BENNU | ナノ


▼ 002 ラルガラ雪山

 大粒の雪が鈍色の空から落ちてくる。行く手を遮るかのように、絶えず、深々と降り積もる。
 それは全て物の温度を奪い去り、氷へと変えてゆく。まばらに生える山の木々でさえも凍てつき、真っ白なドレスを着た樹氷と化していた。
「ロイ、足を止めるな。こいつらの仲間入りをしたいか」
 少し後方で立ち止まったロイを振り向き、そばの樹氷を叩きながらブロウは言った。
「まさか。ちょっと、息を整えているだけです」
 精一杯の強がりを吐き、マントに積もった雪を払い頭から被りなおした。先を行くブロウを追おうと足を踏み出すが、疲労に痺れ、明らかに膝が笑っている。夜が明けてから、ずっと歩き通しだ。たどたどしい歩みのロイは、すぐにブロウの予想通り、雪に足を取られて転倒した。
「何やってんだ」
 ロイのそばまで戻り、助け起こす。顔に付いた雪を身震いして払い落し、ロイは頭を下げた。
「すみません」
「次の中継地点までもう少しある。気張れよ。日が暮れる前に着きたい」
 ロイがしっかりと頷くと、ブロウは再び歩き出した。
 ラルガラ雪山に足を踏み入れて、数日がたった。
 見渡す限り一面の銀世界を、ひたすらに歩いた。迷路のような巌の切り立つ尾根を越え、樹氷の天蓋を潜りぬけ、凍りついた川を渡った。それらは旅に慣れていないロイにとって、厳しい行程となった。夜間の見張りを交代するまで、毎晩泥のように眠るのだ。
 ブロウは過去の記憶の糸を手繰り寄せ、中継地点として使えるものがある道を選んで進んだ。おかげで雪原のど真ん中での野宿は避けられたが、その全てが快適に使えるものと言う訳ではなかった。雪の重みで潰れてしまいそうな粗末な山小屋や、氷の張った洞窟はましな方だ。吹雪を防げるだけもで、そこは立派な寝床になる。
 潰れた山小屋に当たってしまったこともあった。その時は瓦礫で雪避けを作り、ロイと身を寄せ合って凍える夜を凌いだ。
 そのどれもが遠い過去の遺物で、現在は誰にも使われるはずのないものだった。氷の迷宮と呼ばれるラルガラ雪山に足を踏み入れるような、酔狂な人物さえ現れなければの話だが――。

「不思議ですね。どうして誰も足を踏み入れない雪山に、教会なんか建っているんでしょうか」
 日が暮れる前に辿り着いた小さな教会で、火を熾しながらロイが呟いた。寝る場所を確保しようと、床に散乱している瓦礫を端に寄せていたブロウが振り返る。
「ここいら一帯、『世界の嘆き』以前には氷山人――メギュ族の国があったんだ。だが戦争で国は地形が変わる程に崩壊し、メギュ族は絶滅した。今まで使っていた小屋やこの教会は、その当時の残骸だ」
 へぇ、とロイは感心した様な声を上げた。
「詳しいですね。『世界の嘆き』っていったら、もう三百年も前の話だ」
「別に。昔そんな事を聞いたような気がしただけさ」
「それにしたって、あらかじめ地図に中継地点を書き込んでいたじゃないですか。まるで昔通った事があるみたいだ」
「まあ……昔、何度かな」
「やっぱり、通った事があるんだ。いつの話です? どうしてこんな雪山を?」
 興味深げに尋ねてくるロイを鬱陶しく思い、曖昧な返事を返して後ろを向いた。深く突っ込まれると、途端に説明が面倒臭くなる。
 今まで、ロイに対してでさえある一定の距離を保ってきた。それを分かっているロイも、すぐにそれを察し、深くは追求しなかった。いつもの事。そう割り切る事を、ロイはいつの間にか身に付けていた。
「まったく。まただんまりですか。別にいいですけど」などとぼやきながら、ロイは火を熾す作業に戻った。火打石を打つ高い音が何度か響き、そのすぐ後に小さな火が灯る。じんわりと柔らかな緋色の熱が、薄暗い教会の中に浮かび上がった。
 その間も、ブロウは無言で床を片していた。焚き火の周囲があらかた片付き、最後の仕上げに長椅子の残骸を部屋の端に蹴り飛ばす。凍った木の板が壁にぶつかり、からんからんと乾いた音をたてた。
 その後ろから出てきた物に眉を顰めた。
「……妙だな」
「何がですか?」
 急に声色が低くなったブロウに、ロイは何事かと腰を上げた。
「こいつを見ろ」
 板の下から出てきた物を、ロイに指し示す。見ると、ロイも不審そうに眉間に皺を寄せた。
「これは……熾(おき)?」
「まだ新しいぞ。この感じからして、まだ火が消えてからそう時間がたっていない。せいぜい、一日ってところか」
 触れてみると、やはりまだ凍りついてはおらず、黒い煤汚れが指先に付いた。
「なんでこんなものが。俺たち以外にも、誰かが雪山越えをしようとしているってことですか?」
「雪山越え、ねぇ……普通の頭をしてる奴なら、ラルガラの迷宮に足を踏み入れたりしないはずだが」
「じゃあ、いったい誰が……何のために?」
「知るか」
 不安そうなロイの顔が、焚き火に照らされ深い陰影を作った。伏せた耳が、周囲の些細な音にも警戒を払っている。
 残された熾を踏み潰す。ブロウの靴底に張り付いた真っ黒な煤が、周りの霜を黒く汚した。
「だがこの雪山には確実に、俺達の他に誰かいる。……そう遠くない所にな」

