デマヴァント山から王都エクバターナへ戻るまで、丸三日程を要する。
馬で駆けながら、草木や気候の変化を流し見る。奇怪な山陰も遠のき、順調に王都へ近付いているとわかるが、日が経つにつれ、ミトは自分の心が苦しくなっていくのを感じた。
怖いのだ、そこへ向かうのが。
もう何度も迷って、それでもやり遂げると決めたのに。未練があろうとも、自分にできることをしなければと頭では理解しているけれど、どうしても、心が追いつかないのだった。

明日には王都に到着できる距離になり、早めに野営の準備をしようということになった。
野営といっても軍ではなく数人でのものなので、かなり小規模だ。アルスラーンを中心にし、彼を守るように寝具を敷いて。焚き火にゆらゆらと照らされるみんなの顔を、ぐるりと見回せる程ちいさな輪だった。
王都エクバターナがルシタニアに占領され、王太子アルスラーンとダリューン、それにナルサスやエラム、ギーヴ、ファランギースを加えて脱出したばかりの頃に戻ったような感覚だった。たしかに絶望の底にあったのに、彼らと一緒ならばきっとなんとかなると思えたあの時のことを、ミトも、ここにいる全員も昨日のことのように思い出せるだろう。

「ミト、少し話さないか」

支度を終えたところで、ナルサスに呼び止められた。
かつてはミトの方から「ナルサスの時間を私に少しくれませんか?」なんて彼に声をかけていたことが頭の中に蘇る。あの時は、過去に彼と出会っていたとは考えもしなかったし、彼に対する気持ちも今とは違っていた。自分を助け、居場所をくれたことへの感謝と敬愛。それがあの頃の想いだが、今はもうそんな一方的な思慕だけでは足りないし、彼がいないと生きていけないと思うほど、愛しすぎていた。

「はい、喜んで」

そう言って立ち上がり、仲間たちの輪から自然と外れた。月が出ているから何も見えないというほどではないが、暗い林の中を二人で無言で進んでいき、少しだけ離れたところで足を止めた。
どんな話をするつもりなのかは知らないが、だいたい見当はついていた。だから、もうすでにミトの目には涙が溜まっていて、いまにも溢れてしまいそうだった。前を歩いていた彼が振り返る前に、ミトは彼の背に抱きついていた。

「お、おい、ミト?」
「……このままで話そうよ」

大きくてあたたかい彼の背中越しに、ミトは呟いた。こうして腕をまわしていると、ナルサスの存在が、旅を通してミトのなかで抱えきれないほど大きくなっていたことにいまさらながら気付く。

「お話ってなんですか?ナルサス」
「俺はミトの顔を見て話したいんだがな」

彼から返事のかわりにやや溜め息が漏れたことも、いとしくて仕方なかった。でも、これが本当に最後の夜になるとわかっているから、ミトはこんな顔を彼に見せるわけにはいかなかった。

「じゃあ私から話してもいい?ねえナルサス、私デマヴァント山でへんな声を聞いたの。神様のお告げみたいなやつ」
「ほう。ギーヴのような悪い霊がおぬしに語りかけたのかもしれぬが……どんなものだった?」

いつもの調子で言われて、少しだけ笑う。こんな時間が本当に貴重で大切だった。幸せを噛み締めながら、ミトは魔の山で聞いた不思議な言葉を、一言一句漏らさずに彼に伝えるのだった。

――王都は再びパルスの手に取り戻されようとしている。お前がここへ来た意味もじきに果たされるだろう。その命を正しく費う時が来る。

それを聞いたナルサスはしばらく黙ったままでいた。
否定しないのは、たぶん、彼の考えていることと同じだからなのだろう。表情は見えないけれど、そうなのだと思う。

「もういまさらだけど、私、たぶんこの先のエクバターナで、きっとナルサスを守って消えるんだよね。そしたら、ナルサスがこの国の未来を創ってくれるんだよね」
「……ああ。俺も、今がその時なのだと思う」
「そうだよね……そう、だから……もうわかってるから、私は大丈夫だけど……っ、やっぱり、少しだけ寂しくて、怖くて、ナルサスと離れるのが……いやで……」

