地図を借りて初めてミトはこの国と周辺の地理について知ったのだが、北をダルバンド内海、南を海に囲まれた地形では、大陸を東西に往来しようとするとどうしてもパルスを通過せねばならず、富が集中するこの地を手にしたいとは誰もが思うことだった。
当然、周辺諸国から歴史上何度も侵攻を受けたが、パルスの兵は強く、常にそれを跳ね除けてきた。

とくにアルスラーンの父王アンドラゴラス三世の治世においては、戦で負けたことがなく、それだけにアトロパテネでの敗戦から王都陥落までの出来事は、パルス人たちにとっては信じ難いことだったようだ。



***



ダリューンとナルサスがルシタニア占領下のエクバターナに潜入して得た情報によると、アルスラーンの母である王妃タハミーネがルシタニア王に結婚を迫られているらしい。
救出せねばと焦るアルスラーンだったが、ルシタニアにとって異教徒であるタハミーネとの結婚は、ルシタニア内部での混乱を呼びかねないから、そう簡単に事態が動くということでもなさそうだ。
短い相談のあとで、王妃救出は最優先課題とはせず、別の目的のため、隠れ家を発つこととなった。

アルスラーン王子一行は、ニームルーズ山中にあるカシャーン砦の城主ホディール卿のもとを目指した。
王子の部下がたった六人しかいないという状況から攻勢に転じるため、三千の騎兵と三万五千の歩兵を持つホディールに助力を求めるのである。

ニームルーズの山嶺は、パルス王国の国土のほぼ中央、やや南よりの地域を、東西に渡って貫いている。普段はこの山道を往くものは隊商ぐらいしかなく、静かなところであるのだが、今は、猛々しい馬蹄のとどろきが何百と駆け抜けていく。
前を疾走するのは、たったの六騎。その後を、武装した兵団が猛追している。

「ルシタニアの追手の数は?」
「五百騎というところか」
「ちと多いな。四百騎までなら俺ひとりでもどうにかなるが」

並んで馬を走らせているギーヴとナルサスが、ともに後ろを振り返りながら、大声で話していた。蹄が大地を叩く音が、山道で反響して、もっと大規模な兵団に追われているかのような気がしてくる。
ギーヴの戯れ言は無視して、ファランギースが王子に馬を並べた。

「殿下!もうすぐダリューン卿が兵を連れてまいりましょう。ご辛抱くださいまし」
「うむ!」

アルスラーンの六人の部下のうち、ここにはいないのが黒衣の騎士ダリューンだった。彼は一足先に、カシャーン城塞へ赴いている。
半日遅れで出立したアルスラーンたちだったが、運悪く付近をうろついていたルシタニア軍に発見されてしまい、こうして追われることとなったのだ。

ファランギースは弓を手にとると、馬上で半身をひねり、狙い定めて放った。彼女の矢は、先頭を走っていたルシタニア兵の口のなかに飛び込んだ。

「おみごと」

ひゅう、と口笛を吹きながらギーヴの放った矢も、兵士の鎧の継ぎ目の部分を貫いていた。まさに神技である。

「すごい……」
「お褒めに預かり光栄です。褒美をいただく代わりに、おぬしの妙技も披露してくださらんか?」

そうやってキラキラと笑いかけられると、自分の身は自分で守れると威勢のいいことを言った手前、断ることも出来ないわけで、ミトは弓を構えた。
ただでさえ異界から来たなどと奇妙なことを言って彼らの警戒心を煽っているのだから、信用してもらうためには自分を知ってもらわねばならい。
上下に激しく動く馬上から狙った的を射抜くには、相当の技術が必要だ。しかしミトが何も考えず矢を放つと、吸い込まれるようにしてルシタニア兵の頭に命中し、だらりと力を失った身体はまもなく落馬した。

