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▼ 017 浸食

 この独房の明かり取りの窓は小さく、天井高くにくり抜かれた四角いもので、ほとんど隙間と表していいような代物だ。その窓のある天井は見上げても遥か遠く、漏れこむ光も床までは届かず視界はほぼ無いに等しい。
 鎖に繋がれ無理に上げられた腕は、もう感覚がなかった。重力に従い落ちようとする腕を手枷が支え、体毛は擦れて抜け落ち青痣を作っている。
 しかし、そんなものは既に気にもならなかった。フランベルグ騎士に捕縛されてからというもの、ヘレ同盟国の間諜だと疑われて筆舌に尽くしがたい拷問を受けたのだ。体の至る所に、その生々しい傷跡が残っている。猿轡を噛ませられ、自決は許されない。フランベルグの人間は、亜人を同じ人族だとは思っていないのか。分かってはいたことだが、少なからず虚無感と憎悪を抱いた。
 体力も、既に限界を超えていた。少しの抵抗をする余力もない。ただし、決して口は開こうとしなかった。それが彼の、己に絶対だと課したことだ。
 俺の命も、もうじき尽きるだろう。
 拷問で受けた傷から血が滴り、汚れた独房の床に赤い水たまりを作っていく。あと一度でも拷問されれば、死ぬだろう。しかし、しゃべらなければ俺の勝ちだ。それだけを支えに、息も絶え絶えになりながらも己を保っていることが出来た。
 その痛みに耐えるだけの日々に変化をもたらしたのは、一つの咳だった。
 初めは、一日に何度も乾いた咳が出るだけだった。その咳は次第に湿性のものへと変わり、酷い胸やけの様な症状が現れ、何度か痰の様な物を口の端から垂れ流した。
 ここが暗闇に閉ざされた独房でなかったらなら、その痰の様なものが黒く変色していることに気が付けただろう。
 また、彼が拷問で鼻を潰されていていなかったなら、彼の周りに満ちた腐敗物が焼け焦げた様な臭気に危機感を感じられただろう。
 だがそのことに彼が気付いたとしても、鎖で繋がれ、さらに猿轡を噛ませられた彼にはどうすることも出来ない事には変わりない。
 煤が――この独房に満ちていた。
 何日間、その咳と痰の様なものに蝕まれたのだろう。ようやく煤に侵され始めていると気づいたのは、体の中が激しく痛み出した時だった。体の内側から煉獄の炎で焼かれているような感覚は、拷問にも引けを取らない。肺腑は焦げ付き、臓物は爛れる。腕を戒める鎖を引き千切らんばかりに、彼は叫び、のた打ち回った。その間に猿轡を噛みきったが、自決を選択する理性は、既に失われていた。
 やがて、彼の心を占める感情は憎悪のみとなった。それが血管を巡って体中を駆け回り、溢れる出る怒りや憎しみといった負の感情が、咆哮となって一人きりの独房に響く。
 その声はもう彼の本来持つ声ではなかった。焼け爛れた喉から発せられたのは、理性を失った化け物の声だった。
 煤に侵された化け物は、以前より増した力で暴れまわる。
 腕を戒めていた鎖に、亀裂が走った。

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