BENNU | ナノ


▼ 018 訪問者

「こんばんは。アーク・ベッセル」
 帰宅後、あくびをしながら自室の扉を開けところで、アークは固まった。明日も早朝から訓練だから早くに起きなければ、などと考えていた思考がどこかへ吹っ飛んでしまう。
 フードを目深に被った見知らぬ男が、部屋の中に立っていたのだ。
 持っていたランプを掲げて男の姿をよく確認しようとするが、目深に被ったフードのせいで顔を窺う事は出来ない。穏やかな弧を描く唇だけが、フードから覗いている。
「誰だ、お前……」
 一歩後ずさり、警戒しながらそう問いかけた。帰宅を出迎えてくれた父は客が来ているなど一言も言ってなかったし、既に自室で休んでいる。
 泥棒の類か? けど、住人に丁寧に会釈しながら挨拶するなんて――
「警戒しなくていい、私は君の敵じゃない」
 アークの警戒を察したのか、くすりと穏やかに微笑みながらそう弁解した。男はアークを刺激しないよう努めて柔らかな口調だが、もちろんそれだけでは不信感は拭えない。
「じゃあなんだっていうんだ。夜中に勝手に人の部屋に入り込むなんて、普通じゃない」
「非礼は侘びよう。しかし、私はどうしても君に会わなければならなかった」
「僕に……? どうして。僕はお前なんか知らない」
 男が、ゆっくりとアークに歩み寄ってくる。
 男は武器になりそうなものは何も持っていないように見えるが、ローブの下に隠れているもかもしれない。比べて自分は全くの丸腰だ。何か武器になりそうなものを探すが、持っているのは小さなランプが一つだけ。剣は部屋の中だ。
 じりと、また一歩後ずさる。そうして瞬きをした一瞬、男の姿が視界から消えた。部屋のどこにも、男は見受けられない。一体どこに――
「君は私を知らない。でも、私は君をよく知っているよ」
 背後から、男の声がした。
 ぞっとして振り返ろうとしたが、それよりも先に背中を押された。前につんのめり、床に膝をつく。手からランプが転がり落ち、火が消えた。途端に部屋が真っ暗になる。すぐにいつもの恐怖が背中を駆けあがり、手足を冷たくさせた。
明りを点けたい――転がって行ったランプを拾おうと手を伸ばした先、ベッドの上に横たわる一人の人物がアークの目に入った。
 息を飲んだ。瞳を閉じた華奢な少女が、静かに横たわっていたのだ。雪の様な白い髪をシーツに散らせ、カーテンの隙間から差し込む月明かりに照らされる肌は、髪同様に色味はない。そして衣服には煤けた汚れと、いくつかの焦げ跡が見て取れた。
 ふと、不思議な感覚にとらわれる。この少女は会った事も、話したこともない、見知らぬ少女だ。しかし、どこかで会ったことがあるような気がする。一体いつ、どこで?
 ローブの男が開いたままだった扉を後ろ手に閉めた。扉が閉まる音がやけに大きく感じる。この部屋だけ外界から隔絶されてしまったかのようだ。
「ひとつ、念のために確かめたいことがある。……最近君は自分自身に疑問を抱いてはいないか。そう、例えば――」
 男は骨ばった長い指で、アークの耳を指差す。
「イラの声を聞いた、とか」
 少女から視線を剥がし、驚愕で見開いた目を男に向ける。レニやウッツ、父親にさえ話していないことを、なぜ見たこともない男が知っているのだ。
「そうか……その反応で十分だ」
 アークの表情を見て、男は満足そうに頷いた。
「お前に、僕の何が分かるっていうんだ。それにイラの声なんて、聞いてなんか……いない」
 嘘だった。ただそれと認めたくないだけの、舌を上滑りする虚勢だ。だがそれすら、ローブの男は見透かしたように微笑む。
「否定する? 今はそれもいい。しかし君はいずれ自覚せざる得なくなるだろう。……でもそれは君自身の力でなのか、或いは……いや、どちらにせよ同じ事か」
 男は独り言のように呟いて、頭を振った。
「まあいい。また次の機会にでも詳しく話そう。今日は、急いでいるのでね。私の用件は、この子のことだ」
 男はベッドの横に跪くと、眠っている少女の髪を慈しむように優しくなでる。少女は身じろぎ一つしない。
「私はこの子を君に託しに来た」
「……は? 何を、訳の分からない事を」
「会った事はないけど、君はこの子を知っているはずだ。アーク、今朝見た夢を覚えているかい?」
「……夢?」
イラの討伐任務に就く前、召集の知らせが来る前――記憶の糸を手繰り寄せ、夢の内容を思い出そうとする。そして寝苦しさに目覚めたことを思い出すと、唐突に夢の内容が甦った。
 溶けかけた雪の大地、立ち上る火柱、崩れた家々そして――
「そうだ……この子は、夢の中で泣いてた女の子!」
 廃墟の中を、泣きながら必死に走っていた少女。助けてやりたくても、触れることが叶わなかった。その夢を見たことを、なぜこの見知らぬ男が知っているのだ。しかし、男はその夢の住人であるはずの少女を連れている。
 ローブの男が立ち上がり、唖然としているアークに歩み寄った。
「すまないが時間がないのでね、急がせてもらうよ。この子にとって事は一刻を争う」
「ちょっと待ってよ、いったい何を――」
 男は膝を付いたままのアークの前の立つと、額に骨ばった人差し指を付きつけた。間近で見ると、暗いながらも指先にまで朱色の刺青が彫られていることが見て取れる。気味の悪い指だ。身を引いて避けようとしたが、何かに縛られているかのように体が動かなかった。腕に、足に、必死に命令しても指一本すら動かすことが出来ない。唯一自由のきく目をローブの男に向けると、男は優しく微笑んだ。
「大丈夫。怖がらなくていい」
 男はアークが怖がっていると思ったのか、穏やかな口調で言った。
 しかし不思議なことに、恐怖といった類いの感情は湧いては来なかった。男の付きつけた指先からじんわりと温かさが伝わってくる。それは全身に染み渡り、薄く温い膜で体を覆われているようだ。ともすれば心地良くさえ感じる。
「この子も今、君の夢を見ている。この子の――ラナの事を知ってくれ、アーク。それが契約には必要な事だ」
――契約?
 尋ねたくても、口を開くことが出来ない。一方的に事を進められるが、なぜだろう、違和感がなかった。むしろ、これが当然のことのように感じてしまう。体が自分のものではないみたいに、この行為を自然と受け入れようとしている。
 僕の何が、僕のどこが、そうさせるのだろう。
「それから、もうひとつ」
 きらりと、目の前で何かが光った。カーテンの隙間から差し込む月明かりを受けて細い光を跳ね返すそれ。長いローブに隠れていた方の手に握られているのも――小さなナイフだ。
「君の血が必要なんだ」
 ナイフが迫ってくる。それを見たのを最後に、視界は暗転した。

