▼ 016 ロズベリーの悲劇
「ケイト! オリヴ!」
父が荒れ狂うクラモーラル川に今にも飛び込もうとするのを、町の男たちが抑えている。その隙間から手をのばすが、化け物と化した川に飲み込まれた妻と息子には届かない。遠くの波間に見えていた母の手が、うねる濁流に飲まれた。父が叫ぶ。男たちが暴れる父を抱え、川縁から遠ざけた。
「さあ、君も早く!」
強く手を引かれ、父同様に川縁から遠ざけられる。誰だったかは覚えていない。ただ自分と同じジャハダ族の大人だった事だけ、虚ろに記憶している。
その他に思い出せることは、父の慟哭と徐々に小さくなっていく母と兄の手、打ちつける雨の冷たさだけだった。
この大嵐がこれから始まる惨劇のただの序幕だったなんて、このとき誰が思いついただろうか。
ロイ、六歳。
地獄の淵に立っていた。
「……もう、ここには戻ってこないつもりなのか」
純白の雪が深々と降る窓の外を眺めながら、ブロウは煙を吐いた。返事はしない。ただその代わりに、にいと唇の端をつり上げた。
ヘレ同盟国グローネンダール領第四地区、ウガン砦にあるブロウの部屋での事だ。時刻はすでに夜半を過ぎている。警備の者以外は連日のイラ討伐に疲れ果て、とっくに夢の世界に足を踏み入れている頃であろう。
様々な報告書や地図が散らかったブロウの部屋には薄暗いランプが灯っているものの、その炎はすでに消えかけ、お互いの顔がかろうじて確認できる程度の明るさしかない。そんな中、警備隊の隊長であるブロウと副隊長であるジャハダ族のライカン・スロウプは、声を潜めて話し合いをしていた。いや、一方的に話されているというべきか。ライカンが口を挟むたびに、ブロウは「黙って聞け」と声を凄めるのだ。
そうして聞かされた話の内容は、夜中に叩き起こされたライカンの眠気をいとも簡単に吹き飛ばすものだった。
「これからはお前がこの警備隊の隊長だ」
それが前々から決まっていた当然の事かのように、ブロウはさらりと言い放ったのだ。
なぜ隊長を辞めるのか、なぜこの警備隊から出て行こうとしているのかということは、ブロウは一切語らなかった。ブロウがライカンに話したことといえば、ただ隊長の引継ぎに必要な事柄だけだった。
必要なことをあらかた話し終えたブロウは、また煙草をふかしている。ライカンの問いには答える気はないようだ。
用は済んだ、部屋に帰って寝ろ――そう追い払うように手を振るブロウ。しかしその場に根が生えたように、ライカンは動く事が出来なかった。最も重要な事を語らないブロウに困惑を隠しきれない。
「いったい何を考えているブロウ。皆お前を頼りにしているんだぞ」
「ああ、知ってる」
またさらりと、そう答える。
「だったらなぜだ。大量のイラに怖気づいたとでも言うのか!」
ついかっとなり、ライカンは牙をむき出し語気を強めた。そのライカンに、ブロウはにやりと不敵に笑う。
「おいおい、らしくないなスロウプ副隊長。お前は俺が最も頼りにしている、冷静沈着な男のはずだぜ」
「茶化すなブロウ」
「俺は真剣さ」
窓の外を眺めていたブロウが、ライカンに向き直りまっすぐに見据える。一つしかない燃え盛る炎のような緋色の瞳は、笑ってなどいなかった。
「お前は、俺が最も頼りにしている男だ」
真剣な声色で再び繰り返された言葉に、ライカンは閉口する。
「信頼を裏切らない奴だということも、よく知っている」
我ながら卑怯だな――ライカンを見据えながら、ブロウは内心己に唾を吐きたい気分だった。ライカンへの信頼は、嘘偽りない事実だ。しかし自らの思惑を信頼の陰に隠し、ただ信頼の情のみを前面に押し出し、義理堅い男が反論できない状況に追い込んでいる。自分を頼りにしてくれている相手への――とんでもない裏切り行為だ。
