BENNU | ナノ


▼ 001 炎上

 聖者ハヴァの第二期創世記より二九八年後。新暦二九八年カピの月、十三日。ヘレ同盟国グローネンダール領第四地区警備隊基地ウガン砦――
 その屋上で煙草の煙をくゆらせながら見上げる夜空は低く、暗い雪雲が垂れ込めている。針のように連なる山嶺、『ゼスタの針壁』は絶えず氷の息吹を吹き降ろし、生き物という生き物を容赦なく凍てつかせる。木々は枯れ、岩の陰で懸命に生きる地衣植物がしぶとく、そしてひそやかに、長すぎる冬の終わりを告げる春の息吹を待ちわびていた。
 ヘレ同盟国は深い雪に閉ざされた土地であり、グローネンダール領、それも第四地区は同盟国の最北端。最も寒い地区だ。風の表情にかすかな春を感じることはできても、その雪が溶けきることはない。毎日が凍えるほどの銀世界。それでも短い春の訪れは、地衣植物ならずともこの地区に住む全ての者にとって待ち遠しいものだった。
 しかし今はまだ、春には遠い。頬に感じるゼスタの吐息は、突き刺さるように冷たい。そして、いくらか湿り気を孕んでいた。
 これは、また吹雪になる。
 すでに前日の大雪で足元に積もった雪の絨毯を見ながら、ブロウは小さく舌打ちをした。
 吹きすさぶ風が、どんどん強くなる。肺いっぱいに吸い込んだ煙を吐き出せば、宙に形を作る暇もなくかき消されていく。
 肌を突き刺す凍てついた風に体温を奪われないよう、手を擦り合わせながら小刻みに足踏みをする。
 畜生め、どうして俺はこんな寒い夜に、こんな所で足踏みせにゃならんのだ。
 自身の行動に腹を立てながら、がちがちと鳴り始めた奥歯を食いしばった。
 ずきりと痛む額を押さえ、無意識的にその額に横一文字に走る傷跡を冷えた指先でなぞる。傷を治すために盛り上がった肉の、柔らかい感触がした。
 ここ。ここが疼くときはろくな事がありゃしない。
 ブロウの感は、下手な占い師よりも正確だった。そして悪い予感、不吉な予感がしたとき、額の傷は決まってずきずきと疼きだす。頭の中に痛いほどに響き渡る警鐘にうんざりとし、溜息と共に紫煙を吐き出した。
 ヘレ同盟国グローネンダール領第四地区警備隊隊長。そんな仰々しい役職についてさえいなければ、ブロウは今頃暖かな暖炉のある部屋の中にいられただろう。もしくは、上手くすれば医務室のベッドにもぐりこむこともできたかもしれない。
 しかし、隊長としての面子や彼なりの矜持も相俟って、部下の目に落ち着きのない姿、頭痛に歪む苦悶の表情を晒すことはしなかった。部下の前では、隊長は常に泰然と構えていなければ。ブロウは今の自分の姿を部下の目から遠ざけるため、「一服してくる」と言い訳を残し部屋を後にした。
 最も人気のない場所はどこか。悩んだ結果たどり着いたのが、針の北風が吹き荒れる砦の屋上だったのだ。
 額をさすりながら、これがいったい何の警鐘なのか考えた。
 『イラ』が出たのか。厄介な化け物どもだ。やつらのせいで大きな被害を受けた同盟国内の集落は、すでに十を超えている。
 目下に広がる夜の雪原に目を凝らす。雲間の月明かりを受けて淡い煌きを跳ね返す雪原は、闇の中でも浮かび上がって見えた。白以外の色を持たない世界であるために、イラの襲来があればすぐに分かる。奴らは現われる時、必ず煤のような黒い霧を纏うのだ。幸いな事に、黒い霧は今どこにも見当たらない。しみひとつないまっさらな銀世界が、悠然と広がっている。
 ならば、この傷の痛みの由来は何なのだ。南の敵対国、フランベルグ王国が、ご自慢の蒼き草原の騎士を駆り攻めてくるのか。はたまたヘレとフランベルグの中間にある湖、オンディーヌ湖に浮かぶ宗教都市ジェノが、とうとう中立の立場を破棄してフランベルグ側に付いたのか。
 悪い想像ならいくらでも浮かんでくる。しかし、そのどれもがぴんとこなかった。そんな理由は説得力に乏しい。傷跡はおろか、縫い合わせた左まぶたの奥、目があったはずの場所にある空洞までもが痺れるように疼きだす。最終警告だ。そう言うように、鈍痛はじわじわと増していった。
 いったい、何だってんだ!
 増してゆく鈍痛のせいで気分が悪い。かすかに喉の奥にこみ上げる饐えた臭いを、煙とともに飲み込んだ。
「隊長、まだ外にいるおつもりですか。寒いでしょうに」
 あきれたような言葉が、背後から掛けられる。砦内から屋上に続く階段からひょっこりと顔を出したのは、ブロウの側近、ロイだった。
