BENNU | ナノ


▼ 013 光

   貴方の落とした金の種子
   芽吹く命に口づける
   風が生まれる西の町にて
   大地を育む希望となろう
 ああ――これは夢だ。耳の奥で鳴りやまないこの歌が、何よりの証拠だ。
 草原が瑞々しく香り、風の手に愛撫され翠の潮騒を起こす。
 風に揉まれるようにして、海を目指して歩いていた。強い風は耳元で唸り、潮の香を連れては頬をなぜてゆく。それは彼女の豊かな赤毛を揺らし、草原の翠に色を添える。
 足場が悪く、朝露に濡れる草は滑りやすい。身重の身体を気遣い、転ばぬようにと手を取った。
「めずらしい事をするのね」
 そう言って笑われたけれど、優しく握り返す指を離しはしなかった。
 幻とは思えぬほど、掌には確かな温もりがある。
   貴方の残した花弁の栞
   礫土に埋め機(はた)を織る
   風も逃げ出す東の谷にて
   忘却の詩を紡いで泣こう
 潮騒が、翠から碧へと変わる。
 海を臨む岸壁に、二人並んで立った。見渡す海はどこまでも碧く、広く、その果ては見えない。飛沫を上げる白波が岸壁を打ち、潮は渦巻き、幾多もの泡沫(うたかた)を海の底へと誘う。
   他が為の私であり
   私の為の貴方であった
   悠久の果て
   果ての闇
   届かぬ声が泥となる
「私は、最後まで望みは捨てない」
 彼女の肩は触れ合う程近くにあり、よく日に焼けた浅黒い肌が美しかった。その褐色に映える赤い錬蝶石の首飾りが、胸元で光っている。
「でも、一つだけ……私の我儘をきいて欲しい。これだけは、あなたにしか頼めない事だから」
 瞳に映る海の碧が一瞬、憂いの色を覗かせたように思う。だがたった一度の瞬きで、そんなものなどなかったかのように、いつもの強かな瞳に戻っていた。
 この目には、何を言っても敵わない。
 それを知っていて、あいつはわざと笑うのだ。
 繋いでいたブロウの手を、自らの大きな腹に宛がう。
 その感触が、掌で感じる胎動が、恐ろしくて堪らなかった。
   貴方が破いた虹の布
   破片をつぎはぎ涙する
   風の彷徨う南の海にて
   枯れぬ想いを霧へと隠そう
「もしも……もしもよ。恐れていた事になったら、その時は」
――言うな。その先の話は、もう、聞きたくない。
「――――」
 ざあ、ざあ、と啼き続ける潮騒が、言葉をかき消してゆく。それでも、彼女の唇は確かな意志をブロウに伝えた。
   貴方を愛する私の言葉
   白磁の檻が閉じ込める
   風も途絶える北の洞(うろ)にて
   朝を沈める墓石となろう
 繋いだ手を強く引き寄せ、抱きしめた。
 そんな事を平然と口にできるようになるまでの心境を思うと、堪らなかったのだ。
「本当に、しょうがない人。こんな事をするくらいなら、約束を守ると言いなさい」
 身体を離され、小突かれる。
 そうしてから首飾りを外すと、ブロウに手渡した。
「これを私の代わりに持っていて欲しい。――綺麗な石でしょ? あなたの目と同じ色よ」
 鮮やかな緋色に金糸雀色の網目模様の差した、欠けた錬蝶石の首飾り。
「失くしたら、ただじゃおかないから」
 言って、白い歯を見せて笑う。
 普段と何も変わらぬ、眩く、逞しさすら感じる笑顔。夢の中でさえ、それは色褪せる事はない。
――お前に、俺は一体何をしてやれたのだろう。
   他が為の貴方であり
   貴方の為の私であった
   久遠の彼方
   彼方の光
   届かぬ指が砂となる
 歌が……いつか彼女が歌っていた恋歌が、耳の奥で鳴り続けている。


