▼ 024 追憶
「ルルカ諸島? そんな。定期船はフランベルグ王国にしかないですよ」
「そんなこたぁ分かってる」
「国境が越えられるわけないじゃないか! 今は、戦争中なんですよ」
「うるせぇな、分かってるって言ってるだろうが! それ以上ぶつくさ文句言うなら雪ん中放り出すぞ」
ウガン砦を出て数日。突如機嫌を損ねた空から舞い落ちる大粒の雪を避けて、運よく見つけた洞窟へと避難したときの事だ。
南へ行くという以外行き先を告げていなかったロイに、いい機会だと最終的な目的地を告げたのだ。
フランベルグ王国の南、碧い珊瑚礁の美しいイマール海に浮かぶ島国、ルルカ諸島。その優美な自然とは裏腹に、海によって隔たれているせいで統率を執る事が難しく、各島々に住む氏族の間で権力闘争が絶えない国だ。
ブロウは、当面の間そこで傭兵をするつもりだった。同盟国に腰を据える以前にも、何度か訪れた事のある国だ。勝手は良く知っている。
問題は、ルルカ諸島に行くにはフランベルグ王国からの定期船に乗るしかないということだった。
「じゃあ、どうやって行くつもりなんです?」
いよいよ獣独特の唸り声を上げて本格的に怒り始めたロイに、ブロウはもうたくさんだと煙草の煙を吐きかけた。ヤニ臭い煙を吸い込んだロイが咳込み、涙目でブロウを怒鳴りつける。
「それやめて下さいって言ってるでしょう!」
「びーびーうるせぇな糞餓鬼が。喚く前に考えろ、俺が何の手段もなしに国境越えをしようとでも思ってんのか?」
ようやく抵抗することを諦めたブロウの告白に、ロイは怪訝そうに長い鼻先に皺を寄せた。
「何か、策でも持ってるんですか?」
「なかったら国境を越えるだなんて言い出さねぇよ」
「じゃあ……どうやって?」
ロイは腕を組んで頭を捻るが、ブロウの考える『策』とやらは一向に思い付かないようだ。少しだけ思案するように視線を落とした後、唇の端をつり上げるだけの不敵な笑みを浮かべながら、ブロウは言った。
「文字通り、ここからまっすぐ南下するのさ」
いまいち得心がいかないといった様子のロイの前に、ブロウは荷物から地図を取り出して広げて見せた。
「いいか。ここが俺達の現在地だ」
そう言いながら、ブロウは『ウガン砦』と書かれた文字の少し南を指で示した。その指をまっすぐ南に滑らせる。途中、『餓狼雪原』『ラルガラ雪山』『ベルナーゼ教会』『ネイプルス雪山』『ガラク高原』と表記された文字を通り、ようやくフランベルグ王国に到達する。そしてそのまま南へと指を進め、ブロウの指は『アバーデアン』と記された町で止まった。
「王国最南端、港町アバーデアン。ルルカ諸島に行くにはここから出ている定期船に乗るしかない」
その言葉のあと、洞窟内は束の間静まり返った。薪がはぜた。焚き火にかけた小さな鍋の中で、白湯がくつくつと煮えている。
「まさか……それ、冗談ですよね?」
確認ではなく、願望の様な響きを含んだロイの質問にも、ブロウはただにやりとして見せるだけだ。焚き火に照らされ、洞窟内の岩肌に長く伸びる影を歪ませながら、かっとなったロイは立ち上がった。
「そんな行程、有り得ないでしょう。道らしい道なんてない。しかも、雪山を二つ越えるだって? そんなの、」
「馬鹿馬鹿しい、ってか? ロイ、俺達の身分を忘れたか? 『道らしい道』なんて通れないぜ」
ロイははっとしたように口を噤む。ブロウはさらに続けた。
「おそらく、俺達には追手がかかる。いわゆる脱走兵だからな。グローネンダール領のガルタ(領主)は厳しい。いくらウガン砦が僻地だからって、隊長格の脱走を捨て置く様な事はしないだろう。各地区間、領地間の関所越えは難しくなる」
「そんな……」
「馬鹿正直に街道でも通ってみろ。三日と経たず牢にぶち込まれるだろうな」
ロイの反応を楽しむようにくつくつ笑う。ブロウを窺い見る彼の耳は、怯える様に伏せてしまっている。
「言ったはずだぜ、ロイ。俺に付いて来てもろくなことがないってな」
にやりとするブロウに、ロイはついに言葉を失ってしまった。
無理もない。ラルガラ雪山もネイプルス雪山も勾配険しく、切り立つ巌と裂けた谷底ばかりの氷の迷宮だ。迷い込んだら二度と出て来られないという迷信もある。特にネイプルス雪山にいたっては、王国側の麓に住むバルクラム族さえも足を踏み入れられない未開の土地だ。ロイにしてみたら、正気の沙汰ではないだろう。
