ルシタニア兵はうろたえたが、逃走か、ミトたちを人質にするか、誰も指示を出さないので結局パルス軍が包囲するまでその場で右往左往するという間抜けぶりだった。
その状態になってからようやく、一人の兵が剣をミトの喉にかけた。
パルス軍の間に緊張が走ったのを見て、ミトが人質として役に立つことを実感したらしい。

「それ以上近付くな!近付いたらこの女の首をはね飛ばすぞ!」
「……」

ルシタニア兵の声からは正気が失われていた。ミトの背筋に冷たい汗が流れた。これが恐怖だ、とミトは思った。
ガーデーヴィの投げた槍がミトの腕を掠めてから、自分の力について自信がなくなっていた。本当はミトに突き刺さるところを、かすり傷で済んだのか、加護の力が完全に失われたのかはわからない。わからないからこそ、この一人の兵士の剣が怖かったのだ。

兵を率いてきたのは、ナルサスだったようだ。
エラムは隙を見て逃げ出していたようで、ナルサスの傍でミトを助けるよう懇願していた。
ルシタニア兵たちは、このパルス軍の包囲から逃げ出すことはほぼ不可能に思われた。だからミトを人質にしているのだが、もうだめだとわかっては錯乱しミトを道連れにする可能性もあった。しかし――

「ちょ、ちょっとナルサス!」

パルス軍から一歩、二歩と進み出たナルサスを見て、彼の隣にいたはずのアルフリードは驚いて声をあげた。
ナルサスがルシタニア兵に向かって鋭い視線を放つと、動揺が彼らの中に広がった。

「おぬしら、パルスの領土で勝手にうろつかれては困るのだが、ここで何をしていた?」
「だ、黙れ、それ以上近付くな!近づくとこの女を……」
「やってみるがいい」

ナルサスが低く唸ると、ルシタニア兵の肩がぶるりと震えた。ミトは極度の緊張で立ち尽くしたままほとんど何も考えることができなかったが、ナルサスの迷いのない声がミトの心を揺さぶっていることだけははっきりとわかった。

「まあ、俺の前でそれが出来るならの話だが」

言葉を発しながら、ナルサスは馬を進め、小さくまとまったルシタニア兵たちに一歩ずつ迫っていた。
パルス軍から出てたった一騎でルシタニア兵たちに近付くナルサスに、兵たちもミトも気圧されていた。自分の力のこと、自分の生命のことなどがどうでもよくなってしまうくらい、その堂々たる姿に目を奪われてしまう。

「おぬしの剣が動いた瞬間、その腕を斬り落とす」

ナルサスは息を吐き、腰の剣を抜いた。すらりとした長剣を太陽にかざし、光を浴びた剣の熱気を吹き付けるように、ルシタニア兵に向けて突き出した。

「だが、おぬしの浅ましい剣ではミトにふれることも出来ぬだろうが」
「なっ……こ、殺してやる!」

止まっていた時間が動き出したように、ついにルシタニア兵が声をあげ、剣を振り上げた。
次の瞬間には、ナルサスの言葉どおり、彼の胴体と腕とは切り離されてしまったのだが。

「俺の大事なものを二つも奪おうとしたこと、地獄で後悔するのだな」

それを合図に、パルス軍が一斉に攻撃を開始し、あっという間にルシタニア兵を一人残らず縛り上げてしまった。



ミトはまだ呆然と立ち尽くしていたのだが、馬から降りたナルサスに頭を軽く叩かれ、ようやくはっとして顔をあげた。
ナルサスが穏やかに微笑んでいるのが見えた、と思った途端、彼の身体が覆い被さり、腕がミトの背にまわった。

「……」
「……ナ、ナルサス」

ナルサスは無言でミトをぎゅう、と抱き締めていた。その腕の中で、少し苦しいのだが、もがきもせずにミトは大人しく彼の体重を受け止めていた。

「ミト、怪我はないか?」
「は、はい、大丈夫です」
「……は〜、ならよかった。まったく、心配した」

彼は身体を離してミトに視線を合わせるようにやや屈んだ。大きな溜息だが、それは安堵からくるもの。どうやらミトのことが本当に心配だったらしい。

「……ありがとうございました。私、ナルサスに助けられてばかりですね、ごめんなさい」
「いや、俺がいちいちおぬしを助けているだけだ」
「じゃあますます、すいません……」

助けてくれるのは嬉しいが、迷惑をかけているのかも、と俯いたとき、頭の上にぽんと大きな手が置かれた。

「好きで助けているのだから、気にしなくてよい」
「……す、すき……」

そう言われた途端、頬が熱くなったような気がしてミトはさっと顔をそむけた。

「さあ、ペシャワールに戻るぞ」

捕らえたルシタニア兵をペシャワールに連れて行く準備が整ったようなので、ミトたちも帰還することにする。
きっとミトとエラムがルシタニアに捕まっていることはアルスラーンの耳にも入っているはず。早く戻って元気な姿を見せてあげなければ――と思っていると、ミトの身体がふわりと浮いた。

「わ、わわ、ナルサス!」

ナルサスにひょいと抱えられ、ミトは彼の馬の上に乗せられた。「おぬしがぼんやりしているからだ」と彼は笑って、ミトの後ろに跨る。
背中に感じる温かさが、どこか懐かしい。これほどまでに安心させてくれる人を、ミトは知らなかった。意図せず、目が熱くなり、涙がたまっていく。

「戻ったらいろいろと訊かせてもらうことになるだろうが、今は安心するといい」
「は、はい……」
「それにしても、この俺が職務を放棄してまで駆けつけたのだから、もっと感謝してもいいのだぞ、ミト」
「で、ですよね、ナルサス忙しいのに……本当にありがとう」

一定のリズムで走る馬の背で、ミトとナルサスはふたりきりだった。二人の時間、この速さは、ふたりだけのもの。他の誰もいない世界だ、と思うと、より一層愛おしく、代え難い幸せに思えた。

「まあ、おぬしが無事でよかった」

ミトの耳に唇を寄せて、ナルサスがそう言ったとき、ミトの目から思わず涙がこぼれた。

「うっ……」

安心した。この人に会えて、心の底から。溢れ出る気持ちが涙となって頬を伝っていくのを感じると、よくもここまで溜め込んだものだと自分でも驚くほど、ぽろぽろと溢れだしてきた。
これがミトの気持ちそのものだとしたら、いつの間にこんなに膨れ上がっていたのだろう。

ナルサスは優しく微笑んで、大きな掌で頭を撫でる。それがどうにも恥ずかしくて、ミトは彼の外套の裾で涙をふく振りをして、赤くなった顔を隠すのだった。


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