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 扉の前に立つと、仄かにコーヒーの匂いがする。独特のリズムで扉を叩くと先生が顔を出した。丁度いい頃に来ましたね、という先生の言葉に先生のことはお見通しだものと言いたかったのだが、ただHRが終わるタイミングが良かっただけなのでそれらの言葉は飲み込んでおいた。部屋へと入る前に一度、廊下を見渡す。誰もいないようだ。別に見られて困るようなことはしていないけれど、何となく。私が部屋に入ると先生は鍵を閉めた。以前に行為の意図を聞いたのだが先生の行為にも特に意味はないようだ。
 部屋は、化学準備室はコーヒーと薬品が混ざりあったような匂いがする。今はコーヒーの香りの方が強いかな。ハンガーに白衣が掛かっている。先程まではあれを着ていたんだろうな。今日は化学の授業がなかったから、先生が白衣を纏っている姿を目にすることができなかったな。先生にもう一度着てと頼んだら、若い子はよくわかりませんねと苦笑しつつも受け入れてくれた。先生の白衣姿はとても素敵だ。先生は棚にあるマグカップを取り出して、私に注いでくれた。最初に尋ねていた頃のマグカップは、棚に並んでいる他のそれと似たようなデザインだったのだけど、ある日を境に私の趣味に合う、好みのデザインのものに変わったのを覚えている。ここにいることを許されたようで、とても嬉しかった。
 渡されたコーヒーをひとくち。舌が、喉がそれを受け入れる。私は、先生の淹れたコーヒーを飲むまでコーヒーというものが飲めなかった。今は先生が淹れてくれたコーヒーは飲むことができる。先生のコーヒーを飲むようになってから、他のものは飲んでいないので、コーヒー自体が克服できたかはまだわからないのだが。
 マグカップを片手に、私達は他愛ない会話をする。先生はバスケ部の監督で、いつもエースに手を焼いているらしい。そのエースは、青峰くんというらしい。そういえばクラスにそんな人がいたような、いなかったような。その人は、練習をよく休むらしい。先生の今のこれは、サボりに入らないのかと心にもないことを尋ねる。本当はまだ一緒にいたいのに。部員には指示を出しているし、自分には教師としての仕事もあり、今もその仕事をこなしているから大丈夫でしょうというのが先生の答えだった。そういう先生の手には、今度の授業で使われるであろうプリントがあった。
 そろそろ部活の方に行きますので、と先生は私にとって、とても残酷なことを告げた。どうやら、時間が来たようだ。先生は部活に不要であろう白衣を脱ぐべく手を掛けた。その姿を私は記憶のフィルムに焼き付けるように凝視した。先生の白衣姿は明日もみれるだろうけど、そうしなければ気が済まないのだ。
 ゆっくりとドアを開け、先程入るときのように誰もいないかを確認する。放課後の廊下はがらんとしていて、やはり誰もいなかった。振り返り先生に、また来るねと言うとなまえさんが来るの、楽しみに待ってますよと返された。先生は、コーヒーを淹れることも、私を喜ばせるのも上手だ。先生以外の人が淹れたコーヒーなんて飲んだことがないから先生が上手なのかはよくわからないけど。私はその場を後にした。
 帰り際に自販機を見掛け、何となく小銭を入れ、何となく缶コーヒーを購入した。それは頻繁にCMで見掛ける奴だった。プルタブを引き、戻しコーヒーを口に含む。含んではみたが私の舌はそれ以上受け入れることができず、咳き込んでしまった。どうやら私はコーヒーを克服できたわけではなかったようだ。
 それに対して特に悲観することもなかった。私は先生の淹れたコーヒーだけ飲めさえすればいい。この先も、ずっと。これを先生に告げたらどのような顔をするのだろうか。きっと困ったように笑うんだろうな、あの人は。缶の中の液体を片手で揺らしつつ、そんなことを考えた。

20120930