それから数日後。
ミトがいつもの不思議な夢から目覚め、いつも通りあの大きな屋敷の中へ入れなかったことにもはや落胆もしなくなった頃だった。
ぼんやりとした顔を洗おうと部屋から出ると、ナルサスとばったり会った。

「ちょうどよかった、ミト。おぬしに見せたいものがあるのだが」

いや、偶然会ったというより、彼がミトに用事があって探していたらしい。

「ナルサス、見せたいものって?」
「あとで俺の部屋まで来てくれぬか」
「いいですけど……私が自分の部屋にナルサスを簡単に入れることにはいい顔しないのに、自分の部屋には簡単に招くんですね?」
「俺に悪意はないのだから別に問題ないだろう」

ミトは少し笑いながら「では、支度をしてから行きます」と言って別れた。




そうして、ナルサスの部屋へ行ってみると、彼はミトにソファへ座るよう促し、やがて一枚の画布を持って現れた。

「……えーと、これは絵ですか?」
「そうだが」

ミトはそれを見た瞬間、あるひとつの思いに囚われて眉を寄せた。
自分はこれがなんだか知っているような気がする、と。

しかしナルサスの描いた絵を見るのは初めてだったので、その形容し難い出来に、果たして絵と呼んでもいいのかミトは迷った。とはいえ、絵だとわかると、今度はそこに描かれているものが概念として捉えられなくなり、何にでも見えるからなにか知っているような気がするのかもしれないと思えてくる。

「どうだ?けっこう自信作でな。無事にシンドゥラ遠征が終わったことだし、おぬしにも何か報奨をくれてやらねばと思ったのだが、地位や宝石といったものには興味がないだろう。そこで俺が絵を描いた。欲しければ持っていっていいぞ」

ナルサスは嬉しそうに話すが、ミトは返事をしなかった。その絵から目が放せなかったのだ。
不思議な感覚だった。上手いとか上手くないとかの次元ではなく、ただ、言葉にできない何かが心を揺さぶる。心というか、脳や記憶を――。
そして、ようやくミトの中でかたちとなって浮かび上がってきた光景に、今度は驚かずにはいられなかった。

「あ、あの、これはもしかして景色ですか?」
「話が少し噛み合ってない気がするが。そうだ」

エメラルドを砕いて流し込んだような色合いのものが、画布の下部に広がっていた。風に少しの波を立てて、音もなく佇む。

「これは、何ですか……」
「俺の故郷の湖を書いたものだ」

ナルサスの言葉を聞いて、それが湖なんだ、と思った瞬間、ミトの胸がざわつきはじめた。
この色を、景色を、私は知っている。心臓の音が身体の中でどくどくと鳴り、鼓膜が圧迫される。

「ナルサス、故郷って」
「……ダイラムのことだが」

そう聞いて、ミトは思わず立ち上がっていた。

「ミト、どうした?」
「い、いえ……すみません。その……わ、私なんかのために絵を描いてくれてありがとう、ナルサス」

心臓がうるさく鳴っていた。あまりの鼓動の速さに、一生分の呼吸をここで終わらせてしまいそうだった。
ミトは興奮で上気する頬を隠しもせず、急いでナルサスにお礼を言った。

あの湖は、この絵は、あの夢は、あの景色は、と頭の中でいろいろな事柄が浮かんで、消えず、まぶたの裏にまとわりつき、ほとんど混乱しきっていた。

「でもごめんなさい!受け取るのは保留にさせてください!荷物になるから……い、いや、私、少し考えることがあって……すみません!」

ミトは何かに付き動かされるようにして、あわてて部屋を飛び出していった。最後の言葉なんてほとんど意味がわからなかった。

残されたナルサスは、しばらくぽかんとしていたが、追うことはできなかった。あまりにも突然ミトが部屋を出て行ってしまったからだ。やがて溜息をつくと絵をしまい、ひとり窓辺に立った。

ちょうど、王太子の軍に加わりたいという各地の諸侯や領主たちが城門をくぐってきているところだった。
厳しい冬を乗り切った太陽からの柔らかな光をうけ、咲き乱れる街道の花を揺らしながら、その群れはゆっくりとした歩みを続けている。
ルシタニア追討令を出してから数日が経ち、これまで動くのを躊躇っていたパルス国内の勢力がペシャワールへ集結しつつあった。



一方のミトは、ペシャワール城内を行くあてもなく、ただ走り続けて、ようやく足が疲れるとどこともわからぬ場所でぼんやりと立ち止まった。
ほとんど無心で衝動的に走ってきただけだったから、止まるとまた頭が混乱してくる。
しかし荒い呼吸が整ってくるにつれ、心は落ち着ついた。頬につたう汗もそのままに、ミトはこれからのことについて考えはじめた。

あの湖、ナルサスの故郷のこと。そっくりな景色のミトの夢。

「わたしは……」

どうしたいか?と胸に問いかけた。
それは紛れも無く自分の声で、自分自身の奥深くに語りかける声だった。
答えはもう決まっていた。あのエメラルド色の風景が、頭から離れないのだ。


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