無意識に、彼を抱く腕にぎゅっと力が入る。胸が苦しくなって、また涙が溢れてしまいそうになる。こんなに近くにいるのに、不安で仕方なくて。

「ミト」

不意に優しく名前を呼ばれて、力が抜けた。するりと腕をほどかれ、彼はこちらに向き直った。あわてて顔を覆った手もすぐにつかまれて、ついに目が合ってしまう。

「ナルサス……」

声と足が震えて、立てなくなった。ずるずると地面に座り込んで、目にいっぱいに涙が浮かび、零れ落ちた。ああ、だめだ。泣かないように頑張っていたのに。
ぼろぼろと溢れて止まらない涙で視界が歪む。ナルサスは身を屈めて視線を合わせてくれるが、その表情があまりにも優しくて、また泣けてきてしまう。

「うう、見ないでこんな顔」
「なぜだ。この泣き顔だって俺のものだろう」
「そう、私はナルサスのものだから……だからなおさら、いつまでも覚悟を決められない自分が嫌なの」

こんな弱気では、彼を守るなんて言えないし、彼にふさわしくなくて、嫌になるのだ。しかし、彼は「嬉しいことを言ってくれるな」なんて口にして、もう一度ミトの手を握るのだった。

「そう卑下するな。覚悟なら俺の方が決まっていない。少しもな」
「……は、え……嘘でしょ」
「正直な話、俺の方がミトよりもずっと怖がっている。俺におぬしを守りきれるかどうか……わからないからな」

手を重ね、指を絡めると、わずかに、彼の手が震えているのがわかった。
これまでどんな危険な場面でも余裕の表情で切り抜けてきてしまった彼の、こんな様子を見るのは、本当に初めてだった。

「ってことはナルサスでも、これからどうしたらいいかまだわかってないってこと……?」
「……情けなくてミトには言えていなかったが、そういうことだよ」

肩を竦めて、彼は白状する。魔法じみた力で未来を見通し、なんでも思い通りに操ってきたのに、ミトのことだけは、彼にも正解がみつからないらしい。

「……ふふ、ナルサスでもこんなふうになっちゃうんだ……」

しかし、がっかりしてもいいところなのに、ミトはなぜか嬉しかった。たぶん、彼と自分が同じ想いでいたことがわかって嬉しかったのだ。未来が選べるかどうかもまだわからない、でも、この人と一緒にいたいと心から願っている、そのことだけは。

「それでも、最後まで俺のことを信じてくれるか?」
「……最後も、その先も、ずっとずっと信じてるよ。こんな最強の軍師ほかにいないもん」
「そこは宮廷画家と言ってくれてもいいのだぞ」
「うん、どっちでもいいよ。絵を描いてるナルサスも、剣で戦ってるナルサスも、策士なナルサスも、どんなナルサスも、私はほんとに大好きだから」

そう言ってやっと微笑むことができた。すると彼は少しだけ目を丸くしてから、居ても立ってもいられなくなったように、ミトに覆いかぶさってぎゅっと抱きしめた。

「……ミトとずっと一緒にいたいな」
「あれ、なんかめずらしく甘えてる?」
「たまにはいいだろう」
「そうだね、たまにはこんな可愛いナルサスも、大好きだよ」

肩に顔を埋めて呟く彼がどうにも弱々しくて、対照的にミトは少し元気になった。聡明で格好良くて綺麗で余裕綽々な彼も、こんなふうにやけに素直な彼も、どれもが眩しくて替え難く愛おしかった。
子どもにするように、ミトはその髪を優しく撫でた。十年前に出会ったときの少年の面影もどこか感じる。あの頃から少しも変わっていない、いつも正しい道を選べるひと。これからのこの国に絶対に必要なひと。私が、死んでも守らなくちゃいけないひと。
いや、守りたいんだ、心から。彼を苦しめるすべてから守りたいと願っている。それが私の望みだから。

「……朝までこうしていていいか?」
「だめだよ。ちゃんと寝て休まなきゃ。みんなのところにも戻らなくちゃだし」
「そうか、仕方ないな。では口付けだけ」

頬に手を添えて、彼の顔が近付いてきて、目を閉じる。甘くて優しい感触に、胸がぎゅっと苦しくなった。

彼と、もっともっとたくさんの時間を共有したい。ずっと一緒にいると約束したい。でも、どうしたらそうできるのだろう。明日までに答えは出るだろうか。悩みは尽きないのに、時間は止まらずに進んで、星が瞬いて雲が流れた。
私も彼もこの世界の人々も同じ時の中にいる。誰にとっても同じように未来があるはずなのに、わからない。私の未来、彼の未来。私がここへ来た意味は。私の運命は。
――すべてが、彼を、守り生かすという使命に収束するならば。

いよいよ、歴史が変わる朝がやってきた。

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