 次の日からの行程は、今までよりも慎重に進んだ。絶えず周囲に注意を払い、熾を捨てて行った『誰か』の痕跡を見逃すまいとした。追手か。それとも、狂人か。いずれにせよ、出会ってしまえば何か厄介な事になるだろう。
 今朝は天気も良く、珍しく青空が広がっていた。山で見る空は澄んでいて、見上げていると吸い込まれてしまいそうなほど美しい。
 昨晩までの雪で作られた樹氷が、朝日を浴びてきらきらと眩しい光を照り返している。細やかな宝石が埋め込まれ、それがいっせいに光り輝いているようだった。その反対の影になっている方は、冷たく薄い、青みをおびた緑色をしていた。しんと静かな色を湛えた様は、どこか神秘的でさえあった。
 昼頃までは、特に何事もなく進んだ。『誰か』の痕跡など全く見当たらず、白い大地をただ黙々と進んだ。
「昨晩まで雪が降っていたから、足跡は消されてしまいましたね」
 横を歩くロイが言った。
「本当に、誰がいるんでしょう。先を行くのだから、追手ではないと思うのだけれど」
「どうだかな。慎重に進んでいるから、俺達の歩みは遅い。雪山に慣れている亜人が追手だとしたら、十分先を行かれているのはあり得る」
「そうだとしても、こんなに順調に進めるのはブロウが道を知っているおかげでしょう。いくら亜人だからって、ラルガラの迷宮を難なく乗り越える事なんて出来やしない」
「どうだかな」
 肩をすくめて見せた後、ブロウは首を振った。
「おしゃべりはここまでだ。警戒を怠るな」
 ロイが頷く。そうしてまたしばらくの間、二人は無言で足を進めた。
 午前中は晴天が続き、順調に南へと進んだ。そして太陽が中天に差し掛かろうという頃、二人は廃墟へと辿り着いた。
「メギュ族の町の、成れの果てだな」
 石造りの柱や家の礎が、雪のヴェールをまとい静かに佇んでいる。手で石柱を覆っている雪を払ってみると、そこには何かの模様が刻まれているようだった。しかし、それがどんな模様だったのかは分からない。ただうっすらと浅い溝を残すそれは、触れる者に長い年月の風化を感じさせる。崩壊の時より三百年。未だ土に還ることなく事なくそこにあり続け、栄華を極めていた時代があったのだと、後の世を生きる者に必死で伝えようとしているかのようだ。
 横倒しになった石柱を見つけ、ブロウはどっかと腰をかけた。
「ちょうどいい。昼飯にしよう」
 そう言うが早いか、ブロウは荷物から火打石を取り出した。昨晩の教会で拾っておいた長椅子の残骸で小さな山を組み、焚き火の準備をし始める。長い間放置されよく乾燥した板の破片は、火種をいとも簡単に受け入れ瞬く間に大きな炎となった。ぱちぱちとはぜる音が心地よい。
「そうだ、ブロウ。ひとつ聞きたいんですが」
 食事の準備をしながら、ロイが話しかけてきた。
「今まで付いて行くだけで精一杯で、あまり聞かなかったけど……やっぱり、気になるんですよね」
「何が」
「理由ですよ」
「……何の?」
「なぜ、ウガン砦を離れたのかという事です。イラも増えて大変な時なのに、まるで逃げ出すみたいに夜中に砦を離れるなんて。あなたに置いて行かれたくなくて、あの時必死で追いかけました。でも……時間がたてばたつほど、それが気になってしまう」
