BENNU | ナノ


▼ 023 エレナの告白

「この子の名前、決まったの。女の子だったら『ティエラ』、男の子だったら『アーク』」
 大きなお腹を撫でながら、ヒルダは幸せそうに微笑んだ。
 エラルーシャの教えに従い、敬虔な信仰心を示せば辿り着くとされる魂の安息の地、『輝ける大地の庭(エル・ティエラパージ)』から言葉を貰い、『ティエラ』。
 エラルーシャの神々の使徒を差す言葉、『神の遣わせし者(マルアーク)』から、『アーク』。
 どちらも、エラルーシャ教の広まった地域ではありふれた名前だった。しかしそれでも、ヒルダは悩みに悩んだ愛しき我が子の名を、そうと決めたのだ。
「そう、良い名前ね」
 一言、そう言ってやれば、ヒルダは嬉しそうに「ありがとう」と言って柔らかく微笑んだ。
 ヒルダ・ベッセルと知り合ったのは、エレナの患者であるエイジェイが、熱を出した妻を教会に併設された病院へ連れて来た時だった。症状は軽く、処方した薬ですぐに癒えた。それ以来ヒルダは、「夫が世話になっているから」などと理由を付けて、自宅で営むレストランが忙しいにも関わらず暇を見つけては病院の手伝いに来てくれた。元々敬虔なエラルーシャ教徒であったヒルダとは話しも合い、二人は自然と仲良くなった。
 エレナは、彼女に少なからず憧れを抱いていた。自分にはない柔らかな空気を纏い優しく微笑む彼女は、同じ女から見てもとても愛らしかった。逆にヒルダも、きびきびとしたエレナに惹かれていた。そんな真逆の二人だったが互いの長所を尊重し合い、良い友人関係を築いていた。
 そして偶然にも、同じ時期に子供を身籠った。そのことを、ヒルダはとても喜んでいた。
「きっと兄弟みたいに仲良くなるわ。この子の事、よろしくね」
 エレナの胸に抱かれた、生まれて間もない赤子にヒルダはそう話しかけた。頬を細い指先でくすぐられ、赤子はきゃっきゃと楽しそうな声で笑った。
「こんなに小さいのに、もうお兄ちゃんになるのかしら。この子」
「そうよ。きっとあと何日かしたらそうなるわ。優しいお兄ちゃんになってね。ねぇ、レニ君」
 そう言って、二人は笑い合った。
 やがてヒルダの子供が生まれ、レニと共に大きく育つ。エレナはそう信じ、疑わなかった。
 しかしその数日後、それは叶わぬ夢となる。
 出産を控えたある日、ヒルダは大きく体調を崩した。その年、王都で蔓延した流行り病だった。既に下火になってはいたものの、彼女の住む家は連日多くの客が出入りするレストランだ、誰かしらがその病気にかかっていたのかもしれない。病院の一室で、夫婦そろって何日にも続く高熱を出し寝込んでいた。
「ヒルダ、エイジェイ……」
 病室の外で、エレナは祈ることしかできなかった。彼女自身息子を出産したばかり、病をもらうわけにはいかない。
 そうだとしても、自責せずにはいられなかった。
 医者だというのに、友人一人助ける事が出来ないなんて!
 扉一枚隔てた向こうから、妻の名を呼ぶ掠れたエイジェイの声が胸を締め付ける。薄い扉一枚。ただそれだけなのに。
 何度も、ドアノブに手をかけた。しかし、腕の中で泣く幼い我が子の存在が、その扉を開くことをエレナに選択させなかった。
 数日の後、エイジェイは辛うじて回復の兆しを見せ始めた。山は越えたのか、治療を任せた同僚の医師によれば、もう心配はないとの事だった。その吉報はエレナの胸を弾ませた。持病を持つエイジェイが持ち直したのならば、ヒルダもきっと助かる!
 二つ目の吉報を心待ちにしていたエレナだったが、しかし、彼女を待っていたのは目の前が真っ暗になる様な訃報だった。

