原は静かだった。さくさくと鳴る草を踏みしめる音が規則的に響き、時折風や虫の音が調子外れに音を乱す。
「ラナ」
声をかけると、ちらりと振り返る。頬にかかる細い髪をかきあげ、「何?」と仏頂面を返された。
「僕を見つけに来てくれて、ありがとう」
伏し目がちな銀の瞳が、少しだけ開かれる。
「馬鹿言わないで。……散歩してたら、たまたま、見つけただけよ」
ぼそぼそ言い訳をしながら、ラナは歩調を早めた。その背を追いながら歩く夜の道は真っ暗だけど――悪くない。そう、アークは思った。
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