▼ 003 襲撃
「さっさと武器を捨てろ。こいつがどうなってもいいのか?」
ロイの喉元にさらにナイフを近づける。その切っ先が触れたところの体毛が、少しだけ切り落とされた。切れ味は申し分ない。もう少し力を加えれば、簡単に息の根を止める事が出来るだろう。
仕方がない――
イダルゴ族(キツネの亜人)の男から視線を逸らさず、腰に佩いた剣をベルトから外し、地面に落とした。それをすかさず弓を構えていた亜人が拾い上げ、また素早く距離を取る。小柄な体躯、顔の横に垂れた長い耳、神経質そうにひくつく小さな鼻――モッキア族(兎の亜人)だ。
「スヴェン。ジャハダの餓鬼の武器も取り上げな」
「わかってる。でもこいつ、意外と力が強くて手を抜けない。頼むよ、フィロメラ」
「だらしないわね」
モッキア族の女――フィロメラが、組み敷かれたロイの側にしゃがむ。腰に佩いた剣を取り上げると、次にマントをめくり、したり顔で笑った。
「やっぱり。こうゆうマントの裏には大概、投擲用の小型ナイフが隠されてるのよね」
そう言うが早いか、フィロメラはロイのナイフを抜き取り始めた。全て取り上げると、それを自らの背嚢にしまった。
「いいナイフね。ありがたく頂戴しておくわ」
「くそ……お前ら、何者だ!」
ロイが悔しそうに叫ぶが、しかしスヴェンに喉を締め付けられ、口を閉じざるを得なくなった。苦しげに呻くロイの声が、徐々にブロウの怒りを募らせていく。
「おい! こっちは武器を捨てただろう、手荒な事はよせ」
「黙っとけよオッサン。お前らにしゃべる権利はない!」
「そうよ。主導権はこちらにある」
フィロメラがナイフを抜き、ブロウの首に突き付けた。
「連れを殺されたくなければ質問に答えな。お前たちは何者だ」
「俺達はただの旅人だ」
「とぼけるな。ラルガラの迷宮をわざわざ通る旅人などいない! 何が目的だ」
ナイフの刃が首に押し付けられる。ぷつりと皮を押し切られ、うっすらと血が滲んだ。
「目的も何も、旅人だと言っているだろう」
「信用できないわね。ただの旅人なら街道を行くだろう。三度目はないぞ。何が目的でこの地に足を踏み入れた」
「……えらいこだわるな。ラルガラ雪山に入られて困る事でもあるのか?」
「間違えるな」
思いっきり足を踏みつけられ、喉の奥で呻きを飲み込んだ。
「質問をするのは私だ。あんたは馬鹿みたいにただ質問に答えればいい」
「ああそうかい……けど何度聞いたって答えは変わらねえぞ。俺達は旅人だ」
「あんたも強情だね。だが仮に旅人だとして、なぜこの道を選ぶ? 街道を行かない理由はなんだ」
下から睨みあげてくるこげ茶の瞳は抜け目なく、強かなものだった。ハッタリは通じそうにない。人質にとられたロイをちらりと見やり、舌打ちをした。
「……脱走兵が馬鹿正直に街道なんて通れないだろう」
「脱走兵? 所属はどこだ」
「聞いてどうする」
「間違えるな、と言ったはずだが?」
「……グローネンダール領第四地区警備隊、ウガン砦の所属だ」
「グローネンダール領の所属、ねぇ……」
信用に値する答えなのか見極めようと、フィロメラの視線がブロウを貫く。しばらくの間、ぴんと張り詰めた沈黙が流れた。
雲が出てきたようだ。きらきらと輝いていた雪原は陰りを見せ始め、次第に彩度を落としていく。流れる風も次第に湿り気を帯び、降雪の気配を感じさせた。
ブロウの頬をなぜる風もまた、少しの湿り気を孕んでいる。それと同時に、何か異質な物を運んできた。誰かが、誰かを呪う声だ。か細い、しかし粘着質な呪いの叫びが耳元でそよぎ、流れて行った。
「フィロメラ。……こいつの顔、誰かに似てないか?」
ふと、思い付いたようにスヴェンが口を開いた。
「ジャハダ族で、深緑の髪で……こいつの鼻筋、目つき……」
