▼ 028 脱獄
何をどうやったのかは、後に尋ねられたとしても上手く答える事が出来ないだろう。
弾け飛んだ錠前と蝶番が床を跳ね、高い金属音が何度か木霊した。その少し後、鉄格子の扉が大きく傾ぎ、通路側へと倒れる。その扉を飛び越した一つの影が、通路を駆けていった。
――気になるなら、そこから出で僕を追って来なよ。今のお前になら、造作もない事だから。
全く、スクァールの言う通りだった。
熱は力へとその性質を変えた。体の内側から皮膚を突き破らんばかりに漲り、迸るそれは人間には持ち得ない力をもたらしたのだ。
錠の掛けられた鉄格子の扉に向かい、渾身の力を込めて体当たりをした。一度目に扉が歪み、二度目で錠前と蝶番が弾け飛んだ。
ただただ、この牢から出る事に必死だった。
――その手紙の差出人、中央広場で会ったよね。確か――そう、ウッツ、って言ったよね?
そう言って黒く嗤った少年の凶相が、目に焼き付いて離れない。
ウッツ。僕が何者であろうと変わらぬ信頼を示してくれた、大切な友。
「無事でいてくれ……!」
祈る様な言葉をひとりごち、暗い通路をひたすらに駆けた。
すっかり夜の帳の下りた獄舎には、一定の間隔で壁に角灯(ランタン)がかけられていた。明、暗、明、暗。繰り返される光と闇の交差に、目が眩む。光の輪に踏み入れる度に、むき出しの右腕に生えた赤い鱗がてらてらとした光を跳ね返し、その毒々しい光沢は爬虫類を連想させた。
一方、力の漲る体は羽根の様に軽かった。雄馬の様に風を切って走り、跳躍すればしなるばねの様に高く跳び上がるだろう。
いくつかの明暗を通り抜けたところで、扉が見えて来た。その鉄製の重厚な扉は、獄舎と看守の詰所とを分ける内扉だ。ここを抜けなければ、獄舎の外に出る事は出来ない。
だがふと違和感を覚えて、扉の前で足を止めた。
本来ならば、この扉はしっかりと閉まっているはずだ。しかし今、この扉は開いている。ただ錠前が外れている訳ではない。壊されているようだ。
「壊れ方が、変だ……」
スクァールがここの扉を壊して獄舎に侵入したのであれば、扉は獄舎の通路側へ傾いているはずだ。しかし、扉は看守の詰所側へ傾いでいる。歪んでもなお扉であろうとする鉄の板は、蝶番を支えにキイキイと耳障りな音を立てて揺れていた。
不審に思いつつも、ここから出る為に歪んだ扉を蹴破った。
途端、噎せ返る様な血の臭いにくらりとした。
詰所を明るく照らす松明の明りに目が慣れると、次に目に入ったのは夥しい血溜まりだった。その中に、数人の騎士が倒れている。近づいて確認しなくても、嫌でもわかってしまう。胸や背を引き裂く、鉤爪にやられたかの様な四本筋の傷痕――。あまりに深いその傷を直視できなくて、目を逸らした。
しかしその先に倒れていた一人の人物に、目が釘付けになった。
「キックの……お兄さん……」
先ほどまで、自分を痛めつけていた凶暴な男。それが今、ぴくりともしない。オリーブ・ドラブの団服は、流れ出る血に染まりどす黒く変色していた。
胃のあたりが気持ち悪い。もう吐きだせるものはないのに、それでも嘔吐感がぬぐい去れない。
思わず口に添えた手が視界に入る。その瞬間、ようやく嵌められたのだと悟った。
「これも、僕がやったことになるのか……?」
まるで獄舎側から破られたかのように歪む扉。赤い鱗の生えた指の先にある、黒く変色した硬い爪。石壁を引っ掻いてみれば、倒れている騎士達の体に刻まれた傷と同様の、細長い四本筋の痕が付いた。
凄惨なこの部屋の臭気に酔い、上手く息が吸えない。引き攣る胸を押さえながら、アークは縺れる足を引きずって外へと続く扉へと辿り着いた。
苦しかった。息が吸えないからではない。心が捩れるからだ。
「あいつは……一体何人の人間を手にかけたんだ」
自分を憎むがために、絶望を与える為に、どれだけの犠牲を払って来たのだろう。想像するだけで恐ろしい。なぜ。どうして、僕をそんなにも恨む――?
