ふたりの「時」が波のごとく寄せた。音もなく、重さもなく、かたちすらも感じられなかった。

私はあの日、うつらうつらと電車に揺られているうち、いつの間にか眠りに落ちてしまったのだと思うのだけれど、ふと気が付いたら、埃っぽい空気で喉をやられて、小さく咳をしていた。

「……あれ、なんでここにいるんだっけ」

ぼうっと瞼をこすりながら、夢なんだろうな、と思った。でも、声が現実感を帯びていて、鼓膜の震えが奇妙なほど鋭く感じられた。
だとしても、この目の前に広がる光景は夢だと思わざるを得なかった。

そびえるビルの谷の中から見上げる空。暗がりに浮かぶ何百という光の束。ざわつく人々の往来。それがいつも目に入る景色のすべてだ。
しかし、今あるのは、うっすらと黄色に色づく風。目を焼くほどの太陽の光。足元から赤みを帯びた土が遥か彼方まで広がり、その中に点在する緑の木々。道は見慣れたアスファルトではなく、踏み固められただけの大地。駅も、電車も、ビルも、マンションも、人間すらも見当たらなかった。

「…………どこまで乗り過ごした?」

自分の言葉の不思議さに、自分で笑えた。△△線にいつまで乗っていたって、こんな駅、こんな景色の場所に辿り着くはずがない。
頭が覚醒してくるにつれ、呼吸が苦しくなってきた。日差しは強く、肌が熱い。暑さからくる汗なのか、あまりの途方もなさからくる冷や汗なのか、わからないが、生暖かい水が頬を伝った。
一歩踏み出すと、じゃり、と砂が足の下で鳴った。陽炎が揺れた、よくテレビで見る砂漠の映像のように。だがこれは映像ではない。

ふと、雷が轟くような音が耳に聞こえ、私は目を見開いた。
何かが大地を打つような力強い音が飛び込んできて、眠りから叩き起こされたような心地がした。まさに、これが夢ではないことを一層強く感じさせるような響きだった。吉報か、凶報か、ひとつも推測できそうな情報がなく、ただ立ち尽くすしかない。

「…………!」

陽炎の先に影が現れたとき、それが馬に乗った人間の集団だとすぐにわかったが、声が出なかった。
彼らにみつかったらどうされるのか、私を助けてくれるのかどうかというより、私は助けてもらわなくてはならない状況なのかどうか、自分でも事態が飲み込めていなかった。

馬たちははじめ私のいる方とは少し違った方角を向いていたが、誰かが私をみつけたらしく、馬首をめぐらし、まっすぐこちらに駆けてきた。
その間、やはり私は突っ立って見つめているだけだった。恐怖、期待、その他の感情もなく、ただ時が過ぎて一体どうしてこんなことになったのか知れればいい、と思うことしかできなかった。

「何者だ?」

馬に乗った人間たちは30人ほどいたのだが、私の知る人間どもではとうてい敵わないほど統率のとれた動きで、あっという間に私を取り囲んだ。
彼らは恐らく甲冑と呼ぶようなものを着こんで、武装していた。腰に差した剣には生々しく血の跡のようなものが染み込んでいたが、どこか他人事のように私の目に映った。
何者だ、と問われたがそれに対する答えは持ち合わせておらず、なんと言えばいいか考えあぐねていると、「お若い女性で武器も持っていない、となると、キャラバンからはぐれたのか」と続けて馬上から投げかけられる。

「ええと……」

またしても答えられずにいると、彼らの中に不審がる空気が一瞬にして流れ込んだようだった。

こいつ、おかしいぞ、この時勢に武器も持たず、たったひとりで街道を。しかもこの服装はなんだ、見たことがないぞ、どこの国のものだ。
そんな言葉が馬上で飛び交った。

「すみません、頭を打ってしまったみたいで、自分でもなんでこんなところにいるのかわからず……」

素直にそう告げるしかなく、私は心細げにワンピースの裾を掴んで眉を下げて見せた。すると彼らも半ば同情した様子で、顔を見合わせるのだった。

「我らに敵意はないようだが、おぬしの身元が不明であるから、街までご同行願いたい」

短い相談のあとで、彼らのうちの一人が馬を降り、私にそう呼びかけた。行くあてもないからむしろ喜んで、とは言わず、ただ頷いた。

武器も持たず、武術の心得があるようにも見えない私は、とくに手足を縛られるようなこともなく、馬に乗せられた。言葉がわかるのが幸いだと思ったが、それもおかしなことだった。ここは私のいた国とはまったく気候が違うし、同じところを探す方が骨が折れそうだというのに。


***


私の家族は、友達は、小さな部屋は、一体どこへ行ってしまったのだろう。

彼らの都だという巨大な壁に囲まれた街を目指しながら、私は陽炎のように揺れる記憶に少しずつ触れてまわった。
そうでもしないと本当の意味で一人になってしまいそうな気がしたのだ。
私は私を知っている。家族がいて、友達がいて、アパートの小さな部屋に住んでいて、狭くても日当たりの良いその部屋を気に入っていて。
だけどここには知らない空気、知らない砂、知らない太陽。
私は一体どこの誰なのか?
きょろきょろと辺りを見回す気にもなれなかった。手掛かりなどという甘い期待を持つ意味がないことはわかりきっていたからだ。
一歩、馬が進むと、頭にかかった靄――というか、この現実を受け入れようとしない意思が、少しずつ晴れていった。諦め始めた、ということになるのだろう。
実際、暑さでこめかみを濡らすこの汗が、夢のものだとは少しも思えなかった。

