その夜はあまりにもいろいろなことが起こりすぎて、あとから思い出したときにとても一夜の出来事とは思えなかった。

どうして銀仮面が、彼が今身を置くのはルシタニア軍であるはずなのに、その本拠地に乗り込んでくるのか、一瞬理解できなかった。
しかしその混乱の渦のなか、いちはやく動いたのはメルレインだった。
いつの間にか窓枠から飛び降りた彼は、弓を構えて周りを威嚇しながら素早くミトに近付いた。ギスカールはすでに兵士に守られるようにして後ろに退かされており、ミトの傍から離れていた。
そうして呆然としているミトを背負って、盗賊さながら、混乱に乗じて窓を蹴破って逃走したのであった。
「ミトをどこへ連れていく!?」というギスカールの怒鳴り声を背中に浴びながら。




「……何がどうなっている?」

見知らぬ王宮を走り抜けながら、メルレインは背中にしがみついているミトに訊いた。

「んー……何から話す?」
「……ひとまずは、今の状況からだ。なぜ銀仮面が乗り込んできた?それから、イリーナ殿下はどうした」
「イリーナさまは……そっか……」

そこでミトはようやく気が付いた。
――銀仮面は、イリーナを救出するために動いたのだ。もともとルシタニアからいつか離れるつもりだったのかもしれないが、彼の目的はイリーナに違いない。
そういうことならば、必ず彼はイリーナを助け出すだろう。ルシタニアに反旗を翻す恰好となった今、もはやイリーナ以外に彼が失うものはなかった。他のなによりもその目的を優先するはずなのだ。
そのときに自分たちがいては逆に面倒なことになるかもしれない、と思い至り、ミトはやや目伏せた。

「イリーナさまは大丈夫だと思う。きっとヒルメスが助けてくれるから。私たちは逃げましょう」
「逃げるってどこへだ」
「まあ、アルスラーン殿下の軍に合流するしかないけどね。だからとりあえず東かな」
「……」



***



ミトたちは混乱と暴動が渦巻く王宮を逃げまわっていたが、突然目の前に騎馬が踊り出てきて、行手をふさいだ。
思わず戦闘態勢に入るが、「ミト!メルレインどの!」という優しい声が聞こえ、剣の柄から手を離す。

「イリーナさま!ご無事で!」
「ああ、ふたりとも、無事で何よりです」

イリーナは盲目の瞳からぽろぽろと涙を流していた。彼女は馬に乗っていたが、その小さな肩を抱くのは、ミトの予想したとおりの人物――ヒルメスであった。さっそく彼女をみつけだし、ルシタニアの手から救い出してくれたらしい。
やっと素直になれたのか、とミトは少し安心し、同時に寂しくもなった。
イリーナを護る役目もここまでだ、と思ったのだ。

「ミト、メルレイン殿。これまで私を助けてくれたこと、心から感謝します」
「俺は、別に……」

メルレインもミトと同じ気持ちだったようだ。
彼女のために、と想ってここまで連れてきたけれど、結局彼女は好いている男と一緒にどこかへ行ってしまう。自分は報われないままで。だがきっと、最初からそれで構わないと思っていた。承知していたはずだった。
そう考えてメルレインは顔をあげた。

「イリーナ殿下。どうか貴方のこれからの人生が幸せで満ち満ちていますように」

彼が突然正式な礼をしたので、ミトは少し驚いた。これではまるで決別じゃないか、と。
しかし薄々気付いていたのかもしれない。彼女との旅の終わりには、別れが必ずあるということを。
ミトはふわりと笑うと、ヒルメスに「イリーナさまをお願いします」と頭を下げた。
それとほぼ同時に、ルシタニア兵が怒号を響かせながら、ミトたちのいる庭に雪崩れ込んできた。
もう行かなくては。ヒルメスは手綱を強く引いた。馬がいななく。

「ミト。約束してください。あなたは、必ず生きて」
「もちろんです。イリーナさまも……」

消えそうなほど繊細な表情を見て、ミトは胸がいっぱいになった。ひょっとしたら、ここで別れてしまったら、本当にもう二度と会えなくなる気がした。

「せいぜい生き延びるのだな、ミト。ま、おぬしが死ぬことはあるまいが」
「……あなたこそ、ちゃんと守ってさしあげてよね」

ヒルメスの背に向けて弓を放とうとした兵がいたが、ミトはそれを射倒して、しっかりと頷いて見せた。彼はフンと鼻を鳴らす。

「……ミト。また俺を救いに来い」
「……え?」

そんなことを言ってヒルメスたちは去っていった。
最後に言われたことがなんのことかわからず、立ち尽くしていたミトの腕をメルレインが引き、王宮脱出のためまた走り出した。