 ブロウに歩み寄っていく少年は、人間ではなかった。狼とよく似た長い吻、大きく裂けた口、そこからは鋭い牙がのぞく。ごわごわして硬そうな灰色の体毛に全身を覆われ、頭の上にはぴんと立った三角の耳――国民の大半が亜人であるヘレ同盟国でもっとも数の多い、ジャハダ族の少年だった。
 凍えて赤く色づいたブロウの鼻先を見て、ロイは長い鼻の先にしわを寄せた。
「空読(そらよみ)によれば今夜は特に冷え込むそうです。あなたには俺達みたいな毛皮はないんだ、凍傷になりたいんですか」
 愉快だった。年長者の上官相手にこれだけ生意気な口が利けるとは。
「もっと優しい言葉は出てこないもんかね、ロイ」
「生憎と、俺は昔からこうゆうしゃべり方なので」
 苦虫を噛み潰したように顔をしかめるロイに、ブロウは喉の奥でくつくつと笑った。
 ふつうの上官なら、怒鳴りつけているところだろう。しかしブロウはこれでいいと思った。ロイはまだ子供、そして生意気はその子供の特権なのだ。
 こほんと咳払いをし、ロイは手に持っていた熱い湯気を昇らせるマグをブロウに差し出した。乳白色の湯がなみなみと注がれ、薬草を煎じたときに嗅ぐ独特のにおいがする。
「薬湯です。額の傷が痛むのでしょう、飲むと少し落ち着くはずです」
 ブロウは、当たり前のように薬湯を差し出したロイに驚いた。ロイはもちろん砦内の誰にも、傷が疼くとは言っていない。
 ぽかんとしたままのブロウを見て、ロイはふんと鼻を鳴らした。
「何年、隊長の側にいると思ってるんですか。傷を指でなぞる癖、出てましたよ」
 ロイはブロウを真似て、にやりとしながら額を指で掻いて見せた。
 この小さな側近にはお見通しだったか。そう苦笑しながらも、ロイからマグを受け取る。一口飲めば薬湯独特の苦味が口に広がり、湯の熱さが全身にしみた。体の芯から温まる。
 しかし熱いマグを持っているというのに、未だ指先の感覚は鈍ったままだった。それで自分がどれだけ愚かな事をしていたのかが分かる。これ以上寒空の下にいたら、ロイの言うとおり凍傷になってしまうに違いない。
 そう考えるブロウの鼻先に、いよいよ雪が舞い落ちてきた。
 どうやらうちの空読は優秀過ぎる。冷え込むなんてくだらない予報は、いっそすがすがしいくらい外れて欲しいものだ。
 ブロウとロイは、忌々しい白い悪魔を降らせる暗い雪雲を見上げ、二人そろって大きな溜息をついた。
「隊長、あれはいったい……?」
 空を見上げたロイが、北の異変に気がついた。北の空をいびつに切るゼスタの針壁の稜線が、朱色に染まっている。その朱色は徐々に存在を顕著にし、針壁の上に浮かぶ雪雲にもその色を侵食させてゆく。もうもうと立ち上る黒煙がくすんだ雪雲とつながり、一本の太い柱で空と山との間を橋渡ししているようだった。
 その光景に、ブロウは思わず咥えていた煙草をぽろりと落とした。煙草に灯った小さな火が赤く線を引き、足元に落ちる。雪の上に転がり、ジュッとかすかな断末魔を上げて火は消えた。
「針の山嶺――あっちはゼスタの針壁じゃないか!」
「嘘だ、針壁の向こうは……聖域(エルダ)が、『白の庭』が燃えてる――」
 ロイは柵から身を乗り出し、北の空を仰いだ。黄昏を映しこんでいるかのように、ロイの深い緑の瞳を赤く焦がす。
 困惑を隠せないロイとは反対に、ブロウの頭の中は冷えていった。
 これだったのか。傷が疼いた理由(わけ)は――
 その刹那、ブロウの左の眼窩に火花が散った。左目があったはずの空洞に火が灯り、すぐに火花から焔へと成長する。その熱さと痛みに、思わず膝をつく。
「隊長! どうなさったんです」
 蹲ったブロウに、ロイが駆け寄り助け起こした。唸りながら立ち上がったブロウに、また新たな痛みが襲う。乱暴に扱われ、強い力で鷲掴みにされ、爪が食い込むような鋭い痛み。そして、その掴まれた物がぐしゃりと形を失う感覚。
 潰されたか――
 辛うじて悲鳴を飲み込み痛む左目を抑えながら、心の中で呟く。痛みで霞む視界の彼方、北の空は不吉な朱を抱いて煌々とし、その光景は左目の空虚感をより誇張させた。
 暫くの間ブロウは脱力して痛みが引くのを待っていたが、その間も山と空をつなぐ黒煙の柱はもうもうと立ち上がり衰えを見せない。その立ち上る姿は、貪欲ささえ感じるほどだ。
 懐からまた一本新しい煙草を力なく取り出し、燐寸(マッチ)で火をつける。この何十年も吸ってきたヤニ臭い煙が肺を満たす充足感が、ブロウの心を静めていった。
「さて――面倒な事になりそうだ」

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