BENNU | ナノ


▼ 015 貴石の光の中で

――あんなふうに頭をなでられたの、すげぇ久しぶりだった。なんか、親父のこと思い出したよ。
 夕日もフラムの町並みに沈んだ宵の口。いつもより早めに店じまいをして、疲れた顔をしていた父には先に湯浴みを勧めた。アークは厨房で後片付けをしながら、帰り際にレニがそう言っていたことを思い出す。流しに溜まった食器を洗いながら、ぼんやりと考えにふけった。
「そうだ。レニのお母さんは確か、とても厳しい人だったっけ……」
 つい、ひとり言がもれる。レニの母親、エレナ・ヴォルテールとは何度か顔を合わせたことはあるが、いつ見ても彼女は愛想笑いなどせず、背筋をまっすぐに伸ばした厳格な人物だった。あの狂信者――エラルーシャ教の熱心な信者である母親の事を、時折レニはそう呼ぶ。そう口にするときのレニの顔を窺う限り、母親との仲はうまくいってはいないように見えた。
 その不仲の原因の一つに、自分がいる。
 まだ八つの頃だっただろうか。初めてエレナと対面したときに、アークはそう確信していた。幼いながらにも、エレナの視線に明らかな敵意を感じたのだ。自分の身分がレニよりも低いからだと考えてはいたが、その所以は未だに定かではない。
 洗い終えた皿の水気を、清潔なふきんで拭いてゆく。カウンターのランプに照らされた自分の顔が、きれいに磨かれた皿に映り込んだ。
 親友の家庭事情、父親の体調悪化への懸念、そして他の人には聞こえなかった声を聞いた、自分自身のこと――頭を抱えたくなるような悩みばかりだ。皿に映った自分の顔は、覇気のない、眉根を寄せた情けない顔。皿を拭く手も自然と止まってしまう。自分ひとりだけの厨房は、うるさいくらいの沈黙で耳が痛かった。
 その沈黙を破ったのは、小さなノックの音だった。はっとして皿から視線を上げ、誰だろうと首をかしげる。店先にはもう閉店の札を出してある。こんな時間に来客だろうか。
「あの……こんばんは。どなたかいらっしゃいますか? ……アーク君?」
 扉の外からかけられた聞き覚えのある声に、アークはもしかしてと扉に駆け寄った。鍵を開け、扉を開く。その向こうに現れたのは予想したとおりの人物。本日二度目の訪問だ。
「コリーナ。どうしたの、こんな時間に。あれ……一人?」
 コリーナの声がしたと思ったとき、ウッツもいると思ったのだ。しかし、扉を開けてみればそこにはコリーナ一人だけ。
「ウッツは?」
 ついそう尋ねてしまうと、コリーナは一瞬きょとんとし、それからくすくすと笑った。
「私一人よ。お兄ちゃんに、アーク君を呼んで来いって頼まれたの。もう、今日はママにお兄ちゃんを呼んで来いって言われたり、お兄ちゃんにアーク君を呼んで来いって言われたり、おかしな日だわ。人を呼びに行ってばっかり」
 ウッツがこんな時間に僕を呼び出すなんて、いったいなんだろう。
 ウッツはアークが暗い所が苦手なのを知っているから、何か用事があるときは必ず昼間に済ませてくれる。しかし今日は、日も落ちた時間に、女の子のコリーナに一人で使いを頼んでまで自分を呼び出している。
「ウッツ、こんな時間に呼び出してくるなんて……何かあったのか?」
 アークの質問に、コリーナは首を振った。
「お兄ちゃんに何かあったとか、そういうことじゃないわ。どうしても、見せたいものがあるんですって」
「見せたいもの?」
「何を見せたいのかは、言っちゃ駄目って言われているの。夜じゃなきゃ駄目なものなんだけど……アーク君、絶対に驚くわ!」
 そう説明するコリーナは、少し興奮気味だ。どうやら、コリーナはウッツがアークに見せたがっているものの正体を知っているようだ。きらきらと目を輝かせ、アークを急かすように手招きする。
「レニ君は、お兄ちゃんとダンが迎えに行ってるわ。私たちも行きましょう」
「ウッツが、レニを迎えに行ってるだって?」
 アークの驚きように、コリーナは不思議そうに首を傾げた。可愛らしく小首をかしげる様をあまり見ないように、視線を伏せる。アークは「父さんに一言声かけてくる」と言い、ひとまずコリーナの前から逃げ出した。
「……ウッツのやつ、覚えてろよ」
 コリーナの耳に届かない所に来てから、そうこっそり悪態をついた。アークは、女の子が苦手なのだ。そのことを、ウッツもよく知っているはず。それなのに、自分はレニを迎えに行き、アークのところには妹をよこしたのだ。