詰所を出ようと、外へと続く扉を開く。まるで別世界の様な、澄んだ夜風が頬をなぜた。
その風に乗って聞こえて来た複数の足音に、思わず身を強張らせた。咄嗟に隠れる場所を探すが、そこはまだ獄舎の敷地内。周囲を塀に囲まれた内側であり、何もない狭い中庭があるだけだ。
塀の外へと続く扉に鍵が差し込まれた音がする。その後すぐに、鍵を捻り、解錠された音がした。
隠れる場所もなく、かといって後戻りする訳にもいかず、アークは狼狽した。そうこうしているうちに、ランプで暗い足元を照らしながら、三人の騎士が歩いて来た。
運が悪い事に、ちょうど夜間を担当する看守との交代の時間だったのだろう。
詰所の現状を知らない新たな看守たちの話す声が、徐々に近くなる。
捕まる訳にはいかない。後戻りなんて出来ない。
それならば。
「……誰だ?」
ようやくアークの存在に気付いた騎士が、不審な人影に向かってランプを掲げる。その刹那、アークは大きく前に踏み出した。
「な……何だ、お前は!」
あと二歩。
「止まれ!」
止まるものか。あと一歩。――今だ!
出来ると、確信があった。今のこの身体なら、スクァールの言う通り、造作もない事なのだ。
騎士達の手前で強く地面を蹴ると、アークは高く跳躍した。剣を抜こうとする騎士達を飛び越え、一瞬のうちに彼らの背後に着地する。そのまま振り返らず、獄舎の塀の向こうへと続く扉に向かって走り出した。
「鱗……! 例の亜人だ、捕えろ!」
背後で怒号が飛び、けたたましい警笛が鳴り響く。それを背中で聞きながら、アークは渾身の力を込め、扉へと体当たりした。
牢の扉の様に、激突の衝撃に耐えられなかった蝶番と錠前が弾け飛ぶ。
「追え! 化け物を逃がすな!」
徐々に騒がしくなる騎士団の敷地内。警笛が警笛を呼び、にわかに殺気立ち始めた騎士達が松明の炎を強くする。
あちこちで灯り始める明りを避けながら、暗い道を選んで走った。見つかれば、何十という騎士に包囲され、牢に逆戻りさせられてしまう。いや、それならまだいい。或いはその場ですぐさま切り捨てられるかもしれない。
そうなれば、ウッツは……。
捕まる訳にはいかない。今は、なんとしてもスクァールを追わなければならないのだから――。
「ウッツは……アークを疑おうとは思わなかったのか?」
窓際に置かれたスツールに腰掛け、長い事俯いていたレニが口を開いたのは、夜も更けきり日付が変わろうという頃だった。
「何を?」
短い返事が返ってくると、再び口ごもる。
何度か帰宅を促されたが、レニはウッツの部屋から出ようとはしなかった。何かに怯える様に、そばから離れようとしない。だからといって、テヴェレ通りで何があったのかを話すこともなかった。
ウッツは、レニが自分で言葉を発するのを待っていた。それはきつく問い詰められるよりも、レニを追い詰めた。
ウッツの怒りが、じりじりと伝わってくる。
追い出しはしない。問い詰める事もしない。
お前の言葉で話し、説明しろ。
そう、言われている様な気がした。
「何をって、あいつが……テヴェレの裏通りで、」
言葉を切る。
その先に起こった出来事が、どうしても言えない。それを言ってしまえば、今までの全てが嘘になってしまう様な気がしたのだ。
アークの姿も、アークとの関係も、アークとの思い出も。
それらがすべて、この胸の奥に燻る憎しみと恐怖に、掻き消されてしまう。そうして露呈するのは、己の最も汚く、醜い心でしかない。
「あいつ、亜人なんだぜ……?」
肯定して欲しいのか、過ちだと言って正して欲しいのかは、自分でもよく分からない。それでも、時間をかけ、言葉は口からこぼれ出た。そのやっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどに震えていた。
「なあ、レニ」