ライカンの表情は険しい。しかしブロウの思惑通り、自分への信頼の強さを受け取った真面目な男は、それ以上ブロウを引き止める言葉を口にしなかった。
「……正式な手続きは踏んでいないんだ、脱走兵扱いになるぞ」
「亡命でもなんでもするさ」
そう言ったブロウの言葉に、ライカンは驚いて目を見開いた。
「第四地区じゃなく、グローネンダール領……いや、同盟国そのものから離れるというのか? ロイはどうするつもりだ」
「お前に任せる」
何か言い返そうとしたライカンを制し、ブロウは腰掛けていた椅子から立ち上がった。窓を開け、短くなった煙草を投げ捨てる。そうして砦の窓から地面に落ちてゆく煙草の火が、徐々に小さくなるのを見届けた。開け放したままの窓からは風に乗って雪が入り込み、小さな水滴となって床に滲み込んでゆく。
「今日の門番は運が悪い」
ため息交じりに呟いたライカンの言葉に、ブロウがにやりとする。
「まったくだ。なんにも悪い事してねぇのに、雪の中でお寝んねしなきゃならねぇからな」
喉の奥でくつくつ笑う。そして兵舎の中を通って見張りに見つかるのも面倒とばかりに、ブロウは窓枠に足をかけた。
「ブロウ」
飛び降りる寸前、ライカンがブロウを呼び止めた。
「何か俺には言えない理由があるんだろう。もっとも、お前は自分のことを多く語る奴ではなかったが……しかし俺はお前が、ただ隊員達を見捨てる男だとは思えない」
ライカンの言葉を、ブロウは鼻で笑った。
「どうだかな」
「信じるぞ。ブロウ」
「馬鹿が、勝手に言ってろ。……じゃあな」
振り向きもせず、それだけ言い残すとブロウは雪綿の地面へと飛び降りた。
鋭い手刀で首の後ろに衝撃を与えると、門番は小さな呻き声を残して昏倒した。砦内からの攻撃など予想していなかったのだろう。仕事どおり砦外へ注意を向けていた門番の背後は隙だらけだった。そうして仕事をまっとうとしていた門番を跨ぎ、ブロウは砦を背にして歩き出す。ちらりと倒れている門番を一瞥すれば、厚い毛皮をまとったジャハダ族の戦士だった。凍死の心配は要らないだろう。
さく、さくと、白い地面に足跡を残し、砦を後にする。朝になるころには、この足跡も雪が隠してくれるだろう。そうなれば今この時、自分がウガン砦から消えようとしていることを知る者はライカンの他に存在しない。後のことは彼が万事うまくやってくれるだろう。
長らく腰を下ろしたヘレ同盟国とも、これでおさらばか――
約十年の歳月をぼんやりと思い返し、感慨にふけっていたときだ。
「隊長!」
まさかと思った声に、ブロウは呼び止められた。振り返れば見慣れたジャハダ族の少年が息を切らし、自分を追い駆けて来ている。
「待って……待ってください!」
「ロイ! お前、何で……」
驚いて足を止めたブロウに、ロイはすぐに追いついた。全速力で追い駆けてきたせいで息が上がってしまい、すぐにはしゃべれない。しかしブロウが戸惑っているうちに呼吸を整え、きっとブロウを睨み上げた。
「どこに行くんですか。こんな夜中に」
「夜の散歩さ。お前こそ何やってるんだこんな夜中に。子供は寝てなきゃならねぇ時間だぜ」
「ふざけないでください。門番を気絶させておいて何が散歩ですか」
「……見てたのか」
しくじったな、と頭を掻いて視線を泳がせるブロウに、ロイは小さな声で呟いた。
「砦を出て行く隊長を見たのは偶然です。……虫の知らせでしょうか。久しぶりに、あのときの……ロズベリーでの夢を見たんです」
十一年前、流通拠点ロズベリー――。フランベルグ、ヘレ同盟国を跨いで栄えていた、両国間の物流の拠点。敵対国でありながら、唯一人間と亜人種が共存する町だ。
