BENNU | ナノ


▼ 004 澱(おり)

 ひとつ、ふたつと舞い始めた大きな雪片は、やがて大雪と化した。それらは今痛いほどの強風に乗り、轟々と吹雪く。マントを被った頭の上や肩には、嫌というほどの雪がまとわりついた。
 それを払い落し、ブロウは前を歩くロイの背中を見る。いつまでたっても払い落されない雪が、ロイの肩で塊を作ろうとしていた。震えている。それはおそらく、寒さのせいではないのだろう。
 手を伸ばし、雪の塊を払い落してやる。振り返ったロイは、普段の彼が持つ空気を失っていた。大人びた表情も、小生意気に光っていた目も、すべてこの吹雪に凍りつき、砕け、風に攫われてしまったかのようだ。
 それらが剥がれおちた後のロイには、酷い狼狽だけが残った。小さな子犬が親兄弟を探し求めるような、縋るような目をしている。
「大丈夫だ」
 ただ一言、そう声をかけた。ロイは浅く頷いて見せるが、震えはおさまらない。その肩に手を置き、一度だけ強く握ってやった。
 それがロイの何を支えるとも分からない。それでも手は自然と動いていた。
「大丈夫」
 自分でも不思議なほど、柔らかい声を出したように思う。それを聞いたロイが、少し驚いたように目を瞬かせた。
 白いザラメのような雪のカーテンの向こうで、ロイがもう一度頷く。それは少しだけ、先ほどよりも力強いものに感じられた。

「はいそうですか、って簡単について行くとでも思ってるのか?」
『アジト』へと招待する。そう言ったフィロメラの言葉を、簡単に信用することは出来なかった。
「雪土竜(ゆきもぐら)の巣がアジトだと? 嘘くせえ。地下迷宮に逃げ込む魂胆か。それとも奴らの餌にでもするつもりか」
 雪土竜――ラルガラ雪山の山腹から地下にかけて生息する、大型の獣だ。成獣ともなれば熊と同等程に大きくなり、強靭な爪をもって岩盤を穿ち、巣穴を掘る。
 ラルガラ雪山が『迷宮』と称されるのは、ひとえに、彼らが縦横無尽に巣穴を掘り広げるからだった。それが複雑怪奇な地形を作り、抉られた巌が乱立、または倒壊して道を塞ぎ、方向感覚を失わせる。
 アジトがあるというペグズ大渓谷は、雪土竜の群れが根城としている場所だった。東西に深く走る大地の裂け目のようなそこに足を踏み入れたら最後、身の丈を超す巌に視界を阻まれ、地下まで続く道には出口が見えない。ブロウでさえそこは迂回しようとしていた、ラルガラ一の難所だ。
 また、彼らはこの不毛の土地で生きる為に、食えるものならばなんでも食らう。その対象は小動物や樹皮、木の実はもちろんのこと、人族とて例外ではない。雪土竜は、非常に獰猛な雑食の獣だった。
「私の話、聞いてなかったの? 雪土竜は、もういないと言ったでしょう」
「なぜいないと言いきれる」
「軍の脱走にこの道を選ぶ位だから、あんたがラルガラ雪山に詳しいのは分かる。……でもその知識は、一体何年前のもの? 少々、古いわね」
 フィロメラはブロウの危惧を鼻で笑い飛ばす。
 だが、フィロメラの言う事はあながち間違ってはいない。ブロウのラルガラ雪山についての知識は、ロイを拾う前――十一年以上前のものだ。誰も足を踏み入れないはずの雪山の状況など、たいして変わるはずがないと思っていた。
「まあ、表立ってやって来た事ではないから、知らないのも無理はないわ」
「……俺達はこの十一年間、死ぬ思いで雪土竜を駆逐してきた」
 ロイに抑えられたスヴェンが唸る様に呟く。
「俺達には、同盟国にもフランベルグにも覚られる事のない、潜伏場所が必要だった。それに見合った場所が、ペグズ大渓谷だ。もともと人の寄りつかない場所だし、迷路を把握さえすればそこは自然の要塞になる。それには、雪土竜の駆逐が必須だった」
「お前たちは……何かの組織の一員なのか?」
『俺達』――そう何度も口にするスヴェンの口調は、彼とフィロメラの二人を表すものではなく、何かもっと大きな集団の存在を感じさせた。
