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※成人済み設定※

 大学生最後の夏休みに、地元へと帰ってきた。久々に友達に会ったり、色々と目的はあるが今回の帰省では絶対に行かなければならないところがある。わたしが勝手にそう思っているだけだけど。
 とあるお店の前に立つ。心臓の音が早くなるのがわかる。このお店に入るのにここまで緊張しているのはわたしだけだろう。本当は噂を聞いてから帰省の度に行こうと思っていたのにここまで引き延ばしてしまった。今回でどうにかしないとずっとどうすることもできない気がする。ええい、どうにでもなれ。
「いらっしゃ……みょうじ?」
「あ、黒川くん。ひさしぶり」
 わたしがずっと行くか否かで迷っていたのは大衆食堂よしなりという、黒川くんが働いているお店だ。店内は予想より賑わっていた。黒川くんは空いているカウンターを案内してくれた。黒川くん、わたしのこと覚えていてくれたんだ。これだけで既にうれしい。
「こっち座れよ」
「ありがとう。お店すごい賑わってるね」
「あー……翼のお陰というか、せいっていうかな」
「椎名先輩?」
 黒川くん曰く、椎名先輩がお店の宣伝をしてからサッカーのサポーターが押し寄せてくるようになったらしい。今日も近くで試合があったからこれから今以上に混むかもしれないとのことだ。椎名先輩、今だと有名なサッカー選手だもんね。中学の頃も応援の女の子がすごかったのを覚えている。わたしはその陰で、黒川くんを見ていたなあ。十年近く前のわたしは今でも黒川くんに憧れているなんて思ってもいないだろうな。
「みょうじ地方の大学行ってたよな。見かけるの成人式ぶりか?」
「それ以外でもちょくちょく帰ってきてるけど、黒川くんには会えないもんね」
 黒川くんに会えなくて残念みたいな口振りになってしまった。いや事実なんだけども。もう少し徐々にそういう風に持って行きたかったのに……! ほら黒川くん怪訝そうにわたしのこと見てる!
「今日って、どっか行ったのか?」
「へ?」
 予想外の言葉に、思わず間抜けな声が漏れる。今日は家でここに来るか悩んでいたが、ここまでに寄り道とかはしていない。
「いや、何か中学の時とは違う……か、感じの格好してるから」
 みょうじってラフな私服のイメージ強かったからさ、と黒川くんは付け足して言うが、わたしの心のざわつきがすごい。いつも以上にお洒落してきてよかった。ただ、わたしは中学の頃ジャージとかで近所をうろついてた記憶がある。黒川くんが言っているのはそれのことだろうからそう連想させてしまったのは恥ずかしい。でも覚えていてくれてうれしい。など、感情の渋滞を起こしている。いやまあここは素直に喜んでおこう。こうして黒川くんと会話が弾んでいるのもありがたい。
「今年大学卒業だよな」
「うん。就職はこっちだから、卒業したら実家戻るんだ」
「そっか」
「そっちで出来た友達とかと会いづらくなるな」
「うーん、そればっかりは仕方ないよね」
「彼氏とかもな」
 彼氏なんかいないよと否定したのと、お店に団体のお客さんが押し寄せてきたのはほとんど同時だった。服装から察するにさっき言っていたサポーターだろうな。黒川くんは慣れた様子で案内していた。
 この後、わたしが注文をしてからご飯を食べ終わるまでの間黒川くんはお客さんの対応に入ってしまったので、結局最初の五分ぐらいしかお話することができなかった。勇気を振り絞ってきたので、もう少し話したりあわよくば連絡先の交換とか出来ればなあ……などと思っていたが無理そうだ。お店の料理は美味しかったし(なぜか雰囲気にそぐわないジェラートがあったけど)黒川くんとちょっと喋れただけ良しとしよう。
 また夏休み中にお店に行ったらお話できるかなと思ったが、常連さんの話に耳を傾けた限り連日忙しそうだし、そんな中不純な動機で何度も足を運ぶのは気が引ける。学生最後の夏だからと頑張ってみたが、これで終わりなんてあっけない。
 黒川くんわたしに彼氏がいてもおかしくない、みたいな感じで言っていたが、否定したのは聞こえたのだろうか。別にわたしなんかに彼氏がいてもいなくても気にしないかもしれないけど……自分で言っておいて堪える。
 賑やかな客席の方に視線をやると、黒川くんはお客さんと話しているようだ。最後に挨拶したかったけど、難しそうだったので別の店員さんに声をお会計を頼んでお店を後にすることにした。
 夏休み中にお店が空いている日があればいいなあ、なんて少し罰当たりなことを考えてしまうのは許してほしい。家までの足取りが重い。

「みょうじ、忘れ物!」
 あまりにも求めていたための幻聴かと耳を疑いながらも振り返ると、黒川くんがいる。幻聴じゃない、うれしい。忘れ物をしたわたし、無意識とはいえよくやった。ただ、黒川くんを見る限り、何も持っていないようだ。
「悪い、忘れ物ってのは嘘。ちょっとみょうじと話したくてさ」
「え、あ……おみせ、大丈夫……?」
 今度こそ幻聴なのかもしれない。黒川くんが、わたしと話したいって言うなんて。わたしの見当違いもいいところな答えに黒川くんは、今一段落して休憩もらえたから平気だって笑ってくれた。この、黒川くんのちょっと悪戯っぽい笑い方が中学の時から好きだったんだよなあ。
「ごめんな。最初話しかけておいたくせに最後あんなんで」
「ううん、お仕事だから大丈夫だよ! 今度は空いている時を見計らって行くね」
「あー……有り難いことに夏はずっと忙しいな。みょうじ、夏休み終わったらまた大学のほう行くだろ」
「そ、そうだね……」
 これは、遠回しにもうお店には来るなっていうアレだろうか。いや、黒川くん嫌だったらもっとストレートに断ってくれるはずだ。

「……うちの店じゃなくて、普通に休みの日とかに飯行こうぜ」
「え」
「あんなデカい声で否定しなくても聞こえてたし」
 俺としては助かったけど、と呟いた黒川くんの声はさっきまでのお店の中だと聞き取れないであろう程小さい。黒川くんはまた悪戯っぽい笑みを浮かべるが、わたしはどうすればいいのかわからない。わかるのは終わったと思っていたわたしの夏は、これから始まることだけだ。

20180816