「逃げだすみたいに、ねぇ……」
「ブロウ、なぜなんです? なぜ今、同盟国を離れる必要が?」
 まっすぐ過ぎるロイの質問に、ブロウは瞑目した。嫌な餓鬼だ。悪びれる事無く、直球の問いを投げてくる。
 決してわざとではないのだと分かっていても、つい悪態をついてしまう。落ちつかなくて、残り少なくなった煙草に手が伸びた。肺腑の奥まで紫煙を満たせば、少しだけ落ちつく様な気がしたのだ。
「理由が、そんなに重要か?」
 吸い込んだ紫煙をロイに向かって吐きだしながら、ブロウは言った。
 煙にむせながら、ロイが睨む。
「理由がないと、お前はついて来ないか」
「な……ブロウ、俺はただ、」
「もしそうならお前は引き返せ。ぐだぐだ面倒な事を聞く餓鬼を連れて旅なんて――」
「馬鹿な事言わないでください! 誰が引き返すか!」
 突然大声を出し、ロイは立ち上がった。予想外の激しい反応に驚き、火を付けたばかりの煙草を地面に落してしまう。
「言いたくない事を根掘り葉掘り聞こうなんて思ってませんよ! なぜ今さら突き離す様な事言うんですか」
「おい、何をそんなに怒ってるんだ」
「怒りますよ! あなたは、昔から自分の事を話したがらない。でも俺は、やっぱり気になってしまうからつい問いかけてしまうんだ。答えてもいい事ならあなたは答えてくれるし、答えたくない事ははぐらかしてきた。今までずっとそうだったじゃないですか。何を、何を今さら……! 過去を聞くなら引き返せ? 嫌ですよ」
 怒りに燃えたロイの双眸が、ブロウを見据える。しかし、そこに宿るものに落胆と悲哀を感じた瞬間、途端にばつが悪くなった。
 どうやら、自分は相当焦っていたようだ。「まるで逃げ出すみたいに」と言ったロイの言葉が、まさしくその通りだったから。
――あら、逃げるの?
 古い戦友の嘲笑が、再び思い出される。あの女も、こいつと同じジャハダ族だった。嫌な女だ。死してなお、同族の子に同じような言葉を吐かせるなんて。
 逃げる。その通りだ。今も、昔も、俺は逃げてばかりだ――。
 ロイは持っていたマグカップを地面に置くと、後ろを向いて歩きだした。
「おい、ロイ。どこへ行く」
 引きとめると、ロイが振り向かずに言った。
「頭を冷やしてきます。すみません、大きな声を上げました」
「別に、お前が謝る必要は――」
 最後まで、言えなかった。
 何かが風を切って迫ってくる音がする。間一髪、身を捩って地面に転がると、ついさっきまで腰かけていた石柱に一本の矢が突き刺さった。
 矢の飛んできた方向を睨むと、崩れた石壁の向こうに誰かがいた。弓矢を構え、その鏃(やじり)はしっかりとブロウを狙っている。
「誰だ!」
 剣を抜こうと柄を握る。その手を、もうひとつの声が遮った。
「おっと、動くなよ」
 はっとしてロイの方を向く。しまった。もう一人いたか――!
「ブ、ブロウ……!」
「騒ぐな。死にたいか、ジャハダのぼうず」
 ロイはキツネの亜人に組み敷かれ、喉元にナイフを突き付けられていた。手に持ったナイフに似た切れ長の目が、鋭い眼光を放っている。
「こいつの命が惜しけりゃ武器を捨てな」

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