私の後ろに乗り、手綱を操る兵士が小さく息を吐いた。いよいよ街が近くなってきたのだ。

「もうすぐだ、あれがルシタニアの王がおわす都――エクバターナである」



***



エクバターナ、と教えられた街は、周囲を堅牢な城壁に守られた巨大な都市だった。

いくつかの手続きを経て(私の両手を縄で拘束することもそれに含まれていた)、城門をくぐると、そびえたつ城を見上げるように、家々が並び立っているのがわかった。街は、あまり活気がなく、人々はどこか隠れるように誰とも目を合さず、こそこそと歩いていた。その衣服は良く言えば軽く涼しげで、悪く言えば粗末なものだった。家は白い壁で、日差しを避けるかのように、窓は小さい。一方、露天に並ぶのは色とりどりの果物や野菜、鮮やかに色を織り込んだ絨毯などで、殺風景な建物とは違い目を楽しませた。
私の知識からすると、それはペルシアとかそういう世界に近いと思う。さすがに街の中に入ると、珍しい景色たちが目に入り、私は興味津々に辺りを見回していた。

「すみません、ここはなんという国なのでしょう」

話しかけない方がいいと思って大人しくしていたが、あまりにも何も知らないのでは、生きていくこともできないだろう。私は馬上で振り返って、兵士に聞いた。

「先も言ったがここは……ルシタニアだ」
「ルシタニア」

聞こえた音をそのまま繰り返したが、知らない名だった。これほど大きな街ならば、国名くらいは知っているかと思ったが。
しかしどうもそういう問題でもないらしい。街を眺めるうちに、さらに嫌な予感がしてきて、私はもう一度振り返った。

「すみません、あと、教えていただきたいのが」
「なんだ」
「……今は、何年なのでしょうか」
「それもわからんのか」

驚いた様子で兵士は目を丸くした。そしてすぐに、不審そうに眉を寄せる。それは私も鏡のように同様の表情をしていたからだろうか。

「今年は……」
「約束が違うぞ!お前たちに協力すれば褒賞と権利をくれると言ったではないか!!」

突然、怒鳴り声が飛び込んできて、私も兵士もびくりと肩を跳ねさせた。どうやら一本通りをはさんだところで、喧嘩かなにかをやっているらしい。私と共にいた30人ほどの兵士たちは、リーダー格の兵に促され、そこへと馬を進めた。

角を曲がると、関係のない街の人たちも集まってきたのだろうか、人だかりが出来ていたので、兵たちは馬上から怒鳴りながら乱暴に人を掻き分け、その中心へと向かっていった。
少し遅れて私の乗る馬が進み出ると、そこでは頑丈そうな男が数人で、比較的高価そうな服を着た男に詰め寄っていた。手には武器未満の棒きれが握られているが、身体の大きさから侮れないものに思われた。

「何事だ!」

私たちの中から野太い声が飛ぶ。背後の兵士が「ちっ、また奴隷か」と呟いたのを、私は聞き逃さなかった。

「あんたたちは、ルシタニアの騎士か?」

奴隷と言われた強そうな男は、憎しみを込めた目でこちらを振り返った。
抜け目なく、他の奴隷が「高価そうな服の男」を羽交い締めにして締め上げた。人質をとった格好だ。あたりに緊張が走ったのがわかる。

「いかにも」
「なら俺たちがあんたたちに呼応して城門を開き、軍を入れてやったのを覚えているだろう!そうしたら、俺たちをパルスの奴隷から解放すると言ったではないか!」

奴隷の男は声を張り上げた。彼らだけでなく見守る街の人々も、怒りで拳を握りしめたような気がした。
この中で私ただ一人が、状況がわからずにいるようだった。

エクバターナ、ルシタニア、奴隷、パルス。
今までに出た言葉を反芻してみるが、うまく消化することができない。いっそ、後ろの兵に尋ねてみようかと思って振り返ろうとしたが、その瞬間、場違いな笑い声が聞こえたため、私はそのまま視線をもとに戻した。

「ははははっ!異教徒との約束など守る必要はないに決まっているだろうが。貴様らは、豚や牛と約束をするのか?」

そう言ったのは私たちの中にいた兵士であった。
状況がわからずとも、それが人の権利や信仰のみならず生命すらも軽んじた嘲りだということはわかった。兵士たちは続いて笑ったが、私は笑えなかった。奴隷の男の目と、周囲の人々の目が暗く光ったのを感じたからだ。

不意に、奴隷の男は爆発したように叫びながら手に握っていた棒を力任せに投げつけた。
乾いた空気をぐんと裂いて、それは先に侮辱した兵の柔らかい喉を貫いた。まだ笑い声が続いている最中だった。

赤い血が噴き出し、兵士は馬上から崩れ落ちた。

戦慄が走った。

しかしそれは私たちの間にだけで、見守る人々は、むしろ勇気の泉を得たかのごとく、人間とは思えぬ声で吼えて、武器と呼べそうにないただたまたま手に持っていただけの籠や壷を掲げて、蜂起したのだ。

「エクバターナの人々よ!パルスの人々よ!この蛮族どもには言葉は通じぬ!我らの生命を守るために、排除しなければならぬ!」
「おおおおお!」

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