 苦手な夜道を、苦手な女の子と二人で歩かせるなんて。絶対にウッツの嫌がらせだ、たちの悪い悪戯だと思いながら、アークは間近に迫るある種の試練に頭を抱えた。

「ようやく来たか。遅かったじゃないか」
 にやりとして出迎えたウッツを、よほど殴ってやろうかと思った。
 しかし暗闇とコリーナから開放されてすぐ、起こる気力もない。真っ赤な顔をしたアークは、ぐったりとした様子でウッツに持っていたランプを押し付ける。それを「うまくいった」と言うようにくすくす笑いを噛み殺しながら、ウッツが受け取った。ウッツの悪戯など滅多にないが、こうなると悪戯三昧のレニよりも数倍たちが悪い。悔し紛れにウッツを睨むアークを、コリーナがまた不思議そうに見上げていた。
 鍛冶工房に直接続く正面玄関ではなく、裏の勝手口に案内された。入ってすぐ、コリーナが作ったのであろう夕食の残り香が鼻をくすぐった。食欲のわく、スパイシーな香りと焼いた肉の匂い。これはきっと、以前うちがウッツに分けたルルカ諸島産の香辛料を使った肉の香味焼き――
「おそいぞアーク! 怪物役がいないとはじまらないだろ!」
 ウルフ家の夕食の献立を考えていた一瞬の隙を突いて、ダニエーレがアークの腹に向かって突っ込んできた。不意をつかれ一瞬よろめくものの、しっかりと飛び込んできたダニエーレを受け止める。
「怪物役だって?」
 ダニエーレに問いかけると、楽しげににっこりと笑う。
「英雄ごっこ! ぼくが王都を救う英雄で、アークが襲ってくる怪物だよ。姉ちゃんが怪物にさらわれちゃうお姫さまで、兄ちゃんが魔法使いで、レニが騎士」
「なんだよダニエーレ、怪物は僕だけ?」
「英雄には仲間がいるもん。兄ちゃんに読んでもらった本に出てくる英雄はそうだったよ。だから、アークが怪物役!」
 そう言って、「えいやぁ!」とベルトに挟んでいたおもちゃの剣をアークに向かって振り上げる。驚いて飛び退くと、見ていたレニとウッツがそろって笑い声を上げた。
「ほら怪物。やられっぱなしじゃつまらないぞ」
「でも、これ当たったら絶対痛い……うわっ!」
 顔のすぐそばで、切っ先が空を切る。力加減を知らないダニエーレだ、いくらおもちゃの剣とはいえ、当たったらくっきりとした痣なるだろう。
「もう、そんなことしたら危ないでしょう!」
 はしゃぐダニエーレをコリーナがなだめるが、どうにも収まらない。剣を振り回す事をやめないダニエーレを、今度はウッツが止めた。剣を取り上げ、あやすようにダニエーレの髪をくしゃりとなでる。
「ここまでだ、ダン。兄ちゃん、アークとレニに用があるから、ちょっとコリーナと本でも読んでてくれな」
「やだ!」などとわめき癇癪を起こしそうになるダニエーレの手を引き、コリーナは自室へと向かう。その後ろからレニが「今度いっぱい遊んでやるから」と声をかけると、不満そうにしながらも素直に姉について行った。
 二人がいなくなると、途端にレニが噴き出した。
「お姫様を攫う怪物だってよ! コリーナを攫うなんて、お前には一生そんなことできないだろうな」
 真っ赤な顔をしてコリーナと現れたアークをからかっているのだ。腹を抱えて笑うレニを、アークは「うるさい」と睨みつけた。
「その辺にしといてやれよレニ。俺がお前たちを呼んだのは、アークをからかうためじゃないんだから」
 自分のことを棚に上げにやりと笑うウッツに突っかかってやろうかと思ったが、ウッツのどこかそわそわした様子に気づき、レニと目を見合わせた。そわそわというよりも、わくわくしていると言ったほうがいいだろうか。仕掛けた悪戯に誰かが引っかかるのを待っているような、プレゼントの包み紙を破る前のような、少年みたいにきらきらした目をしている。
 こっちだ、とウッツが自分の部屋に二人を導く。よく整理整頓されたウッツの部屋の机に上には、以前来たときにはなかったものがあった。何かの箱だろうか。黒い布がかけられた四角いものが置かれている。
「なんだぁ、これ」
 不思議に思ったレニが布をめくろうとすると、ウッツに手をつかまれた。
「まだだめだ。部屋が明るいままじゃ、驚かせてしまう」
「驚く? なにか、生き物が入っているのか?」