「なるほど!素晴らしい腕前だ」
「……馬上で弓を射るのは初めてなんだけど、なんとかできました」
「は、初めて!?」

ギーヴは素っ頓狂な声を出したが、周りの者も驚いているようだった。
これがミトがこの世界に来てからなぜか身に付いた能力で、剣も、弓も、おそらくその他の武器も、馬でさえ、人並み以上に扱えてしまうというものだった。



王子一行とルシタニア軍との攻防はしばらく平行線を辿ったが、断崖の端をまわったところで、突然パルス風の角笛が響き渡った。

「ダリューンだ!」

崖の上に、黒衣の騎士が現れ、続いて無数の矢がルシタニア兵めがけて降り注ぐ。左右に散開しようにも狭い山道では不可能で、次々と矢に撃たれ倒れていくか、そうでない者は死ぬ物狂いで逃げ出していった。



***



ダリューンが連れてきたホディール卿からの援軍と合流し、王子一行はカシャーン城塞へと向かった。

「アルスラーン殿下!よくぞご無事で!」

城門を開けて待っていた、肥満気味の、絹服をまとった男が、ここの城主でパルス諸侯のひとり、ホディール卿であった。

貴族のなかで、領地と私兵を持つ者を「諸侯(シャフルダーラーン)」と呼ぶのだが、パルス全土で百人程度しかいない大貴族だ。
ところで、そう説明してくれたファランギースから、ナルサスの死んだ父も諸侯のひとりとしてダイラム地方を領有していたとこっそり聞いて、ミトは素直に驚いた。王子のそばにいることや、知的な言動や見た目から、身分が高い人なのだろうと思ってはいたが、それを振りかざすようなそぶりはほとんど見せなかったのだ。
ホディール卿は名のあるダリューン、ナルサスのことは知っていたようだが、それ以外の者は貴族などではないので、それぞれ肩書きと名前を名乗った。ミトは、ひとまずファランギースに同行していた女神官見習いということにしておいた。彼女と並ぶと見劣りしてしまうが、あえて話をややこしくするのも面倒だった。

「ホディール、世話になる」
「殿下!アトロパテネの敗北を知りましてより、国王陛下と王太子殿下のご安否を気遣っておりました!ですが、私一人の力をもってしてはルシタニアの大軍に復讐戦を挑む術もなく、ただ心を痛めるだけでございましたが……今日、ダリューン殿が我が居城へ見えられ、私めに殿下への忠誠を示す機会をくれたのでござる」

大勢の奴隷を左右に跪かせ、王子の通る道をつくり、その中をゆったりと歩みながら感激したようにぺらぺらとよく喋る城主を、ギーヴはうさんくさそうに眺めている。

「ファランギース殿、あの男をどう思う?」
「よく喋る男じゃ。舌に油でも塗っているのであろう。それもあまり質の良い油とも思えぬな」
「まことにおしゃべりな男は、そのことでかえって不実をさらけ出すものだな!」
「誰かのようにな」

美しい女神官の辛辣な言葉を右から左の耳に流し、ギーヴはもうすでに祝宴のことを考えていて「まあ、善人だろうと悪人だろうとそれで葡萄酒(ナビード)の味が変わるものでない」と舌で唇を潤した。

「葡萄酒って、ワインのこと?」
「ん?そのようなものは存じませぬが、その名のとおり葡萄や果実から作った酒のことですよ。ファランギース殿やミト殿が神々の美酒に酔われる姿も一段とお美しいのであろうな」

聞きなれない単語も、ミトは一つ一つ覚えていかねばならないのだが、訊く相手を若干間違えてしまったようだ。ギーヴは輝く笑顔を浮かべてミトの肩に手を置いた。近くで見ると、笑顔とともにうっすらと悪意が漂っている。

「年長者の進める酒は断ってはならぬとこの国では決められております。幸運の女神アシのご加護を受けしこのギーヴが、パルス風の酒宴について手取り足取り教えてさしあげましょう」

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