BENNU | ナノ


▼ 030 狂う

「ぐぁっ……!」
 直撃ではなかった。しかし硬化した鋭い爪は、ウッツの脇腹を浅く裂いた。
 床に蹲るウッツの服には、みるみるうちに赤いしみが広がっていった。苦しそうに呻き、恐る恐る見上げてくる。初め、鱗に覆われた人物がアークだと気が付けないようだったが、背格好や赤い髪などのわずかに残した面影に、すぐに彼だと察した。
「お前……アーク、か? なんで……一体、何が起こって……」
 絞り出したようなウッツの声は、普段の落ち着いたものとはまるで変わってしまっていた。恐怖と混乱に蝕まれ、苦しそうに引き攣っていた。
「正気じゃ……ないのか?」
 問いかけに答える事はおろか、振り下ろした手を引く事も出来ず、瞬きすら忘れ立ち竦んでいた。
 僕は、正気なのか?
 分からない。
 だって今、僕は何を考えていた?
 何をした?
 誰を――傷つけた?
「あ……あ、あ……」
 口からは言葉にならない声が漏れるだけで、意味をなす事はなかった。動けない。身体がばらばらになってしまったかのように、四肢の感覚がない。
 その一瞬の沈黙は、レニの悲鳴によって破られた。
「ダン! ダニエーレ!」
 ダニエーレの側により、乱暴に肩を揺すっていた。そのたびに、細い首が力なく揺れた。
 ウッツが弾かれたようにその場を蹴ると、すぐさま弟の側に駆けよった。レニから奪い取る様にして抱きしめ、揺り起こそうとする。
「なあ、おい。なんでだ。ダン。目を開けろ」
 ウッツがダニエーレの身体を揺する度に、真っ赤な血がウッツの服を汚してゆく。これ以上漏れてしまわないように、溢れてしまわないように、必死で傷口を手で押さえた。
「ほら、朝だ。姉ちゃんのご飯食べるだろ? おいってば。遊びに行こう。色鬼しよう?」
 物言わぬ弟に、必死で呼びかける。耳を塞いでしまいたかった。その切ない呟きは、アークのばらばらになった四肢をさらに細かく切り刻む。
 もう一人の姉弟を探し、ウッツの視線が荒れた台所を彷徨う。先に彼女を見つけたレニは、緩く首を振っていた。
「駄目だ……ウッツ、見るな……」
 小さな呟きは、届かなかった。
「コリーナ!」
 ウッツは痛む腹を庇い、ダニエーレを抱きしめたまま必死に床を這った。そばまで行き、その亡骸を弟と同じように揺する。反応がない事を認めたくないかのように、それは何度も、何度も繰り返された。
 ぷつりと、糸が切れた人形に様に突然動きを止めた。直後、ウッツは叫んだ。
「ああ……ああぁ――!」
 喉が擦り切れるほどの声量で、枯れるほどの金切り声で泣いていた。
 アークには、その慟哭が永遠のように感じられた。
 どうしてこうなった。
 なぜ二人は死んだ。
 僕は何をした。
 誰を殺しかけた。
 誰が企んだ。
 誰のせいだ。
 誰の――
「お前か……? アーク、お前がやったのか?」
 狂ったように叫ぶウッツの横で、レニがゆらりと立ちあがった。
「なあ……その手、その服……誰の血だ? なんで、ウッツを攻撃した?」
 いつの間にか折れ、床に転がっていたテーブルの足を拾う。アークが我を失い、暴れている時に折ったものだった。棘状になった折れ口をアークの方に向け、剣の様に構える。
「答えろ! 二人も、お前がやったのか!」
 発せられたレニの質問は、問いかけというには鋭すぎた。その声も、顔も、酷く険しい。
 今この部屋で血に塗れているのは、アークただ一人。鋭い爪痕に荒らされた部屋の中にいる化け物様な者も、アークただ一人。
 それらを鑑みれば、レニの言動は同然の事なのかもしれなかった。けれど――そんなの、
「違う。レニ、僕じゃないっ……」
 辛すぎるよ――
 もう何度となく口にした、誰にも信じて貰えない否定の言葉。からからになった喉の奥から出たか細いそれは、レニの耳まで届かなかった。
「狂ってやがる……この亜人!」
『亜人』――。アークを睨みながら、レニはそう吐き捨てた。もう、アークの名を呼ばなかった。
 煤の残り香が、鼻についた。臭い。レニの瞳が、いつか見たように濁ってゆく。
 ウッツが叫びを止め、振り返った。
「裏切った」
 ぽつりと呟いた言葉には、温度がなかった。その代わり、耳にした途端奈落の底まで引きずり込まれそうなほど、深い憎悪が宿っていた。
「俺は、お前を信じた……信じたのに! 返せよ……俺の家族を返せ!」
 叫びながら、床に散乱していた木片や食器の破片など、手近な物を掴んでは力任せにアークに投げつけた。