「もう、行くの? もう少しここにいてよ」
「すまないラナ。私はジェノに戻らなくては。長い間留守には出来ないからね」
「嫌よ。だって昨日来たばかりじゃない! もう少し、一緒にいてくれても……」
 ダアトのローブに縋った手が、彼によってゆっくりと下ろされる。その手を優しく包み込み、少し屈んでラナと視線を合わせた。
「ごめんね」
 そう一言だけ言って、ラナを優しく抱きしめる。しかしその柔らかな抱擁はすぐに解かれ、ダアトは扉に手をかけた。
「待って。ねえ、お願いだから」
 今にも泣きそうな顔で、ラナはダアトを呼びとめる。しかし、ダアトは止まらない。蝶番が軋む音を立てながら、ダアトを隠してゆく。この音は昔から大嫌いだった。大好きな人を遠ざける音だ。孤独に落とす音だ。
 長い前髪の奥にある銀の瞳が、申し訳なさそうな光を湛えている。
「また来るよ」
 その言葉を最後に、扉は閉ざされた。狭い部屋の中、ラナだけが残される。静かだった。窓から差し込む明るい光の線だけが、きらきらと明るくさんざめく。光の影になっている暗がりに、ラナは力なく座り込んだ。
「……何よ。滅多に来てくれないくせに」
 小さく、小さく、ラナが呟く。そばに転がっていたウサギのぬいぐるみを拾い、きつく抱きしめた。このぬいぐるみも、部屋の隅に転がる人形も、棚に収まりきらないほどの本も、全てダアトからの贈り物だ。ラナが寂しくない様にと気を遣って、様々な贈り物を遠く離れたジェノから送ってくれる。
 しかしそれが、ラナの孤独感を煽っていた。いくら素敵な贈り物が届こうと、ダアトには会えないのだ。自分を一人の普通の女の子として扱ってくれる、ただ一人の理解者には。
「何よ!」
 抱きしめていたぬいぐるみを、力任せにダアトが出て行った扉に投げつけた。ぬいぐるみが扉にぶつかる音が一瞬だけ部屋の静寂を乱したが、床に落ちればまた静けさが戻ってくる。
 ラナは自らの体を腕でかき抱き、小さくなった。涙なんかこぼすまいと、ぎゅっと目を閉じる。
「一人に……しないでよ」