「だからその潜伏場所――アジト周辺にいた俺達を襲ったのか? 誰にも知られてはならない場所だから」
 ブロウの問いに、フィロメラが深い溜息を着く。
「その通りよ。誰にも知られてはいけないのが、私達の鉄の掟――。何の組織だかは、付いてくれば分かる。だから早くスヴェンを解放して。急がないと、吹雪に飲まれてしまうわ」
 フィロメラの言う通り、先程から舞い始めた雪はその強さを増し、視界を悪くし始めていた。荒ぶる雪風は、立ち話をしているブロウ達の体温を奪い始めている。雪の地面に半分埋もれるようにして抑えつけられているスヴェンなどは、指先が震え始めていた。
 確かに、今すぐにでも雪を凌げる場所に移らなければ危うくなる。だが、どうしても釈然としないものがあった。
「分からねえな。その鉄の掟とやらを順守しようとして俺達を襲ったのに、なぜ俺達をそこに連れて行こうとする。まさかこのイダルゴ族の命が惜しいからじゃないだろう。問答無用で旅人を襲うくらいだ、それほどの覚悟を持った奴が、たかが組織の下っ端一人の命で掟を破るはずがない」
 誰が下っ端だ、と憤慨するスヴェンだが、フィロメラが鋭く睨みそれを黙らせる。
「そうね……本来ならば、私たちはあんたたちを始末出来なかった以上、自害するべきだった。こうして尋問され、秘密を晒さないために」
「ならばなぜ、その真逆の事をしようとしている」
「私たちが襲ったのがあの子だったからよ」
 そう言って、フィロメラはすっと指をさした。その先には――ロイがいる。
「……俺?」
「オリヴと言う男を、知っているわね?」
 ロイが、はっと息を飲む音がした。
「なんでお前が……その名前を知ってるんだ」
「オリヴが、俺達の仲間だからだ」
 下から聞こえた言葉に、ロイが視線を下げる。スヴェンがにやりと笑っていた。
「お前を間近で見た時は驚いたぜ。オリヴとあんまりにもそっくりでよ。名前を聞いてさらにびっくりさ。『ロイ』の話は、何度もあいつから聞かされたからな」
「そんなの、でたらめだ……だって、有り得ない――」
 ナイフを握る手が震える。首に押しつけられたナイフの感触に、スヴェンが固唾をのんだ。
「おいロイ……オリヴってやつは、もしかして――」
 ブロウの声にも、ロイは顔を上げない。けれど、蚊程の声で返事はあった。
「オリヴは俺の……死に分かれた、兄です……」
 十一年前、ロズベリー戦役のきっかけとなった大嵐――確かロイの兄は、彼の母親と共に町の中央を流れていた川の氾濫に飲まれ、亡くなったのだと聞いていた。
 ロイの肉親が――生きている?
「なんで……有り得ねえんだ? お前もあの灰になったロズベリーで生き残ったんだろ」
 恐る恐る、スヴェンが語りかける。
「だったら兄貴が生き残ってても、不思議じゃないだろ?」
「でも、俺は――見たんだ!」
「オリヴが氾濫したクラモーラル川に流される瞬間? それはオリヴが死んだという確証にはならないわ」
 フィロメラが口を挟む。
「……『ロイ』の好きな食べ物は母ケイトの作ったミートローフ。友達と缶蹴りをするのが好きで、門限を破っては父イベールに怒られていた。それを庇うのは、いつもオリヴの役目だった……。でも父の事が大好きで、ロズベリーの町を良くしようと懸命に働く父を誇りに思っていて。よく兄弟で役場に忍び込んでは、父の仕事する姿を盗み見ていた」
「なんで……お前が、そんな事を」
「もちろん、本人に聞いたからよ。オリヴは、家族をとても愛していた。酒を酌み交わす時は家族の事ばかり話すもの。あんたは、彼が闘う『理由』なの。……会って、元気な顔見せてやってよ」
 スヴェンの首から、ナイフはいつの間にか離れていた。スヴェンの拘束は今や解かれた。それでもスヴェンは逃げるでもなく、刺激しないようにゆっくりと手を動かし、ロイの腕を握った。
「なあ、俺達と来い。オリヴもずっと、お前の事を死んだと思っていたんだ。……十一年ぶりの、兄弟の再会といこうや」

