text log | ナノ
 誰も言葉を発していない部屋は、本のページを捲る音がよく聞こえる。そのページを捲っている人の目元には近くを見るための眼鏡がある。
 わざわざよく見えるように眼鏡を掛けられて、あの手で触れられている本が少しばかり、いや、かなり羨ましい。
 せっかく二人きりなのに、仁亮さんは本とにらめっこばかりしている。溜まっていた衣類は洗濯機の中で音を立てながら回っている。シンクで窮屈そうにしていた食器も全部洗った。仁亮さんは私が来ない間何もしない。私が来るのをわかっているから。それに乗せられて悔しい自分と、それを行っているという優越感を感じている自分がいた。それはいいとして、もうここでやるべきことはほとんど終わった。あとは仁亮さんと甘い時間を過ごすだけ。しかしあの人のレンズ越しの視線は本に捉えられたままでこちらに向けられることはない。ずるい、私だってあそこまで熱心に見つめられた覚えなんてない。隣に座って寄り添ってみても間延びした声をあげただけで相変わらず本と終わりそうにないにらめっこを続けている。
 そろそろ、こちらを向いてほしい。
「中谷監督」
 以前のよそよそしい呼び方をしたら、あまりお気に召さなかったようで少し眉間に皺を寄せながらこちらを振り向いた。仁亮さんがいつもより幼い表情を私に向けている。それだけで満たされる気が……いや、今日の私はもう少しばかり我が儘になっても許されるはずだ。
「その本、面白いんですか?」
 不満をこめた声で問い掛けると仁亮さんは再び間延びした声をあげ、こちらをレンズ越しに見つめ本を閉じた。先程まであの人の意識が向けられていた本はもう敵ではない。ただの無機物に成り下がった。ざまあみろ、心の中で呟いてみたが当然誰かに返されるといったことはなかった。
 仁亮さんは私の方を見てから何かアクションを起こすわけでもない。ただ、こちらを見ているだけ。こういうときも私が動くまで何もせずにこちらに委ねるなんてずるい。それなら何したって文句は言わせないからね。
 頬に手を差しのべる。当たり前だが私のそれとは全然違う肌触りだ。
 顔を近づけようとすると、仁亮さんの手で制されてしまった。頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。これから何をしようかわかった上で止めるなんて。今まで何かをするわけでもなく、好きにさせておいてこんなところで拒むなんて何て酷な人なのだろう。
「それをするのに、これは邪魔だな」
 そう言うと仁亮さんは眼鏡を外した。裸になった視線と絡む。この人は多分、ほとんど何も考えていない。それなのに自分はここまで振り回され、乱されている。 どこまでも罪作りな人だ。そんな人に合わせられるのは私だけでいい。そんな思いを不意に溢さないように、罪作りな人のそれで蓋をした。

20130127