 その光景を、アークはラナの中から見ていた。今度の夢は自分の体はなく、少女の目を借りて見ているようだ。
 小さな部屋だったが、物に溢れていた。壁の二面を占領する背の高い本棚には隙間なく本が並べられ、入りきらない本が床に積み上げられている。ベッド脇のサイドボードにはぬいぐるみや人形、女の子が好みそうな可愛らしい小物類が並べられていた。
 一見すると、賑やかな部屋だ。しかし、ここの主はこの部屋が好きではないようだ。ラナの中から夢を見ているからだろうか、彼女の感情の波がアークにも伝わってくる。
 寂しくてたまらない――
 ラナの心の中は、器から水が零れる寸前の様な悲しみに満ちていた。それが溢れた時、彼女は泣くのだろう。しかし今はそれに耐えている。自分は孤独で惨めだという思いと、そう思う自分への自己嫌悪で揺れている。
 小さな溜息をついたラナは、光の差し込む窓へと歩み寄った。彼女の目を借りたアークにも、窓からの景色が見える。
 この部屋は、周りの家々よりも背の高い塔の最上階にあるようだ。その高い目線から見える景色に、アークは驚いた。体の自由が利くのならば、窓から身を乗り出していたかもしれない。
 見渡す限り一面、色が存在しなかった。
 雪が降り積もっているからという問題ではない。塔を半円状に囲むようにして作られた町の建物も、遠くに見える森の木々も、今まさに窓際に現れた鳥さえも、全てが白。ダアトと呼ばれた男を思い出してみたが、フードからちらりと見えた肌は雪のように白く、瞳はわずかながらの銀の色。先ほどからちらちらと視界に入る風に揺られるラナの髪もまた、同じように純白だ。
 生きている者の気配を感じさせない白の世界は、神秘的でもあり、また気味が悪くもあった。しかしそれでも、この地で生きる者がいるのだ。鳥は飛び、ラナはここに住んでいる。
 遠くをぼうっと眺めるラナの視界の先には、空をいびつに切り裂いている針の様な山嶺が連なっていた。
 どこかで見たことのある景色だった。
 いつだっただろう、この特徴的な山の姿を見た記憶がある。あれは確か、ウッツの持ってきた新聞の記事だった。その記事は安価な民間新聞で、見出しが胡散臭いだとかぼやいていた。
――燃える蛮族の聖地、断罪の時来たれり。
 もし声が出せたなら、アークは驚愕の声を発していたに違いない。ラナの目に映るあの特徴的な針の山嶺は、新聞に描かれていた『蛮族の聖地』の絵とそっくりだった。
 ならばここは――同盟国でいう聖域『白の庭』、フランベルグでいう禁域『幽罪の庭』だというのか。
 その確信を得る前に、後ろから誰かに強く引っ張られるような感覚がし、一瞬でラナの体から引き剥がされた。以前夢の中で見た様な、見渡す限り何もない白の空間に放り出される。綿の様な地面に尻もちをついた。そう感じるやいなや、今度は地面が消えた。底の見えない白い空間を、アークはなすすべもなく落ちてゆく。そうして目が眩むような光の中へ吸い込まれていった。