「――っ!」
 一気に覚醒し、飛び起きた。
 汗が一粒、額を滑り毛布へと落ちる。吹き出した汗で貼りついた服が不快だった。震える掌を、確かめるように握りしめる。夢で感じた温もりは、もうない。
 隣のベッドでは、ロイがまだ静かな寝息を立てている。その顔に、金の帯が引いていた。薄く開いたカーテンから差し込んだ、朝焼けの光である。
 毛布から抜けだし、ベッドの縁に腰掛けて眠るロイをぼんやりと眺めた。
 顔にかかった髪を、そっと避けてやる。未だ色濃く残る旅の疲れが、目元に影を落としている。だが昨日倒れた時と比べたら、いくらかましなようだ。少しずつ、回復へと向かっている。
 それならば、錬蝶石を手放した事に後悔はない。けれど。
「馬鹿だな……お前は」
 立ち上がり、上着を羽織る。ロイを起こさぬようそっと部屋を抜け出し、宿を後にした。
 どこに向かう訳でもなく、気の向くままに歩いた。夜明けの町は閑散としていて、厳かに差す朝焼けが雪の白を金へと染める。路地裏は薄ら寒い青に陰り、そのコントラストが鮮やかだった。
 わっと、一陣の風が吹いた。家々の屋根に積もっていた雪の結晶を舞い上げて、きらきらとした光の軌跡を生みだし駆け去ってゆく。
 舞い落ちてくる雪片に手を翳し、束の間、目を奪われた。ふと、去って久しい故郷の事が脳裏によぎる。
 故郷に吹くのは竜の灼熱の吐息であり、光る風など吹かなかった。
 厚い雲の隙間から差し込む、金の帯を見上げる。
 初めて見た時、太陽の光とはなんと暖かで美しいものなのだと心を打たれた。故郷を覆う闇は、いつだって腐臭に満ち満ち、淀んでいた。
 辟易するほど陰鬱な竜の町。
 もう帰ることはない。否――帰ることは、許されない。
 光る風が落としていった雪片を、そっと掌で包んだ。
「俺なんかに付いてくるなんて……兄貴の元にいりゃあいいものを」
――そうやって、分かってない所が馬鹿だって言ってるんですよ。
「分かってないのはどっちなんだか」
 雪片は体温であっという間に溶け、つうと指の隙間から流れ出てしまう。
 記憶の彼方に霞む故郷も、古の友も、大事な人も。全て。この雪片のように溶け、流れ、指の間から滑り落ちてゆく。
 いつの間にか、口元が歪んだ笑みを浮かべていた。
 それでいい。
 俺には何も掴めない。掴む資格も、ない――。
 ずいぶん長い事、一人立ちつくしていたようだ。朝餉の支度にとりかかっているのだろう、家々の煙突から白い煙が上がり始める。すぐそばの小さな宿からは、包丁がまな板を叩く小気味よい音が聞こえた。
 宿へ帰ろう。ロイもそろそろ目を覚ます頃だと、踵を返し来た道を引き返そうとした、その時だ。
 ふと誰か呼ばれたような気がして、ブロウは足を止めた。
 耳で捉えたのではない。しかし確かな『言葉』が、ブロウの肩を叩いたのだ。それは酷く懐かしい響きだった。
「魔力(マナ)……? この気配、まさか」
 どこから呼びかけているのか気配を探るうちに、脳裏に直接響く声は次第に切迫した色を呈し始めた。魔力の主は酷く混乱しているようで、泣きながら助けを求めている。誰か。誰か。ここに来て。助けて……。文にならない断片的な言葉が、次々に溢れてくる。
 弾かれたように、ブロウは魔力の気配を追って走り出した。
「あいつ……こんな所で何やってんだ!」
 魔力の気配は、町の外へと続いていた。既に夜が明けていたおかげで、町の門は解錠されている。次の目的地へと向かおうとする巡礼者や旅人を追い越し、ブロウは町を飛び出した。