ある嵐の夜、その町の中央を流れる、普段は遠浅で流れが穏やかなクラモーラル川が氾濫した。河川の蛇行の関係により、同盟国側の町は甚大な被害を受け、フランベルグ側は大きな難は免れた。
このとき小康状態にあった両国の関係が一気に崩れ始めたのは、この時のフランベルグ側の人間の言葉がきっかけだったのかもしれない。
やはり創造主エールは、『不純物』の亜人よりも我々人間に加護を与えてくださる――
誰が言ったかも知れないこの言葉に同盟国側は、良心的な心を持ったフランベルグ側の人間からの救援を頑なに拒み、彼らを手荒くあしらった。そのことで関係はさらに悪化し、洪水の難を逃れた者たちが争いを始めたのだ。差別、猜疑、憤怒――これらが両国の均衡を崩した要因である。
そして開戦の最たる原因になったのが、争いの鎮静に向かったフランベルグの王子の暗殺だった。より強く人間を敵視する一部の亜人によるものだったが、それが元々頑固な人間主義者だったセヴル八世を狂信者へと変貌させ、徹底的な亜人掃討戦――『ロズベリー戦役』を引き起こしたのだ。
ロイは、ロズベリーの出身者だった。そして大嵐の後に起こった争いで廃墟となったその町で、ブロウに拾われたのだ。
「母と兄が洪水で死んで、父もその後の争いで俺を庇って死んで……町は焼かれて、死体が転がって、下流の橋桁には流された人たちが、ひっかかっていて……」
「ロイ、それ以上思い出すな」
「そこで……その地獄で、俺はあなたに拾われました。だから」
突然、ロイはブロウの胸倉を掴んだ。
「あなたは俺の命を救いました。だから!」
ブロウをぎっと睨み上げる。しかし、そのロイの目は――
「あなたは、俺の命に責任がある」
「……だから?」
ブロウが続きを促すと、ロイは再び俯いてしまう。見られたくないのだ。瞳から溢れそうになる感情など。
「だから……置いていかないで下さい――」
孤独を知る、震える声と手。やっとの思いでしぼり出した彼の言葉とともに、振り払う事がためらわれる。
その手を取るべきなのか、拒むべきなのか。己の事情に、ロイを巻き込むわけにはいかない。
しかしすぐにいつもの強い眼光を取り戻したロイに、その逡巡は無意味だったと理解した。
「無駄ですよ。あなたがなんと言おうと、俺はついていきますから」
「俺についてきても、ろくな事がないぞ」
「分かってますよ。何年、あなたの傍にいると思ってるんですか?」
生意気にもブロウを真似て、にぃと口の端をつり上げるだけの不適な笑みを浮かべるロイ。しかしその瞳は揺ぎ無い。
「……上等だ」
そう一言だけ漏らすと、ブロウは再び歩き出した。ロイを拒絶する言葉はない。
受け入れられたのだ。そのことに、ブロウの後ろについて歩き出したロイは、一瞬だけ喉が震えた。それと気取られないように、ブロウに問いかける。
「それで、これからどこに行くんです?」
「そうさなぁ……」
歩きながら懐から取り出した煙草に火をつけ、肺腑の奥まで紫煙をふかす。深く深く吸い込んだそれを一気に吐き出せば、目の前にちらつく小さな雪の華を灰色に染めながら空へと昇り空気に溶けた。
その煙を追って上げた視線の先には血で塗らしたような真っ赤な月と、空をいびつに切るゼスタの針壁。
ふと、既視感に襲われる。いつのことだっただろうか。これと同じような風景を見た。雪は降っていなかったが、夜空に浮かんでいた月は今日この夜と同じ、不吉な赤い月だった。
――あら、逃げるの?
憎たらしい、今は亡き戦友達と交わした最後の会話が脳裏によぎる。
――故郷に帰るべきだ。お前にはまだ種の責務が残っているはず。
「南へ。いったん同盟国を離れるぞ」
帰る?
冗談じゃない。
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