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 いつもお世話になっているから、胸の中で言い訳がましく呟きながらわたしは二つの紙袋をぶら下げて鹿楓堂へと赴いた。
「いらっしゃいませ」
 普段と変わることなく素敵な笑みを浮かべるスイさんは、席へと案内してくれた。
「本日はお茶とお食事どちらのご利用ですか?」
「うーん……食事で」
「かしこまりました」
 何を食べよう。甘いのもしょっぱいのも美味しくいただきたいので、食事は少し軽めにしておきたい。お茶漬けセットとかかなあ。軽すぎたらデザートを多めにすればいいか。ここのご飯は何を食べても間違いないのは分かっているからありがたい。
 ここに着いた途端ご飯のことで頭がいっぱいになってしまった。このままだとわたしの手元にある紙袋を持ち帰る羽目になってしまう。
 今日は2月13日。わたしの手元にあるのは有名チョコレート店のショコラたち。そう、わたしは鹿楓堂の皆さんにバレンタインのチョコレートを渡すべくやってきたのだ。ひとつは鹿楓堂のみなさんに。もうひとつは、つばきさんひとりの分だ。みなさんへ、はともかくつばきさんへ渡す理由がうまく見つけられなかったのでこうして来たもののうだうだと悩んでいるのだ。別に明日もお店に来ることができたのに当日だと本気っぽくてまずい気がしてわざわざ今日にした。いや、まあ一応本命チョコではあるんだけど……! 悟られたらお店に行きづらくなるからうまい言い訳をつばきさんが来るまでには考えておきたい。いつもデザートを持ってきてくれるのがつばきさんなので、多分それが来るまでは時間があるはずだ。

「う〜ん……」
「お冷お注ぎしますね」
「ありがとうございます。注文もいいですか?」
「もちろん!」
 やたらと緊張しているから、真冬にも関わらず水を飲む手が止まってくれない。ぐれさんはわたしが緊張しているなんて思っていないだろうな。
「チョコレートですか?」
「うぇっ?!」
 ぐれさんからの予想外の攻撃に、汚い声を出してしまった。ぐれさんも流石にわたしの声にびっくりしたようだ。他のお客さんの迷惑になっていないのを祈る。
「驚かせてすみません。お席に見覚えのある紙袋があったので」
「い、いえ……」
 まさかぐれさんにチョコレートの話を振られるとは思ってなかったからびっくりしてしまった。
「ちなみに、見覚えっていうのは……?」
「つばきくんがここの限定チョコレートが食べたいって言っていたんですよね」
 ネット販売限定で即時完売だったとしばらく悔しがっていたんですよ、とのことだ。つばきさん、チョコレートも自分で買ったりしているのか。研究熱心だなあ。わたしも有名なところの限定チョコレートがいいだろうと色々リサーチして頑張ってみたのだが、偶然にも最適解を選べたようだ。
「あ、つばきさんが欲しがっていた奴かはわからないんですけど。これ、今日鹿楓堂さんにって持ってきてたんで渡しておきますね」
「本当ですか!」
 つばきくん喜びますよ! ありがとうございます! とぐれさんは眩しい笑顔を向けてくれた。
 今日用意していた紙袋のうち、一つを渡すことができた。つばきさんが喜ぶってわかっただけでもう一つも渡せそうな気がする。食事やドリンクを持ってくるときに、スイさんとときたかさんは先程のチョコレートのお礼を言いにきてくれた。みんな来るってことは、多分、つばきさんも来るだろう。わかっていたことなのに落ち着かない。これを食べ終わるとつばきさんが来る、と思うといつもよりご飯を食べるのが遅くなってしまった。
 食事を済ませて15分ほど経つと、向こうから心なしかそわそわしている様に見えるつばきさんがやってきた。手には頼んでいたデザートがある。

「シフォンケーキお持ちしました」
「ありがとうございます」
「なまえさん、ありがとうございます」
 アレ、結構買うの大変でしたよね? なのにいいんですか? と質問が続く。たしかに前評判で例年即時完売と聞いていたので販売開始時は何回かサイトから追い出されたりもしたのだが、粘った結果運がいいことに上限いっぱい買うことができたのだ。
「鹿楓堂さんにはいつもお世話になってるので美味しいもので返したかったんです」
 この流れなら、いけるだろうか……というか、つばきさんはあんまり接客をしないしこの後席に来てくれるかがわからないので今渡すしかない。さっきのやつ今渡したほうがよかった気がする。そう考えたところでもうどうにもならないけど。
「それで、これはつばきさんの分です……」
「えっ」
 さすがに自分用があると思っていなかったようで、とても驚いているのがよくわかる。
「そんな、悪いですよ……」
 そう言いつつもつばきさんは紙袋の中身に興味を示している。よっぽどここのお菓子が食べたかったのだろう。
「特にここでは甘いもの食べてるんで。甘味担当のつばきさんには個別にお礼がしたかったんです!」
「そういうことなら……」
 いいのかな……と小声で呟きながらもつばきさんは受け取ってくれた。正直理屈はめちゃくちゃだと思うけど限定スイーツのお陰で押し切ることができてよかった。
「本当にありがとうございます。大事に食べます」
「どういたしまして」


 常連のなまえさんから限定のお菓子を頂いた。以前自分で買えなかったものなのでとてもありがたい。何かしらの形で御礼をしないとだ。お菓子が入った紙袋を片手に厨房に戻ると、ぐれがニヤニヤとしている。なんだよ。

「それもなまえさんから貰ったの?」
「そうだけど、ぐれの分はさっきのだけだよ」
「十分だよ。なまえさんにはお返ししないとだね」
「わかってるよ。次来た時に甘味サービスとかでいいかな……でも貰ったやつ結構いいのだし足りないかな……」
「そういうのじゃなくて、来月の半ばぐらいに何かしらした方がいいと思うけどなあ……」
 何でわざわざ来月まで先延ばしにするんだ。意味がわからないと言わんばかりの視線をぐれに向けていたらわかってないの?! と驚かれた。ぐれにそう言われるのは非常に癪だ。
「つばきくん。明日何日かわかる?」
「14日……」
 明日は2月14日。…………バレンタインデーだ。店にそういうイベントがないから失念していた。確かに僕は毎年チョコレート系の菓子の限定商品などを買い漁っているのだが、大体1月頭から後半にかけてそれが終わるので本番であるバレンタインの事は完全に頭から抜け落ちていた。なまえさんからのこれは、バレンタインの贈り物ってことか。そう気づいた途端にむず痒い感覚に襲われるのがわかる。
 次なまえさんに会った時、どんな風に振る舞えばいいのだろうか。色々思うところはあるが、とりあえず手にしているこれは大切に食べないとだ。

20210422