「もう塔を抜け出すのはおやめ下さいませ」
 白い法衣を纏った二十代半ば程と思われる女性が、困ったような顔でベッドに横になるラナにそう言った。
 今度の場面は、ラナの部屋を天井から俯瞰していた。先ほどのようにラナの目を借りて見てはいないものの、やはり感情の波は感じられた。氷の様な侮蔑の感情が女性に向けられている。
 染み一つない白い法衣に、長い白髪を垂らした女性が、ラナの返事を待っている。しかしラナは答えない。女性は溜息をつきながら、毛布をラナの肩まで引き上げた。
「貴石蝶見たさに塔を抜け出すなど、命が幾つあっても足りませんわ。御身は私たちよりも繊細なのです。契約も済ませておられない。外の空気は御身を害しますわ」
 やはりラナは答えない。代わりに苦しげな咳を漏らした。
「少しはご自愛下さい。リ・ジェイニス(次期導師)に何かあったら、ジェイニス(導師)がどれだけ御心を痛められるか」
 リ・ジェイニスと呼ばれた途端、ラナは顔を顰めた。掠れる声で話し始める。
「……ジェイニスには、今私などに心を砕いている時間はありません。くれぐれもこのことは黙っているように」
 ラナの言葉はダアトと話していた時と比べ堅苦しい。その響きは、人の上に立つ者のそれだった。
「リ・ジェイニスの仰せのままに」
 女性はベッドの傍らに跪くと、仰々しく平伏した。
「サルビア……貴女はいつまでたっても私を称号でしか呼ばないのね」
 冷やかなラナの声にも、ラナの世話役である女性サルビアは、穏やかな笑みを崩すことはなかった。
 その微笑に、アークは違和感を覚えた。何かをその裏に隠したような、影のある微笑だ。
「それは私の敬意ですわ、リ・ジェイニス。高潔な御身のお世話をさせていただけることが私の喜びであり、誇りでもあります。その貴女様を名で呼ぶことなど、私の様な者には畏れ多いこと。どうかお許し下さいませ」
 そう言ってまた平伏するサルビアを、ラナは感情のこもらない目で一瞥した。
 そのラナにも違和感を覚える。侮蔑の裏に、隠された何か。その『何か』に、なぜか胸が苦しくなる。あれは胸を焦がす、狂おしいまでの――
「私が怖いか、サルビア」
 つと、静かな声でラナが尋ねた。サルビアの体が強張る。ラナは咳込みながら上体を起こし、平伏したままのサルビアを見下げた。
「仰る意味が、分かりませんわ」
「セレスト・ケイブの件、まだお前たちの記憶には新しい事だろう」
 セレスト・ケイブ。その言葉に、サルビアは明らかな動揺を示した。指先が震えている。かちかちと噛み合わない歯の根が、静かな部屋の中で耳についた。
 平伏したサルビアの頭に、ラナの手が置かれる。サルビアが息を飲んだ。
「お……おやめ下さい、リ・ジェイニス」
「この手が恐ろしいか。……汚らわしいか」
 明らかに怯え始めたサルビアに、ラナは顔を顰めた。その顔は怒っているようにも見えるが、泣くのを必死に耐えている様にも見える。そんなただの子供に大人の女性が怯えているのは、アークの目には異様な光景に見えた。
 震えの止まらないサルビアから、ラナはようやく手を離した。サルビアは詰めていた息を吐き出し、顔を上げる。蒼白した顔には冷や汗が浮かんでいた。
「……もういい。下がりなさい、サルビア」
 何の感情もこもらない声でラナがそういうと、サルビアは逃げるようにして部屋を辞した。
 蝶番が軋む音を立て、扉が閉まる。部屋にはまたラナ一人が残された。静寂。それを乱すものはラナの苦しげな息使いだけ。
 ベッドに倒れ込むと、ラナは毛布を頭から被った。自分を抱きしめるようにして丸くなる。
 毛布に包まれた体が、小さく震えていた。苦しげな咳がまたひとつ、アークの耳に届く。その次に聞こえたのは、彼女の押し殺した泣き声だった。

 閉じた瞼に光を感じ、アークは目を覚ました。半開きの窓から差し込む光の襞が、朝の訪れを告げている。
 目覚めて最初に見えたのは、床の木目だった。少し埃の転がる、自室の床だ。道理で体の節々が痛む訳だ。体をゆっくりと起こし、まだぼんやりと靄がかかった頭を振って眠気を覚ます。
 そうして、はっとする。昨日、確かおかしな男が現れた。何かよく分からない事を話し、気を失った子を――夢で見た少女を、託しに来たと言っていた。
 部屋を見回しても、既に男の姿はなかった。いつも通りの、物の少ない簡素な部屋。昨晩床に転がったはずのランプもサイドボードの上に乗っており、その金属部が差し込む朝日を煌めかせている。
 しかし、たった一つだけ違う所あることにすぐに気が付いた。
 部屋にいるのは、アーク一人ではなかった。
昨晩と同じく身じろぎひとつせず、焼け焦げた服を纏い、白い髪をシーツに散らせる華奢な少女。
 夢で見た少女ラナが、ベッドで静かに眠っていた。

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