 その破片の一つが、アークの耳にあたった。花瓶の破片だった。鋭く尖ったそれが、アークの耳介に傷を付ける。淡く血がにじむが、しかし――
「傷が……治った?」
 一滴の血を流し、すぐに傷口は塞がった。初めて目の当たりにしたアークの再生力に、二人は息を飲む。そしてどちらからともなく、一つの言葉が口からこぼれた。
「……化け物だ」
 今度ばかりは、頭の中にすら否定の言葉は浮かんでこなかった。
 その通りだ。僕は――化け物だ。
「許さねぇ……! よくも……ダンとコリーナを!」
 レニはそう大声で叫ぶと、握っていたテーブルの足を振りかざした。彼の、そしてウッツの『仇』に向かって、それを力一杯降り下ろした。
 頭の中で、がつっという鈍い音がした。その衝撃で膝をつくが、「ああ、殴られたな」と思うだけで、不思議と痛みは感じなかった。
 心も、身体も、全てがばらばら。麻痺してしる。
 もう一度、テーブルの足を振り上げるレニが見える。何かの残骸を投げつけてくるウッツが見える。
 このまま二人に殺されるのだろうかと、ふと思う。それも仕方がない様に思えた。否、それが正しい事の様にも思えてしまった。
 僕は人間ではなかったのだから。友人を殺しかけたのだから。友人の家族を奪う、原因となったのだから――
 目を閉じ、衝撃を待っていた。しかし代わりに誰かの気配を感じ、おやと思う。
「馬鹿! なんで避けないのよ!」
 キンという、聞き慣れない音がした。弦楽器に張られた弦を弾いた様な、柔らかな金属音の様な、なんとも形容しがたい不思議な音色だ。
 どこかで聞いた事のある声に、恐る恐る目を開ける。最初に目に入ったのは、彼女の雪の様な白い髪だった。
「……ラナ?」
 夢の中で会った少女。ダアトという男から託された、眠ったままの少女――それが今、アークを庇う様にして、目の前に立っていた。
 レニに向かって翳した両手は、淡い月白色の光を帯びていた。それが目に見えない盾を形作っているのか、ラナの手の少し前でテーブルの足が止まっている。
 突然の介入者に驚くレニとウッツに向かい、ラナは以前ダアトが使っていたものと同じ、聞き慣れない発音の言葉を呟いた。何かの祝詞(のりと)の様に繊細に綴られる言葉は、ともすれば短い歌の様にも聞こえる。それと共鳴するように、肌の上に朱色の文字のような刺青が浮かび上がった。
 月白色の文字が空中を走り、円を形作って二人をその中心に収める。最後にラナが短い言葉を発すると、二人は意識を失い、床に倒れた。
「大丈夫。眠っているだけだから」
 慌てて二人に駆け寄ろうとしたアークを制し、ラナは静かに言った。
 神秘的な少女だった。肌に浮かび上がった朱色の刺青が再び消えた今、銀色に輝く瞳以外、彼女に一切の色彩がないからという単純な事だけではない。
 エトスエトラ。神の寵愛を受けた、不老の一族――
 その出生故なのか、彼女の持つ特有の何かなのか。所以は分からないが、彼女の空気にアークは圧倒されていた。煤けた服のままの華奢な少女から、目が離せなかった。
「あんた、なんで避けなかったのよ。……死ぬ気?」
 アークに向き直ったラナは、束の間、切なそうに眉を顰める。しかし、次の瞬間には彼女の平手が空を切った。
「――っつ!」
 頬を張る乾いた音が、静まりかえった台所に響いた。左頬がじんとする。ラナは右手を振り下ろしたままアークを見据えていた。その小さな掌には、鱗で切れた無数の小さな切り傷が見えた。
「何、考えてるのよ。あんたが犠牲にならなくちゃいけない理由が、どこにあるっていうの!」
 小さな掌が、震えている。
 どうして、震えているんだろう。
 痛いのだろうか。いや、そういえば、この部屋は酷く寒い気がする。
「煤に惑わされては駄目。もっとちゃんと、何が真実なのか見極めなさい!」
 窓に、いつの間にか雫が垂れていた。雨だ。降り出した冷たい雨が、窓に幾筋もの水の道を作っている。
 ラナが、膝をついたままのアークに手を差し伸べる。傷ついた小さな掌は、とても痛々しく見えた。
「……立って。行くよ」
「行くって……どこへ」
「エイジェイ・ベッセル……あんたの父親の所よ。ダアトが、外で紋章陣を敷いて待ってる」
 国逆の烙印を押され、存在理由を失い、親友を奪われ、幾多の罪をなすりつけられた。そんな僕に、まだ残っているもの。たとえそれが偽りの関係だったとしても、僕がまだ僕であると認識できる、大切な存在。
 気づけば、ラナの小さな手を握り返していた。

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