 布がかけられているせいで中に何が入っているかはうかがえないが、大きさからして小動物か虫だろう。ウッツは不思議がる二人の様子を満足げに見ながら、楽しそうに笑う。
「さあ、そろそろお披露目といこうか。そのために二人を呼んだんだから。ちょっと部屋を真っ暗にするけど、我慢してくれな」
 そう一言断ってから、ウッツは部屋を明るく照らしていたランプの火を消した。途端に部屋が真っ暗になり、アークは思わずきつく目を閉じた。目を開いてもなお何も見えない闇よりも、目を閉じて見える目蓋の奥の闇のほうが幾分ましに思えたのだ。
 ウッツが布をめくる、衣擦れの音がする。その気配を感じ取った直後、閉じた目蓋越しにぼんやりとした光を感じた。
「ウッツ、これ、まさか……すげぇ、俺初めて見た!」
 興奮気味のレニの声がする。ぼんやりとした光とレニの声につられて、アークはゆっくりと目を開けた。そして、思わず感嘆の息が漏れた。
 ウッツがめくった黒い布の下の四角いものは、虫籠だった。その中では、点滅する青白い光を抱いた一匹の蝶が、籠の中に渡された止まり木の上で静かに羽根を休めていた。真っ白な羽根には網目模様の青い筋が走り、腹には小さな水色の宝石の欠片を抱いている。どうやらこの青白い光は、蝶の腹に付いた宝石から発せられているようだ。
 アークとレニがもっとよく見ようと顔を近づけると、蝶は羽根を震わせた。すると、青白い光までもが怖がるように揺らめいてしまう。驚いた二人が顔を離すと、ウッツはその反応に満足したようににやりとした。
「驚いたか? こいつは貴石蝶――自身の腹で宝石を育てる、珍しい蝶さ」
 ウッツはそっと虫籠の扉を開け、潰してしまわないように細心の注意を払いながら貴石蝶を取り出し、掌で優しく包み込んだ。驚かせてしまったせいで一瞬光が消えそうになるものの、再び光り、指の隙間から漏れた光がウッツのうっとりとしたような表情を照らし出す。ウッツの手の中に大人しく収まっている貴石蝶を、アークとレニも今度はそっと覗き込んだ。
「貴石蝶はな、ガモース山脈のカロクグ十四坑道とか、同盟国にあるクリスタルバレーとかの原石が取れる場所にしか住まない蝶でさ。自分の体液を原石の欠片に滲みこませて、そうして育てた宝石を一生腹に抱くんだ――錬蝶石っていってな、すごく貴重な宝石なんだ」
「ジェノのディアナ洞穴では、乱獲が原因で数がかなり減ってるらしいな。その二の舞を防ぐために、同盟国じゃクリスタルバレーは国の保護区だ。……ウッツ、お前、これどうやって手に入れたんだ? 正規のルートで手に入れたら、目ン玉飛び出るくらい値が張るぞ!」
「そ、そんなにすごいものなの? この蝶……」
 アークが恐る恐るといったふうに蝶の光に手をかざすと、ウッツはゆっくりと掌を開いた。
「うちのお得意様に宝石好きの貴族がいてね。どうにか安く譲ってくれないかって、父さんのつてを頼りに頼み込んだんだ。おかげで相場と比べるとかなり、いや破格と言っていいほどの安価で譲ってもらえたけど、俺の長年の貯金はパァになったな。まぁ、そのための貯金だったから別にかまわないけど」
 そう言うウッツは、とても満足そうだった。アークが初めて知ったときは意外に思ったものだが、ウッツは宝石やその原石などの綺麗な石というものが好きなのだ。しかし滅多に手に入らないそれらの代わりなのか、ウッツの部屋には川べりで拾ったという珍しい色をした石が飾られている。
 ウッツの手から飛び立った蝶は、少し光を増し、真っ暗な空間に月明かりのような光を落とす。踊るようにふわふわと飛ぶ蝶の光は、ウッツの部屋をなんとも幻想的な空間へと変えた。
 しばらくの間、三人は部屋を舞う貴石蝶の光に見入っていた。レニは床に、ウッツは自分のベッドに寝そべり、アークは椅子に腰掛けてぼんやりと蝶を眺めた。机の上のランプ、本棚に並ぶ様々な題名が書かれた背表紙、壁に飾られている初めてウッツが鍛えた短剣――順番にそれらを照らして行き、最後に本棚の上に飾られた石に止まった。何かの鉱物なのか、黄色い粒を含んだ石が蝶の青白い光を受けて、さながら星のようにきらりと光る。
 蝶の光に照らされる光景には心を奪われる。しかし、やはり点滅する光がうつろうたびに背筋がざわついた。今にも闇に溶けて消えてしまいそうな不安定さが、色々な悩みを抱えている自分自身の心に重なる。
「……最近、良くない事が続くよな」