「『大変残念ですが』と、同僚は言ったわ。『お腹の子も母親の熱に耐えられず、母子ともにエールの元に還られた』とも。この意味が分かる?」
 狂気とも言える光を孕んだエレナの目。おぞましい何かを目の当たりにしているかのように震えながら、アークに問いかける。
 つま先から頭のてっぺんまで、冷たい何かが這い上がる。それは身が凍る程の怖気だ。その先の言葉を聞きたくない。耳を塞ぎたい。しかし、体が動かなかった。自分の中の全ての意識が、言葉を紡ぐエレナの口に引き寄せられる。
 そして、ついにその言葉は音を持ってエレナの口から発せられ、アークの耳へと届いてしまった。
「死んだの。ヒルダも。その子供も! 貴方はあの二人の……エイジェイの子ではないわ」
 頭を強く殴られたようだった。
 嘘。嘘。嘘――。
 浮かんでくる言葉はただ一言。それが頭の中の全てだった。それが喉元までせり上がってくる。抑え切れなくて、気が付けばエレナに向かって怒鳴っていた。
「嘘だ! そんなはずない、僕は父さんの息子だ!」
「嘘なんかじゃない! 私は見たのよ!」
 エレナは忌まわしい過去を思い出し、綺麗に梳かれた真っ直ぐな髪を振り乱してその残像を頭から消そうとする。細い指に髪が絡まる。その姿は心を病んでしまっている患者の様だった。
「ヒルダを埋葬した夜、私はエイジェイの家に行ったの。背教者だとしても、ヒルダの愛した男だったから……何か助けになる事があればと思ったわ。でもそこで――見たの。赤ん坊だった貴方を、エイジェイの元に連れて来た男を。忘れはしない……額に傷を負った、隻眼の男!」
「額に傷を負った、隻眼の男――?」
 掠れる声で、辛うじて聞き返した。
「そうよ。フラムではあまり見かけない金髪に額の傷、加えて隻眼。おそらくフラムの人間ではないわ。エイジェイがフランベルグに来る前の、ルルカ諸島にいた頃の知り合いかもしれない。玄関先でやり取りしていたけれど、とても親しそうだった」
 父の友人が訪ねてきた事は何度かあるけれど、エレナの言う様な風貌の人物は見た事がなかった。そんな珍しい特徴を持っているのだ、一度見たら忘れないだろう。
「その男が去った後、玄関で立ち竦むエイジェイの腕には……貴方が抱かれていた。ヒルダと同じ、赤い髪をした貴方が!」
「――っ痛!」
 突然エレナに髪を鷲掴みにされ、乱暴に揺すられる。エレナは目に涙を溜めながら、何かずっと喉の奥につかえていた物を吐き出すかのようにしゃべり続けた。
「これは私と、エイジェイだけの秘密――『知人から、両親を失った子を託された。時期が来たら私からきちんと説明する』と……。エイジェイはヒルダと同じ赤い髪をしていた貴方に、なにがしかの運命を感じたのでしょうね。引き取ったばかりの貴方を、本当の息子のように大切そうに抱えていたわ。そして……エイジェイに頼まれて、引き取ったばかりの赤ちゃんだった貴方の健康診断をしたのは、私よ。どうして、気が付けなかったのかしら……あの時、貴方はどこからどう見ても、人間の赤ちゃんだった。なのに、それなのに!」
 取り乱したエレナの手が、再びアークの頬を打ち据える。乾いた音が、静まりかえった部屋に響いた。ヒステリックな声で綴られるエレナの告白に圧倒されていた騎士達が、はっとしたようにエレナを制した。
「ヴォルテール女史、どうかお気を確かに」
「馬鹿にしないで! 私は正気です!」
 止めに入った騎士の横っ面さえも張り倒し、エレナはアークに向き直る。
「人間だとしても、私は貴方が怖かった。あの不気味な傷の男が忘れられなかった……。そんな男が連れて来た得体の知れない子供が、ヒルダの子として育てられているなんて!  なのに……いつからか、貴方はレニの一番の友人になっていた。どうして。どうして――」
 消え入りそうな声で呟いた後、エレナの瞳からはついに涙がこぼれた。はたはたと零れ落ちる涙をそのままにその場にへたり込み、白衣に小さく透明な染みを作っていく。
「亜人は……ダグだけじゃなく、レニさえも私から奪おうというの――?」
 急に、威圧感を纏っていたエレナの体が一回り縮んだようだった。亡き夫の名を呼びながら泣いている姿は、ただの一人のか弱い女性でしかなかった。
 しかし、そのか弱い女性の印象は一瞬で消え失せる。
 立ちあがり、再びアークを捕えたエレナの瞳は憎しみの炎に燃え上がる。
「この亜人……! もう二度と、あの子に……レニに近づかないでちょうだい!」
 もう一度強くアークの頬を張ってから、エレナはそう吐き捨てた。そして身体検査の書類を引っ掴み、護衛の騎士を押しのけて部屋を出て行く。
「検分を終わります。牢に戻しておきなさい!」
 扉が閉まる直前、騎士に怒鳴りながら指示を飛ばす姿が見えた。それを最後に、エレナの姿は扉に遮られ見えなくなった。
 部屋は、静まりかえっていた。アークをはじめ、騎士さえもエレナの剣幕に圧倒され、言葉を失ったまま彼女が出て行った扉を見つめていた。
 ややあって、自分を取り戻した騎士の一人が脱ぎ捨てられた団服の上着を広い、アークの肩にかけた。その後すぐに、再び手枷がはめられる。
「戻るぞ」
 一言声をかけられたが、アークの耳には届かなかった。

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