ウッツの、まっすぐな視線を感じた。たまらずに俯く。
「俺の目を見て、ちゃんと答えるんだ」
詰め寄ってくるウッツ。強く肩を掴まれ、俯く事を許さない。
顔を上げれば、穏やかではない双眸がじっと見据えていた。
「亜人だと、アークの何が変わるんだ? 教えてくれよ、レニ。俺にはどうやったって分からないんだ」
「変わるだろ……だって、亜人なんだ!」
思わず声を荒げる。
ずっとずっと、憎しみ続けて来た存在。
俺から親父を奪った存在。
「野蛮で、低能で、俗悪で……人間の敵だ! 親父の仇――俺の敵!」
「餓鬼みたいなこと言うなよ」
唸るように呟くウッツが、レニの胸倉を掴む。
額に青筋を立て、ウッツは言った。
「アークが亜人だったとしても……あいつと一緒にいて、今みたいな事を一度でも感じたか? お前の言う様に野蛮だったか。低能で、俗悪な奴だったか!」
「それは、」
「俺はそうは思わないね。あいつは、いい奴だよ。馬鹿正直で、真っ直ぐで……どうして、『亜人』というだけでそれが忘れられるんだ? 俺はアークがブランカの生き残りを殺そうとしたなんて信じない。あいつが認めないなら、他の誰が何をほざこうが信じない!」
ウッツの言葉は耳を突き刺し、胸を抉る。
アークの性格なんてよく知っている。幼い頃からずっと一緒にいる、親友なのだから。
しかし、『亜人』という言葉を聞くだけで、どうしても腹の底がざわつくのだ。
まさに今も、腹の底から怒りが込み上げてくる。
憎イナラバ、殺シテシマエ――
頭の中で、誰かが囁いた。その誰かの声が、思考しようとする頭を真っ黒に塗りつぶしてゆく。目の前にいるウッツの顔さえ、輪郭がおぼろげになってゆく。
オ前ノ敵。本当ニ憎ムベキ相手ヲ、教エテアゲル――
前にも一度、似た様な感覚に陥った気がする。酷く甘ったるい、快楽を誘う蜜の匂いに身を委ねた。
でも、俺は知っている。まやかしの匂いに隠された、危険な毒の存在。
それは吐き気を催す、焦げた腐敗臭――
視界が黒い靄で霞んでいく。
ああ。
臭いな。
悲鳴だ。
嘆き、怒り、憎悪する者達の叫びだ。
それは幾重にも重複し、混ざり合う。しかしその混沌とした叫びの中、ただ一つだけ確かに聞こえる声があった。
コッチダ。早ク追ッテ来イ――
それはいつか聞いたものと同じ声。テヴェレの裏通りへと導いた、あの声と同じものだった。
早クシナイト、手遅レニナッチャウヨ――?
「煩い! 黙れよ!」
嘲るような少年の笑い声に、たまらず悪態をついた。
中央広場での導く様な声は、スクァールのものだった。
イラと遭遇したのも、煤の黒霧に消えていったレニに追い付く事が出来たのも、全てがスクァールの掌の上で踊らされていた事にすぎなかったということだ。
そして今もまた、彼の思い描く物語の中なのだろう。声の軌跡を辿る道は、ウッツの家への道筋だった。
追手の騎士は、上手く撒いたようだった。けたたましかった警笛は遠くなり、微かにしか聞こえない。深夜の街並みの中、背後に見える騎士団の敷地は、灯された幾多もの松明の明りで白んで見えた。
歩き慣れた路地裏を、疾風の様に走り抜けた。どの家の窓も閉まり、漏れ出る明りもない。月も星もない曇天の夜空は、深い闇をフラムに落としている。
それでも、アークには辺りが見えていた。決してはっきりとではないが、薄暗い夜明けの程度の明度はある。この視力も、騎士を撒く事が出来た俊足も、『化け物』の力の片鱗だった。
鈍間ナアーク、愚カナアーク、早クココマデ追ッテオイデ――
「煩い!」
悲鳴と嘲笑を肩で切りながら、足に更なる力を込め、ウッツの家へとひた走った。
そうして辿りついたウッツの家は、外から見れば何事もない、夜の町の一角にある普通の家に見えた。
ウルフ鍛冶店の店先の扉は、当然のことながら固く閉じられていた。