しかし、ブロウにはその行程を選択するに足る自信があった。
――円だ。この地に円を描く楔を打つ。
まさか、己にとって過去の遺物と呼べる忌まわしい物に救われるとは。
ラルガラ雪山さえ越えれば、あとは何とかなる。ラルガラ雪山に足を踏み入れたのはもう遠い昔だが、道は覚えている。記憶力は衰えていないはずだ。
茫然としたロイが、再びゆっくりと腰を下ろした。そのロイに、鍋で煮えている白湯をマグカップに掬って手渡す。緩慢な動きでマグを受け取ったロイの膝に、ブロウはカチカチになったパンと干し肉の入った袋を投げて寄こした。
自身は鍋に直接パンを突っ込み、少しだけふやかしてから口に運んだ。マグは一つしかない。旅支度は一人分しかしてこなかった。
一方、ロイは受け取った食料の袋を握り締めたまま、何かを考え込むように黙り込んだ。しばらく、洞窟の中はブロウがパンを咀嚼する音と、薪のはぜる音だけだった。洞窟の外は、強さを増してきた雪が強風に煽られ轟々と渦巻いている。今夜はここが寝床となるのだろう。先にさっさと食事を終えたブロウは、荷物から毛布を取り出し寝る支度を整え始めた。
弱くなり始めた火に、道すがら拾っておいた枯れ枝を投げ入れたところで、ロイがようやく口を開いた。
「じゃあ、目的地はルルカ諸島。雪山を二つ越え、バルクラムの領地を突っ切り、王国最南端の港町アバーデアンを目指す……遠い、な」
ぽつりと呟いたロイの言葉に、毛布に潜ろうとしていたブロウは顔を上げた。先ほどの勢いを無くしたロイの目は、不安そうに伏せられている。冷めた白湯の入ったマグを握りしめながら、ロイは重い口調で話し始めた。
「あの時、付いて行きたい一心で飛び出して来たけど、まさかそんな遠くまで行くつもりだったなんて。……隊長。俺、邪魔にならないでしょうか? 無事雪山を抜けたとしたって、フランベルグ国内を亜人連れで歩くなんて……目立ちすぎる」
灰色の毛に覆われた身体、ぴんと尖った三角の耳、長い口吻に、大きく裂けた口から覗く鋭い牙――。狼の様な風貌をしたジャハダ族のロイ。その姿は同盟国内ではありふれた姿であっても、フランベルグ内では話しは変わる。亜人というだけで、フランベルグでは敵とみなされるのだ。
ブロウは面倒くさそうに大きな溜息を一つつくと、毛布に潜り込み寝転がってしまった。「そりゃあ、目立つだろうなぁ。お前のその姿を見た奴が騎士に通報しようもんなら、追手もかかる。今の時世、捕まれば打ち首もありうる」
「打ち首……」
「そう気を揉むな。何とかなるさ」
さしたる問題ではないという風にからりと笑うブロウに、ロイは呆気とする。
慰籍も、督励も、必要ない。今はただ事の重大さにたじろいでいるのかもしれないが、ロイならば受け止める強さを持っている。一人で覚悟を決めるだろう。
当初は、違う行程を予定していた。
古い縁を頼り、とあるキャラバンに紛れ込ませてもらうつもりだった。餓狼雪原を越えたあたりで合流し、聖都ジェノを経由、そのままフランベルグに至る予定だった。
依頼料は決して安くはない、足元を見るような額だが、それが最も無難な行程だったのだ。そのために必要な一人分の旅費しか、手元にはない。
しかしそれ以前の問題として、ブロウはバルクラム族の土地に足を踏み入れたくなかった。あの地の風は、最も苦い記憶を呼び覚ます。
乾いた草原の匂いと、ネイプルス雪山の冷たい溜息と、西の絶壁を駆けあがる潮騒と。壮大な自然に抱かれながらも、あの地に足を踏み入れる度に感じる、鼻腔の奥に染みついて離れない、噎せ返るような血の臭い――。
「少したったら起こせよ。見張りを交代する」
過去の走馬灯から逃れる様に、毛布を頭まで深く被る。そしてこれ以上話すことはないと言う様に、背を向けて一つしかない目を閉じた。
ロイ。付いて来るなんて思いもしなかった。
安全な行程の変更を余儀なくされたものの、捨てたはずの心地よいぬるま湯につかった様な生活が、また少し続く。
目を閉じて過去に背を向けた今、目の前にはただ真っ暗な闇があった。ぱちぱちと焚き火がはぜる。吹雪の渦巻く音がする。
その騒がしい外界とは対照的に、そのブロウを包む闇は静謐に満ちていた。深く、深く、その闇に身を委ね、落ちてゆく。
そして何も分からなくなった。