組み敷いたロイの顔をまじまじと眺めながら、スヴェンが言った。「いや、でもそんなはずは……」などとぶつぶつ口にしながら、首を振っている。
「そこを動くなよ」
ナイフをブロウの方に向けたまま、フィロメラが慎重に後退を始めた。ロイのそばまで下がると、その顔をスヴェン同様まじまじと見降ろす。次第に眉間に皺が寄り、次には驚いたように目を見開いた。
「あんた、名前は?」
当惑気味のロイが答えられずにいると、スヴェンがナイフの腹でロイの頬を叩いた。
「名前だよ、名前。さっさと答えな」
「名前が何だって言うんだ……ロイだ」
二人が、驚いたように顔を見合わせる。
「……名字と、生れを言って」
フィロメラが、静かに問いかける。先ほどまでの刺々しい口調が、一瞬だけ消えたようだった。
「ハイフェッツ。生れは、ロズベリーだ。今はもうない町だけど……」
訝しく思いながらも、ロイは問いに答えた。首には未だナイフが付き付けられている。しかし、もう力はほとんど入っていなかった。
「あんた、もしかして――」
フィロメラの言葉は、突風に掻き消された。雪の粒を巻き上げながら風はあらぶり、鈍色の雲を運んでくる。それと同時に、またブロウの耳元に呪いの声を運んできた。今度は先程よりも大きく、確かな言葉を持って喚いている。その幾つもの悲鳴が重なった襞の奥から聞こえた言葉に、ブロウの背筋がぞっと粟立った。
見、ツ、ケ、タ――
風に乗って突如現れた黒い霧が、たちまち四人を取り巻いた。噎せ返るような臭気に、一斉に鼻を覆う。
「なんてこった……イラが来るぞ!」
「おい、モッキア族の女! 剣を返せ。イダルゴ族はさっさとロイを離せ」
「馬鹿言うな、離したら逃げるだろう!」
「そんなこと言ってる場合か!」
短い口論の合間にも、霧の濃さは増していく。黒く霞んだ視界の端に、山の様な影が見えた。
大きな影はのそりと動き、後ろ足で立ち上がった。背丈はブロウの二倍以上ある。仰ぎ見るその姿は、イラ特有の夥しい火傷に爛れ、濁った瞳は殺気を帯びていた。
ねっとりと赤黒い糸を引く口を大きく開くと、幾重にも重なったような声で咆哮した。唾液が飛び散り、白い地面に赤黒いしみをいくつか付ける。
「やばいぜフィロメラ……熊の、イラだ」
イラを見上げ、スヴェンが青くなりながら呟く。その隙を突き、ロイが反撃に出た。
ナイフを持っている手首を掴むと、力いっぱい捻った。不意を突かれたスヴェンが、苦悶の声を漏らしナイフを取り落とす。すかさず、ブロウが飛び出した。フィロメラの制止も間に合わず、一気にスヴェンに詰め寄る。腹に一撃を見舞うと、スヴェンが息を詰め、ロイの上から崩れ落ちた。
イラが太い腕を振り被る。間一髪、ロイの腕を引っ張って引き寄せると、空振った爪が地面にめり込んだ。スヴェンも必死で身を捩り、辛くもイラの爪を逃れた。
獰猛な唸り声を上げながら、逃した獲物を視線で追う。その右目に、一本の矢が突き刺さった。フィロメラだ。
苦痛の叫びを上げながら、イラが体勢を崩した。矢を抜こうともがいているが、深く突き刺さった矢をどうすることも出来ないようだ。
「スヴェン!」
フィロメラの声に、スヴェンが剣を構えて飛び出した。フィロメラの放つ援護射撃が、見事にイラの火傷痕に命中する。激痛に仰け反るイラにとどめをさそうと、スヴェンが深く踏み込む。だが――激痛のあまり闇雲に振るわれたイラの爪が、意図せずスヴェンの目前に迫った。
咄嗟に、ブロウはスヴェンの落としたナイフを拾った。柄が指先に触れる。握る。空を切り裂く高い音を残し、ナイフは放たれた。
狙いに寸分の狂いもなく、ナイフはイラの腕に突き刺さった。軌道を変えられたイラの腕が、寸での所でスヴェンを逸れる。
「弱い。貸せ!」
スヴェンの手から剣を奪い取ると、ブロウはのたうつ爪の嵐を抜け、イラの懐へと踏み込んだ。