「ウッツ! ウッツいるんだろ、開けてくれ!」
扉を叩きながら、大きな声で呼びかけた。しかし、返事はない。それはアークの不安を掻き立てた。
「くそ!」
焦燥感に駆られて扉を殴りつけると、みしりと嫌な音を立てた。はめ込まれたガラス部分には亀裂が走る。
それには目もくれず、今度は勝手口の方に走った。そちらの方が住居に近い。呼びかけが届きやすいに違いない。
勝手口に近づくと、扉は薄く開いていた。その隙間から、うっすらと明りが漏れ出ている。
扉に手をかける直前、ここに来るまでずっとまとわりついていた声がまた聞こえた。
「もう、遅かったじゃないか。待ちくたびれちゃった」
それは薄く開いた扉の中から聞こえた。扉を壊さんばかりの勢いで開けると、以前来た時はよく片付いていた綺麗な台所は、だいぶ様変わりしていた。
何か激しい争いがあったかのように、テーブルや椅子は倒れ、カーテンは破れていた。壁や食器棚には、詰所で見たのと同様の四本筋の鋭い爪痕が残されている。割れた食器や花瓶の破片が床に散らばっている。活けてあったのであろうガーベラは、無残にも花弁を散らしていた。
その中に、スクァールは立っていた。
ランプの灯された明るい室内に影を落とす黒い煤を纏いながら、アークを待っていた。
「何をもたもたしてたのさ。ほら、あんたの大切なお友達も待ちくたびれちゃったみたいだよ」
にやつきながら、床に倒れている人物を足蹴にする。
意識を失ったウッツが、蹴られた拍子に仰向けになった。その横には、うつ伏せでレニが倒れている。
「ウッツ! レニ!」
慌てて駆け寄り、スクァールに構わずウッツを助け起こした。
二人とも青白い顔をしているが、特に目立った外傷は見当たらなかった。気を失っているだけのようだったが、それがむしろ不穏な空気を増長させているように感じられた。
「二人に、何をした?」
「何も。ただ眠って貰っただけだよ」
少年らしい細い肩をすくめながら、スクァールは言う。
「ああ……僕がウッツを殺しに来るとでも思ったんだ」
意味深な笑みを浮かべたスクァールが、ゆっくりと歩き出す。その動きを目で追いながら、アークはウッツの肩を支えていた。掌に汗がにじんでくる。
「レニがここにいるのは予定外だったけど、ちょうど良かった。お前にとって、この二人はかけがえのない存在でしょ? 長い間一緒にいて、楽しいことも、辛いことも経験してきた、大切な友人って訳だ」
「何が言いたい……」
「『死』という形ではなくそれが奪われたら、あんたはどんな顔するかな?」
意味を測りかね眉間に皺を寄せていると、スクァールは「分からない?」とでも言いたげにまた肩をすくめた。
「『死』は残された人に大きな悲しみを残すけれど、所詮それは一時的なものでしかない。残酷なことに、人は忘れる生き物だ。悲しみの残骸が心の隅に残ったとしても、その大半は風化してしまう」
よくよく見れば、スクァールの両手はアークに生えているものと同じものに覆われていた。それは、今日この夜の様な漆黒だった。色こそ違えど、その毒々しい光沢をもったそれは、紛れもなく鱗であった。
スクァールが笑う。その歪んだ頬に、一筋の血の痕が付いていることに気が付いた。
「だから、ねえ、アーク」
彼の手の先からも、赤い雫が垂れている。黒い鱗でよく見えないだけで、その実彼の手は真っ赤に染まっているのかもしれなかった。不健康に白いシャツの袖口についた赤が、それを教えてくれている。
あれは誰の血なのだろう。
詰所にいた騎士達のものであってほしいと、心から願ってしまっていた。もし、そうじゃなかったとしたら?
たどり着いた考えに、背筋が戦慄した。
「この二人、僕にちょうだい」
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