 さて、どうしたものか――
 フィロメラに導かれながら、ブロウは思う。
 今から彼らのアジトに足を踏み入れようとしている。今のロイは、それがどうゆう意味を持つのか考える事が出来ないほど動揺している。
 十一年間、ずっと死んだと思っていた兄が生きている。
 その知らせはロイの冷静さを欠くには十分すぎるものだった。
 だが、彼らの言う『ロイの兄』に会ったあと、俺達は多分……
 下り坂の足場は雪が積もってはいたが、その下は階段状に石が組まれているようだ。大人二人が並んで歩けるほどの幅がある段々の下り坂は、野晒しの斜面よりもはるかに下りやすく、また安全だった。
 十一年前は、こんなものはなかった。雪土竜達が掘り返した土砂や岩石が不安定に重なり合い、うっかりすれば陥没する足場に冷や汗を浮かべながら下ったものだ。
 あの二人がいる『組織』は、一体どれほどの規模を持っているのか。雪土竜を駆逐し、その巣をアジトとして使えるように整備をしている。決して小さいものではないのだろう。
 フィロメラ達の言う事は、この整備された斜面とロイの反応を見る限り、真実味があった。
 何かの組織が存在し、そこにロイの兄、オリヴがいる。――天涯孤独の身だったはずのロイに、肉親がいる。
 そこまで思い至って、ふと喉元に手を当てた。
 ……なんだ、この違和感は。
 喉が苦しい気がした。自らの奥底に淀んでいた何かが浮かび上がり、喉元に貼り付いているようだ。それはとても温かいもののようで、同時に薄汚いもののようでもある。
 ああ、胸糞悪い。これは一体何だ?
 この場をずらかるには、おそらく今しかない。相手の武器も、まだこちらにあるのだ。みすみす逃走の好機を逃そうとしている自分が憤ろしく、また不思議でもあった。
 ロイが奴らに付いて行きたいと言ったからか?
 だからといって、なぜ放り出してはいけないような気がするのだろうか?
 もともと一人旅の予定だったのだから、ここでお別れしてもいいはずなんだ。
 それとも……肉親に引き渡すところに立ち会うべきだとでも思っているのだろうか。
 喉元に張り付いた澱が、濃さを増す。ああくそ――気持ちが悪い!
「もうすぐよ。もう少し下れば、アジトに通じる地下道への入り口がある」
 フィロメラの声に、ブロウが思考を止めて顔を上げた。まだまだ下り坂は続き、渓谷の一番下には程遠い。雪で足場の悪い斜面を避け、雪土竜達の掘った地下道を行くのだろう。
 その時、風がぞっとそるほどの悲鳴を孕んで吹き、はっとした。
 今、完全に周囲への警戒を怠っていた。後ろからほっとしたように「ようやく雪とはおさらばだ」とのんきに呟くスヴェンの声がする。風に呪詛の囁きが混じり合い、煤の濃度を増す。その中でも最も悪意に満ちた一筋の濃い煤が、耳朶を舐めるようにして流れて行った。
 逃、ガ、ザ、ナ、イ、ヨ――
 しまった――油断した!
「走れ! イラが来るぞ!」
 ロイの腕を引っ掴み、支える様にして足早に坂を下り始めた。ブロウの剣幕に一瞬驚くものの、すぐに風に乗った煤の臭気に他の者も事態を察し、慌てて足を速める。フィロメラが声を上げ、後の三人を導いた。
「何なんだ! さっきも遭遇したばっかりだってのに!」
「つべこべ言ってんじゃないよ! こんな坂道で応戦なんて出来ない、早く地下道に!」
 フィロメラに叱咤されながら、最後尾のスヴェンが必死で駆ける。その背後から、黒い霧が押し寄せてきた。追い風に乗り、またたく間にブロウ達を飲み込む。
 雪と煤で視界が悪くなった中、耳障りな羽根音を聞いた。頭上から、何枚かの焦げ跡のついた羽根が舞い落ちてくる。
 頭上を舞う火傷だらけの怪鳥を眺めながら、ブロウは舌打ちをする。三羽。平素ならば苦もないが、足場の悪い下り坂では厄介な相手だった。上空に気を取られ道から足を踏み外せば、渓谷の底へと転がり落ちてしまう。
 頭上を旋回している怪鳥の群れが発する奇声は、老若男女様々な声が重なり合い啼哭しているよう――否、泣いているのではない。笑っているのだ。他の三人には何も聞こえていないが、ブロウにだけは嘲弄するような笑い声が聞こえていた。
「あそこよ! あの横穴の中へ!」
 フィロメラが前方を指しながら叫ぶ。坂をもう少し下った所に踊り場の様な場所があり、黒々とした口を広げる地下道への入口あった。
 怪鳥の中の一羽が急降下を始めた。矢のように一直線になり、鋭利な嘴を突き出しブロウめがけて落ちてくる。
 反撃やむなしと剣を構えるが、剣が届く前に怪鳥が悲鳴を上げた。宙で一度不自然に跳ね上がり、そのまま落下する。地面に落ちた怪鳥の身体には、一本のナイフが突き刺さっていた。
「空中の敵は俺が」
 そう言いながら、ロイはフィロメラの頭上に迫っていたもう一羽に向かってナイフを投げた。狙いに寸分の狂いもなく怪鳥を貫き、落ちた屍が灰と化す。
 最後の一羽が下降の体勢に入る前に、四人は横穴へと辿り着いた。転がる様にして中へと傾れ込み、悪臭に込み上げる嘔気を堪え、ひたすらに息を顰める。
 冷たい地下道の石壁に背を預け、外を窺う。怪鳥は目標物を見失い、横穴の周囲を何度も旋回していた。しばらくすると諦めたのか、どこかへと飛び去っていった。怪鳥が去ると同時に、黒い霧も薄れてゆく。ほどなくして、外は雪が吹き荒ぶ白の世界へと戻った。
 他の者が安堵の息をつく中、ブロウの表情は晴れなかった。
 間髪入れないイラの襲撃。そしてあの『声』。
 イラが自分を探し狙う事も、声がするであろうことも、予想していた事ではあった。しかし、あれは――誰の声だ。予想していたよりも幼く、子供と言い表してもいいくらいだ。
 なぜ。
 今は空洞となっている左の眼窩に思わず触れる。息が詰まる程の罪悪感と喪失感に襲われる。
 なぜ。
 その手を無意識のうちに額へ伸ばす。額に走る一文字の傷痕を指でなぞる。
 なぜ。
 イラの襲撃は……『奴』では仕業では、ない――?

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