text log | ナノ
 忘れることができない人がいる。掴み所がなく、ぼんやりとした女性で、とても優しい人だった。
 彼女は幼い自分にピアノを教えてくれた。彼女は自分がコンクールで良い成績を取った時は誰よりも喜んでくれた。彼女が辞めた後も何人かに教わったのだが、彼女以上に熱心な人はいなかった。彼女、なまえさんに抱いていた感情が尊敬なのか、恋慕なのかはあの日が来るまで自分にはよくわからなかった。
「私ね、来週からウィーンに行くの」
 だから真太郎くんにピアノを教えるのが今日で最後なんだ、なまえさんが何を言っているのかを理解するのには幾らか時間が掛かった。なまえさんはまた来週とでも言いそうな口ぶりで、自分にそう告げた。今思い返してみるとその日のレッスンはいつもより些か指の動きが悪かったと思う。この曲が終わるとなまえさんが遠くへと行ってしまう。自分の指が重くなる理由はそれだけで十分だった。時間の経過がいつも以上に早かった気がする。
「じゃあね、真太郎くん」
 時間は呆気なく過ぎていった。レッスンが終わり、部屋から出ていこうとするなまえさんの服の裾を掴んだ。なまえさんは此方を見て困ったように笑う。今別れるまでの時間が少し長引いたとしてもなまえさんが行ってしまうことには変わりはないのに幼い自分はそうせずにはいられなかった。
「なまえせんせ、」
 絞り出すような声で小さく呟くとなまえさんは真太郎くんはずるいね、と言い裾を掴んでいた自分の手を握った。
「せっかく人がきれいにお別れしようとしたのに、そんな顔で、そんな目で見てくるなんて」
 なまえさんに目尻を撫でられて、初めて自分が涙を流していることに気づいた。女々しい自分に少し嫌気がさしたが、なまえさんが涙を拭ってくれることに心のどこかで喜んだ覚えがある。
「そんな泣き虫な真太郎くんにおまじないを掛けてあげる」
 目尻と頬に柔らかなものが落とされる。柔らかなそれの正体を知るのにあまり時間は掛からなかった。当時の自分は幼かったがその行為が何なのかわからないほど無知ではなかった。口づけ、接吻。なまえさんは、自分の顔中に唇を落とした。ただ、一点を除いて。
「ここを、私が奪うのは狡いからね」
 いつか本当に大事な子に捧げてね、とオレの唇を恭しく撫でながらそう紡いだ。気づけば頬に伝っていた涙は渇いていた。
 なまえさんが部屋を出ていったときのことはあまり記憶にない。なまえさんの行為に逆上せていたのか、泣きつかれたのかわからないが意識が明確になったときに自分はベッドに横たわっていて、その時には既になまえさんはその場を後にしていた。その後、なまえさんには会っていない。
 忘れられない女性、なまえさんに関する記憶は以上だ。今となってはもう遅いが自分がなまえさんに抱いていた感情は間違いなく恋心だったのだろう。年齢、距離、彼女と自分を阻む様々なものは正直憎たらしい。が、そのようなことを言っていても何も変わりはしないというのは百も承知だ。いつか彼女に相応しい男になるために、今日もオレは人事を尽くす。

20121004