 ふとアークが漏らした言葉に、レニとウッツが顔を上げた。
「イラの増加、ブランカ陥落、バルクラム討伐失敗、それに――」
 このまま話してしまえばいい――そう思ったが、言葉が続かなかった。
「他の人には全然聞こえなかったみたいなんだけど、イラの声を聞いたんだ。もしかして、僕って頭おかしい?」
 そう言う自分の姿を想像し、内心自嘲した。これだけで済むならまだいい。一度話し出したら、もっと意味不明な言葉で喚きだすに違いない。幼い子供のように、受け入れられない事を拒否して喚くようなことはしたくない。そんなアークの意固地さもあいまって、その先の言葉は出ることはなかった。
「……確かに、変なことばっかりだよな」
 言葉を失ったままのアークの変わりに、レニが続けた。
「そのおかげで、町の人たちの雰囲気も悪いんだぜ。幽罪の庭炎上は過激派と保守派の間に軋轢を生んでるし、負け続きの騎士団へも不満が募ってる」
「……王女殿下への疑惑も、な」
 ため息混じりに続けたウッツの言葉に同意するように、レニも深いため息をついた。
「まったく馬鹿みたいな話だぜ。ゴディバ王女が同盟国と通じてるんじゃないか、なんて噂、一体誰が流したんだ」
 ブランカは応援を要請していないのに、エイルダーレからの応援は来た。そう言っていたオレンの言葉を思い出す。王女が同盟国の動向を、なんらかの方法で察知していたという事だ。フランベルグ内の、誰も知らない方法で――。その噂は騎士団内のみならず王都内でも囁かれ始め、王女に暗い影を落としていた。
「ああやだやだ。最近耳にすることといったら何が信じられない、誰が信じられないだのそうゆう暗い事ばっかりだ! 人間不信になりそうだぜ」
「そうだな……僕たちは、一体何を、誰を信じればいいんだろう。いろんな情報が交錯しすぎて、何が正しいことか分からなくなる」
 頭をひねる二人をよそに、ウッツは軽い調子で「そうか?」と返した。
「自分が信じたい事を信じればいいのさ」
「……そんなに簡単なことなのかな?」
 アークの問いに、ああそうさ、とウッツは頷く。
「教会の教えも、騎士団の力も、王女殿下のことだって、所詮は自分の考えの方向を決めるための要素の一つでしかないんだ。そしてそれが正しいのかなんて、信じるということにおいては重要じゃない。自分自身が受け入れられるかどうかなんだ」
「ずいぶんなことだな。信じたいものだけ信じて、信じたくないことは拒絶するってか」
「大多数の人はそうだろ。事実、過激派は自分の信じたいことだけを信じているじゃないか。『重きを置くべきなのは純血。人間は亜人よりも清廉な種族だ』ってな」
「よそうぜ、亜人の話は。苛々する」
「ほら、それも拒絶だ。お前は戦場で対峙する亜人の姿しか見ようとしていない。もっと視野を広げろ。同盟国にはきっと俺達と同じように生活を営み、家族を大切にしている亜人がいる。そうゆう俺達と何も変わらない人達と戦争して、憎しみの対象としているんだ。お前は」
「うるさい! やめてくれ……」
 ウッツの追及に耐えかね、レニが頭を抱えて小さくなる。ウッツはなおも言葉を続けた。
「信じがたい事実に向き合うより、耳を塞いだり、ごまかしたり、誰かのせいにしたりするほうがはるかに楽で都合がいい。でも……本当はそれじゃいけないんだと、俺は思うよ。受け入れることが困難なものからこそ、目を逸らしちゃいけない。多くの事実を見たうえで、何が自分にとっての『信じるべき事』なのかを判断しなくちゃいけないんだ」
「ウッツは……厳しいな」
 ウッツの言葉が胸に刺さるようだ。レニだけでなく、今の自分の心境を見透かすかのようなウッツの台詞に、アークは誰に言うでもなく一人ごちる。それを聞き拾ったウッツは、「理想論さ」と肩をすくめた。
「俺だって分からないことだらけだよ。今自分が言った事の半分もこなせてない。いろんなことに混乱して、目を逸らしてる。正直、いくら綺麗事言ったってレニと同じように亜人が憎いと思う時だってある。……でもな、これだけははっきり言えるぜ」
 にかっと屈託なのない笑みを浮かべながら、ウッツはこう言い切った。
「家族と――お前らは信じられる。今の俺にはそれで十分だ」

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