「離せ、小僧」
廃墟の中、足を掴む小さな手は頑なだった。
悠久の時をこの地で囚われ、流離ってきた。戦いしか出来ない根なし草。その食いぶちを稼ぐ手段は、いつだって凄惨な争い事の中にある。
きな臭い話を追って訪れた国境線に跨る町は、既に戦火に飲まれ灰燼と化していた。その有様を歩きながら見回っていたとき、彼を見つけたのだ。――否。見つけられのかもしれない。
憔悴した身体を地面に投げ出して倒れていた。既に虫の息。長くはないだろう。ブロウにとったら、ただそれだけの印象しか持たなかった。
通り過ぎようとした時、その手が動き、足を掴んだ。
思いのほか強い力だった。足を振り、小さな手を払い落すが、またすぐに掴んでくる。何度振り払っても、その手は頑なに諦めようとはしなかった。
力を振り絞り、ジャハダ族の少年は顔を上げる。その目に、ブロウは一瞬怯んだ。
『生きる』と、強い意志の光があった。衰弱し、今にも命の火が潰えそうな子供の放つものだとは思えないほど、生を渇望し、ぎらぎらとした強く美しいものが宿っていた。
その姿は、あまりにも己と正反対だった。
生きながらに、死んでいる様な日々をおくってきた。生き続ける事が、己に科せられたある種の罰であったからだ。
少年の手を振り払う事をやめ、側にしゃがむ。そして苦しそうに浅く呼吸する少年に、こう問いかけた。
「……生きたいか?」
建物は崩壊し、火の手が上がる。死神の手に捕まった者が道に転がり、瓦礫の間に挟まり、曇天の下に骨と化す。その限りなく死が満ちる廃墟の中、少年の瞳には更なる生の炎が宿った。そのコントラストは目が覚める様に鮮やかで、そして気高く。心打つ程に凛然たるものだった。
今、一人の少年が死神の手を逃れた。
「――隊長、起きてください」
揺り起こされ、はっとして目覚めた。
深い眠りに落ちていたようだ。ロイがきちんと火の番をしていたおかげで焚き火は今も煌々と燃えているが、外の吹雪は落ちついている。今はただ、小さな雪の華がふわりと闇夜に舞っている。
「そろそろ、交代してください」
大きな口を開けて欠伸をするロイに毛布を手渡しながら、ブロウは呻くような返事を返した。夢の中の姿から成長したロイが、自分の足を掴んだ時より逞しくなった手で毛布を受け取る。
途端、胃が捩れる様な吐き気に襲われた。夢の中の小さなロイの手を思い出した瞬間、記憶の奥底に押し込めて久しい、ある場面がだぶったのだ。
薄汚れて、血に塗れた服を掴んできた、小さな赤子の手。何も知らない無垢な顔。笑っていた。
――私が、責任を持って育てよう。でも……お前はそれでいいのか。なあ、ブロウ……
憐憫を帯びた、薄水色の優しい目。数少ない友人の言葉が、今でも己に問いかけてくる。その答えは、十五年たった今でも、確信を持って答える事が出来そうにない。
「……隊長?」
虚ろな目をしていたのか、ロイに怪訝そうな顔をされた。しまったと、両の頬を張って無理やり目を覚ます。
そうして落ち着きを取り戻してから、砦を出てから言いそびれていた事を口にした。
「ロイ、俺はもう隊長じゃない。呼び捨てで十分だ」
ブロウの提案に、ロイは嬉しそうに頬を緩ませた。
「懐かしいな。軍属に就く前に戻るんですね」
傷ついた幼いロイと、小さな町の空き家を借りて養生していた頃はそうしていた。ロイが成長し、食いぶち稼ぐために軍属に就いてからは、名で呼ばれる事はほとんどなくなっていた。
ロイは受け取った毛布に潜り込み、一言「おやすみなさい」と言うと、間も無くして眠りに付いた。慣れない旅路に疲れが溜まっているのだろう。
煙草を取り出し、火を付ける。細い紫煙を燻らせる蛍火のような小さな赤が、音もなくブロウの側に灰を落としていた。
バルクラム族の地。そこを通ると決めた時から、心の奥深くに埋めていた過去の傷痕が疼いていた。長い年月経てもなお、その傷口が塞がる事はなかった。あちらからも、こちらからも、ジュクジュクとしたままの腐れた瘡蓋が開き、血を滴らせる。
だがしかし、たとえ傷は癒えなかったとしても――。
今この時間は酷く穏やかで、優しくて。それは罪悪感を上回り、ブロウの乾いた何かを満たしていくようだった。
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