***



なんとか王宮の外へ出て、エクバターナの街を駆けまわってようやく王都から脱出することが出来た。
街の外は真夜中らしくしんと静まりかえっていた。王宮の喧騒が風に乗ってかすかに聞こえてくるだけだ。


日が落ちてしまい王都へ入れなかった旅人たちが集まる場所があり、ミトたちはそこへ身を潜めることにした。

「はあ……」
「……」
「助けてくれてありがと、メルレイン」

そういえばお礼を言いそこねていた、と思ってちらっと横を見ると、メルレインはばつの悪そうな顔をしていた。

「……いや、俺はあんたを殺しかけた」
「あ、そういえばそうだった」
「そうだ、なぜ王弟を守った?お前が死ぬところだったんだぞ!」

ミトが矢の軌道上に飛び出してきたことに心底怒っているみたいで、メルレインは眉をつりあげていた。

「私は死なないってば」
「そういうことじゃない」

彼も引き下がらない様子だったので、ミトは観念したように「実は、ナルサスに言われたから」と呟いた。

「もしギスカールを殺せる機会があったとしても殺すなって言われたの。利用する価値のある男だからって」
「……何?そんなことであいつを助けたのか?」
「そうだよ。……あれでよかったのか、よくわからないけど」

メルレインは呆れて目を丸くしていた。好きな人から「殺すな」と言われたから、敵国の指導者を命がけで救ったなんて、どうかしていると思ったようだった。
ミト自身としては、ギスカールとも不思議な繋がりがあったことを知り、ますます自分のことがわからなくなっていた。ナルサスたちと離れてから、奇妙な縁や謎が増えるばかりで、結局のところ自分のことは少しも知るところがない。

「フン、またナルサスか。早く会ってみたいものだな」

鼻をならして、メルレインは肩を竦めた。ミトとともにいると「ナルサス」の話ばかり聞かされるので、すっかりその名前も耳に馴染んでしまっていたようだ。

「会いに行こう。さっき言ったとおり、東に行ってアルスラーン殿下に会って……」
「……いや、俺は王太子殿下の軍へは行かない」
「え?」

急にそう言われてミトは目を丸くした。彼も当然一緒に来るものだと思っていたのだ。

「俺はその軍の仲間入りはしないと言ったのだ」
「どうして?」
「俺はゾット族だ。誰の指図も受けるつもりはない。お前が王太子に会うまでは一緒にいてやってもいいが、誰かの下につくなど……」

ミトは驚いて思わず立ち上がってしまっていた。雷にうたれたみたいな衝撃が一瞬駆け抜けたのだ。
今度はメルレインがぽかんとして首を傾げる。
ミトは震える唇を動かして、「いま、ゾット族って言った?」と訊く。

「ああ、言った。お前に言ってなかったか?」
「いま初めて聞いた。そ、それで、最初に会ったとき、人を探してるって言ってたよね……?」
「ああ……」
「その人の名前って、もしかして……」
「……アルフリード。俺の妹だ」

ミトはへなへなと座り込んだ。肩を落とし、がっくりとうなだれて「マジか……」と漏らす。

「どうしてはやく訊かなかったんだろう」
「一体なんだ」
「アルフリードなら、アルスラーン殿下と一緒に行動してるよ」
「なんだと?」

また、奇妙な偶然が。
彼はあのアルフリードの兄だったのだ。
最初にゾット族だと聞いていれば、すぐにピンに決まっている。それが、なぜかこの場面になってはじめて聞くことになった。これもまた運命とやらなんだろうか。
もしも先に聞いていたら、今夜のエクバターナの混乱に巻き込まれることもなかったに違いない。

結局、彼はアルフリードに会う必要があるから、とりあえずミトと一緒に王太子の軍を目指すことにした。

本来国や王といったものには一切仕えることのないゾット族の、しかも族長の娘であるアルフリードがなぜ王太子と共にいるのか、メルレインはおおいに不思議がっていたが、ミトはとくに説明しなかった。

「自分で聞いてみて」と言うしかない。妹の恋についてあれこれと言う立場になかった、とくにミトの場合は。


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