柄を握る手に、刃が肉に食い込む感触が伝わる。固い物を砕く鈍い音。一気に剣を振りぬく。骨ごと立ち切る。
素早く離れると、ついさっきまで立っていた場所には血飛沫が舞っていた。黒く沸騰したイラの血が雪を溶かす。しかしそれらは幾許もしないうちに蒸発していった。イラ自身もまた、灰と化し風に攫われて行く。
黒い霧が完全に晴れるその最後、一筋の濃い煤がブロウの側を通り過ぎた。
――見ツケタ、見ツケタ……モウ逃ガサナイ……
「黙れ」
誰にも聞こえないくらいの小さな声で呟き、煤の囁きを握りつぶした。
「くそ! 離せ、このクソ餓鬼め!」
「さっきのお返しだ。大人しくしろ!」
「さて……人質逆転だな。よう、イダルゴ族よ。さっきはロイが世話になったなぁ」
スヴェンから奪った剣を、彼の顔のすぐ横で地面に突き立て、ブロウが凄む。今度はロイに組み敷かれたスヴェンが、その気迫に生唾をごくりと飲み込んだ。
多少の抵抗を考えてはいたが、しかし予想外にも、フィロメラはあっけなく降参の意を示した。ブロウに指示される前に、さっさと得物を地面に放り両手を上げる。
「なんだ。意外にも素直じゃないか」
「ふん。あんな巨大なイラを一撃で倒す奴に無駄な抵抗なんてしないさ。それに、そんなへたれでも一応相棒なんでね」
「殊勝なこった。じゃあさっさと俺らの武器を返しな」
言うと、フィロメラは二人から取り上げていた剣をブロウの方へ放った。ロイから奪ったナイフも背嚢から出し、同じく放る。
「さあ、あんたの要求は飲んだんだ。スヴェンを放して」
「駄目だな」
返された武器を回収しながら、ブロウはにやりと唇の端をつり上げて笑った。
「今度は俺が問う番だ。――お前ら、何者だ。なぜラルガラ雪山なんかにいる」
ブロウの問いに、フィロメラは俯く。スヴェンが不安そうにフィロメラの名を呼んだ。
「だんまりか?」
スヴェンの顔の横に突き立てた剣を、彼の方に少しだけ傾ける。オレンジ色の前髪が、少しだけ短くなった。
「……やめて。私たちの事、話すから」
「よし」
傾けた剣を元に戻すと、スヴェンがほっとしたように息をついた。意を決したようにフィロメラはブロウに向き合い、そして口を開いた。
「……私たちの事を、一言では話せない。長くなるわ。雲行きも怪しいし、場所を変えない?」
確かにフィロメラの言う通り、空は先程の風に連れられて来た雪雲に覆われ、暗くなり始めていた。既に大粒の雪が、ちらほら舞い落ちてきている。風も依然として強く吹いており、もう少しすれば吹雪になりそうだった。
「どこに行くつもりだ? この廃墟にまともな作りの家は残ってないが」
辺りを見回しながら、ブロウが問う。どの家も柱が崩れ、雪を凌げる屋根を残したものはない。
「ここからもう少し南へ下った所に、雪を凌げる場所がある」
フィロメラが南を指さしながら言った。
地図を思い出しながら、ブロウはここから南に何があったかを考える。メギュ族の廃墟の南――確か、そこは、
「ペグズ大渓谷……雪土竜(ゆきもぐら)の巣か」
「すいぶん詳しいわね。……ラルガラ雪山、慣れた道なの?」
フィロメラの問いに、沈黙を返す。返事を諦めたフィロメラは肩をすくめた。
「ここでこうしていても吹雪に飲まれるだけよ。雲と風の感じからすると、たぶん大きな吹雪が来る。外にいたら凍え死んでしまうわ」
「だからと言って、雪土竜の巣に飛び込むのか? 気性が荒い獣だぞ」
「安心して。雪土竜はもういない」
怪訝そうなブロウに、フィロメラはにやりと笑って見せる。
「あるのは彼らの巣だった地下迷路だけ。私たちの『アジト』へ招待するわ、隻眼の戦士。そして――ロズベリーの坊や」
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