 町を出て少しした所に、針葉樹の生い茂る森があった。ロイと共にここを通り抜け、ベルナーゼ教会へと向かって歩いたのはつい昨日の事だ。
 背の高い木々がひしめき合う様にして屹立し、太陽の光を遮り森の中は薄暗い。風もなく、木の葉のさざめきすら止まり、森は不自然なほど静寂に支配されていた。
 朝だというのに鳥たちの囀りはなく、森の住人であるはずの獣の姿すら見かけないのだ。緑の影で息を顰め、何か恐ろしいものから身を隠している。
 何からとは、考えるまでもない。
「臭え……煤が出たのか」
 袖口で鼻を覆い、腐臭を遠ざけた。周りの木の幹には黒い煤汚れが付いている。イラの形跡である。
 だが残っているのはそれだけで、イラ本体は既にいなかった。風が凪いでいるせいで臭気が拡散せず、この場に籠っているだけのようだ。
 嘔気を催す悪臭の中、枝葉をかき分け森の奥へと進む。次第に近くなる魔力の主は、ただ幼子のように泣きじゃくっている。痛い。痛い。痛い――と。
 今は嘆くだけで、先程までの切迫した雰囲気はない。脅威は取り除かれたという事だろう。
「……誰か、いるのか?」
 戦う力は、彼にはない。イラを仕留める事が出来る、何者かの存在があるようだ。ひとりごちたブロウは、ふと雪と泥でぬかるむ足元をみて、その疑問を確信へと変えた。
 足跡があった。おそらくは二人分。ブロウの足跡よりも一回り小さく、女のものであるようだった。それを辿ると、薄暗い茂みの奥へと続いている。そして魔力の気配も、その茂みから強く感じられた。
 耳を澄まし、気配を探る。すると茂みの奥から、人の息遣いと衣擦れの音が聞こえた。時折、痛みを堪えるような呻き声が混ざる。怪我をしているようだ。
 小さく、舌打ちをした。
 イラと闘ってできた傷は、早急な手当てが必要だった。適切な処置があれば軽い膿を出す程度ですむが、おざなりな手当ては傷を腐らせる。
 魔力の主は、泣きながらも誰かを酷く心配しているようだった。
 ……誰を?
 嫌な予感がした。この先にいる誰かを助けたら、何か面倒な事になりそうだという漠然とした不安だ。その証拠に、額の傷痕が鈍く痛む。
 いっそ気付かなかったふりをして、この場を立ち去ってしまおうか。そんな酷い考えが頭をよぎるが、思い付くには遅かった。
 殺気が、こちらに向いたのだ。
 茂みで潜む者がブロウの気配に気付き、イラと勘違いしているようだった。しゃらんと、剣を抜く鞘ずれの音がする。
 足音を忍ばせ、狩りをする獣の如く、神経を研ぎ澄ましている。そして――
 ブロウがその場を飛び退くと同時に、茂みから女が飛び出してきた。イラを真っ二つにしてやろうと振り下ろした剣が、目標を捕えられず空を切る。
 女は、イラではなく人がいた事に相当面食らったようだ。
「イラじゃ、ない……?」
 肩で息をしながら、飛び退いたブロウを見る。
 女は傷だらけだった。肩まである紫黒の髪は乱れて顔に絡みつき、破れた服は血と泥で汚れている。
 一瞬イラではない事に安堵したようだったが、女は再び警戒心をむき出しにしてきた。剣を構えなおし、容赦なくブロウに向かって刃を薙ぐ。
「貴様、何者だ!」
 まさかイラではないと分かってなお剣を向けられるとは思わず、ブロウは寸での所で刃を逃れた。繰り出される太刀筋は疾風の様で、なかなかの手練であった。
「よせ、女!」
「煩い、お前は誰だ! 答えろ!」
「だったらその剣を下ろせ!」
 ブロウの呼びかけにも、激高した相手は一切応じなかった。剣を振ることで、傷口から血が溢れる。女の血がブロウに飛び、上着に幾つかの赤黒いしみを作った。
