▼ 031 雨
ラナに導かれてウルフ鍛冶店の店先に出ると、夜にそぐわぬ明るさにアークは目を細めた。
ダアトを中心として円を描く紋章陣は、文字の様な模様に円や線を組み合わせた、複雑な模様をしている。淡い薄紫の光を放つそれは、強さを増した雨に乱反射し、鬱屈とした雨雲の向こうからキラキラ光る星屑を落としたかの様でもあった。
その幻想的な光景にも、今のアークの心は動かない。身体を汚す滑った赤を洗い流してくれる雨の冷たさだけが、彼を慰めた。
この雨が濁流となって、全てを洗い流してくれたらいいのに。時を遡り、あの恐ろしい少年を、穢れたこの僕を、消し去ってしまえたならどんなにいいだろう――
「……遅かったね。もう、気はすんだかい」
労わる様な優しい口調で、ダアトが問いかける。その問いかけに、アークは緩く首を振った。
「軽い傷の手当てをしただけだ。医者を呼んだ訳でもない……」
急かすラナの言う事を聞かず、アークはウッツの傷の手当てをした。ウッツの部屋から清潔なタオルとシーツを数枚引っ張り出し、傷を拭い、細く裂いたそれを包帯代わりに腹に巻いた。
傷を覆う直前、この鋭い爪痕を自分が付けたのだと思うと、布を持つ手が震えた。いつの間にか溢れた涙で、視界も定かではない。
コリーナとダニエーレの亡骸も、そのままにはしておけなかった。出来るだけきれいに血を拭い、瞼を閉じさせ、胸の前で手を組ませた。それでも滲んで来る血を隠すために、二人の身体をシーツで包んだ。
拭っても、拭っても、涙は止まらなかった。擦りすぎた眦がひりひりと痛い。見かねたラナも、いつの間にか急かす事をやめて黙ってアークを手伝っていた。
礼は言えなかった。あの瞬間、ダニエーレとコリーナの身体が徐々に冷たく、硬くなっていく現実から、意識を逸らす事など出来なかった。二人はもう、ここにいないのだと――思い知ることしかできなかった。
「あいつが言ってた……父さんを牢から逃がしたのって、あんただろう?」
泣き枯れた声のアークの問いかけに、ダアトは頷く。
「そうだよ。今から、君を父親の所に連れて行く」
言って、ダアトは表情を曇らせた。
「君の父親は……エイジェイは今、酷く体調を崩している。……間に合えばいいが……」
「……『間に合えばいい』だって……? どうゆうことだ」
思わずダアトに詰め寄る。ダアトも困った様に眉を顰めた。
「エイジェイが言うには、近頃症状が悪化の一途をたどっていたらしい。しかし金銭的な理由もあって、薬の量は増やさなかったそうだ。私が思うに、そこに君が兵役に就いたことと力が覚醒したことへの心労も重なって、急激に悪化したんじゃないのかな……」
「そんな、なんで……」
さあっと、顔から血の気が引いてゆく。
父親の症状が少しずつ悪くなっていることも、背が細くなってきている事にも気付いていた。しかし、そこまで悪いだなんて思いもしなかった。訓練から帰ってくるときだって、いつも笑顔で出迎えてくれた。仕事もいつも通りこなしていた。むしろ、訓練帰りのアークが手伝う事に難色さえ示したのだ。「疲れているだろう、早く休みなさい」と――。
それも全て、父さんの強がりだったというの?