 突然、彼女の背後の茂みが揺れた。女がはっとしたように振り向き、飛び出して来た白い何かを止めようと手を伸ばす。だが、女の制止は間に合わなかった。
 イタチだ。すばしっこく女の手をかいくぐると、白いイタチは力の限り飛び上がり、ブロウの胸に飛び込んだ。
 イタチは咄嗟に受け止めたブロウの腕を駆け上がった。全身で喜びを表しているのか、左右の肩を行ったり来たりして、執拗に頬ずりしてくる。泥汚れなどすっかりはじく彼の見事な毛並みが、ブロウの耳をくすぐった。
「よせ、離れろっ――プルガシオン!」
 こそばゆくてたまらず、イタチの首根っこを掴んで顔から引き剥がす。それでもイタチは嬉しそうで、黒々とした瞳を輝かせてブロウを見つめていた。彼の発していた魔力は、今は瞳に映る旧友に安心しきり、もう泣いてはいない。イラにやられたのであろう脇腹の傷だけが、白い毛並みを汚し痛々しかった。
「な、なんで……?」
 ブロウとプルガシオンの様子を呆気にとられて見ていた女が、間の抜けた声を漏らした。緊張の糸が切れたのか、その場に膝をつく。しかしまだブロウを何者なのか訝しんでいるのか、剣を手放したりはしなかった。
「剣を収めなさい、ナディア。その方は敵ではないよ」
 再び茂みが揺れた。緑のヴェールを捲る様にして、女がもう一人、姿を見せる。
 二人目の女も、傷だらけだった。よく見れば、一人目の女、ナディアよりも傷が深い。左の肩口が特に酷く、指先から赤い雫が垂れている。それでも彼女の立ち姿は凛としていて、手負いの女性には到底見えなかった。
 背筋はぴんと伸び、ブロウを見つめる目は精悍で力強い。小鹿色の長い髪が僅かに差す木漏れ日を受け、絹糸のように艶めいている。くっきりとした目鼻立ち、豊かな睫毛、ふくよかな唇……女性が羨む全てのものを、彼女は持っているようだ。
「これはまた、えらい別嬪さんが現れたもんだ」
 軽口を叩くと、プルガシオンが怒ったように尾を揺らした。
 そして彼女の名を、ブロウに教える。
「……何?」
 プルガシオンから目を引き剥がし、目の前で微笑む女を凝視する。
「おや、プルガシオンは口が軽いようだ」
 くすくす笑いながら、女は手を口元に当てる。その仕草一つでさえ、一輪の花の様だ。
 俺は馬鹿か。寝ぼけるにも程がある――!
 敵国の姫は小鹿色の髪をした美しい女騎士で、白い天馬を駆るのだと、噂を聞いた事がある。天馬は聖都ジェノの法王から賜った、唯一無二の聖獣なのだとも。
 その聖獣こそ、今まさに首根っこを捕まえているこのイタチなのだ。
「……冗談じゃねえぞ」
 連れているのはプルガシオンと、たった一人の従者のみ。着ているのは豪奢なドレスなどではなく、動きやすい旅人の服。おそらく、プルガシオンに乗って空から国境を越えて来たに違いない。
 そんな事をする理由は、一つしか思い浮かばなかった。
――俺たちは『影』――強い光が伴う痛みだ。
 あの出来の悪い狐が言った言葉が、嫌な重みを持って耳の奥に蘇ってくる。
「光……?」
 疼く傷跡に、手を当てる。
 ゴディバ・マルグリット・ルナール・セヴル・ド・フランベルグ――!
「お初にお目にかかる、ブロウ殿。貴方の事は、法王とプルガシオンから聞いている」
 言って、姫君は微笑む。その華やぎとは裏腹に、額の傷痕はじりじりと疼きを増してゆく。
 やっぱりだ。
 傷が疼く時は、ろくな事がない――。

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