目の前が真っ暗になる。
とんでもない。なんという甘ったれなんだ、僕は――。
「父さんは、今どこに?」
今すぐ父さんの側に行きたい。
もう誰も――失いたくない。
気が急いて、思わずダアトのローブの袖を引く。するとたいした力ではなかったはずなのに、ダアトが大きくよろめいた。
「ダアト!」
ラナがすぐさま側により、その背を支えた。反射的にローブから手を放したアークも、ダアトの背に手を添える。その感触に、ぞっとする。
この人、ほとんど骨のようじゃないか――。
「ラナ、アーク……大丈夫、ありがとう」
何事もなかったかのような穏やかな口調で、ダアトは二つの優しい手を辞した。不安げな二人を元気付けるように、にっこりと笑って見せる。
「エイジェイは今、バクゥにいる」
「バクゥ? それって……」
聞いた事がある。あれは確かイラ討伐の任の後、レニとウッツとで昼食を食べていた時のことだ。
――問題のガラク高原はこっちじゃなくて、東側にあるんだ。そしてここが、バルクラムの集落であるバクゥ。
「バルクラム……! フランベルグ王と敵対している民族の集落じゃないか!」
オンディーヌ湖に分断されたヘレ同盟国との国境線の東側、そこに広がるガラク高原を自治区と称する、少数民族バルクラム族の治める土地。先頃、王国騎士団(マルアーク)が敗戦を帰した、戦の最前線だ。
「なんでそんな危険な場所に! 父さんは無事なの? そんなところじゃ、余計に病気が悪化するんじゃ……!」
「大丈夫、安心して。信頼出来る人物に、看病を頼んでいるから」
「バルクラムの地はフラムの敵国のようなものだろ。そんな所に信頼出来る人物なんて、本当にいるのか?」
「事情は放してある。君に……所縁(ゆかり)のある人だ。心配はいらない」
「……僕に? 父さんではなく?」
ダアトの思わぬ発言は、アークを混乱させた。
バルクラム族に知り合いなどいない。そもそも、自分はフラムで生まれたのだと思っていたのだから猶の事だ。
しかしダアトの言う通り、僕に所縁のある者がいるのだとしたら。僕の生れは、もしかして――。
疑問を口にしかけたアークを、ダアトは手を上げて制した。
「私には、君に詳しい事を教える権利はないからね。詳しい事はエイジェイに聞くといい」
言って、ダアトは目をつむり、意識を集中し始めた。あの不思議な発音の言葉を口にすると同時に、肌に刻まれた刺青が、脈打つように点滅を始める。それに呼応するように、紋章陣の発する薄紫の光が輝きを強くした。
ダアトの骨ばった指が素早く動き、空中にアークの読めない文字を描く。それらは生み出される度に紋章陣の円周上へと飛び、三人を囲む円を形作っていった。
眩しさに目を細めていると、不意に服の裾を引かれた。視線を下ろすと、ラナがぼろぼろになったアークの団服の裾を握っていた。
「街をよく見ておいた方がいいよ。……見納めになるかもしれない」
顔を伏せているので、彼女の表情を見る事は出来なかった。けれど、その声はとても寂しそうに聞こえた。
ああ、そうか。
同じなのだ。ラナも、僕も。故郷と呼べる場所に、もう帰る事が許されない。
ラナの故郷、白の庭は、今はもう灰燼と化した。
アークの故郷、王都フラムは、国の敵と見定め彼を排斥した。
「うん……よく、見ておくよ」
例え国が僕を拒んでも、僕の故郷はここなのだ。思い出も、友人も、帰る家も。大切な物は全て、この王都に詰まっているのだから。
しかし無情にも、強さを増した大粒の雨が空から降り注ぐ。雨粒のヴェールは愛おしい風景を曖昧な輪郭へと歪ませ、脳裏に焼き付けておく事さえ許さない。歪むフラムの街並みを見つめていると、息が詰まった。何かが、ぐっと胸に込み上げてくる。
ダアトが最後の文字を書き込む前に、ウッツの家を振り返った。やはり雨にけぶり、その姿は霞んで見えた。
この大雨は、フラムの拒絶の意思なのかもしれない。否、フラムだけでない。レニの拒絶、ウッツの拒絶すらも代弁しているかのようだった。だがしかし、もしそうだとしても。
「このままには、絶対にしないから……少しだけ待っていて」
二人を、スクァールの玩具にしてなるものか――。
ぎゅっと、強く拳を握りしめた。心の底で静かに、しかし燃え盛る焔の様に強く、誓いを立てる。
ダアトの書く文字列が完成に近づくにつれ、紋章陣が更なる光を発した。光の洪水に身体を攫われる。ダアトも、ラナも、フラムの景色も、全てが光に白んで見えなくなった。目を閉じ、故郷にしばしの別れを告げる。
さようなら。
でもいつか、必ず帰るから。
必ず――大切なものを、大切な友を、取り戻しに来るから。
雨に濡れた頬の上を、胸に込み上げたものが静かに流れ伝う。
悔しいから?
悲しいから?
惨めだから?
きっとその全てが詰まっている。アークの中の激しい衝動だ。土砂降りの雨に隠し、荒れ狂う感情をそのまま溢れさせた。
ラナの視線を感じた。次の瞬間、身体の内側からぐいっと引っ張られる様な感覚がした。
「では、行こうか」
ダアトの声がして、そして――三人の姿は、雨のフラムから、消えた。
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